Show Your Hand!!

本、映画、音楽の感想/レビューなど。

『マチネの終わりに』/平野啓一郎

マチネの終わりに (文春文庫)

天才的なクラシックギタリストの蒔野と、フランスの通信社で働くジャーナリストの洋子との恋愛を描いた小説。ふたりは出会うなり互いに強く惹かれ合うが、洋子にはすでに婚約者がいた。とはいえ、互いを想う気持ちは日に日に高まりまくっていってしまい、これはもう心を決めるしかない、とふたりはかんがえるように。だが、まさにそのとき、彼らの運命を一変させるすれ違いが引き起こされるのだった…!

ネットでレビューや感想を見ていると、本作への批判は、主に物語中盤で引き起こされる「すれ違い」があまりにもご都合主義的で、作りもの感満載である、という点に対するものが多いようだ。たしかに、俺自身、この小説を読みながら、うわ、この展開、まじかよ…!と一度は本を閉じそうに――というか、Kindleからアンインストールしそうに――なったくらいなので、そういった批判はある程度妥当なものであるようにおもえる。けれど、本作を最後まで読み終えてから改めてかんがえてみると、そのような都合のよさ、作りものっぽさ、嘘っぽさ、安っぽさ、メロドラマっぽさ、といった要素こそが、本作のテーマと響き合っているようにも感じられるのだ。

この世界では、チープな悪意やおもい込みや、しょうもない誤解といったものが、あまりにもたやすく、なんとも理不尽に、ばかばかしいくらい乱暴に、人の生をねじ曲げてしまう、そういったことがたしかに起こりうる。そういうむちゃくちゃな、物語の展開としてどうなの、と言いたくなるようなできごとが不意に訪れてしまう、そんなふざけた場所こそが、まさしくこの世界であり、そんな展開に巻き込まれることこそが、まさに生きるということなのだ。

そして、信じ難いことに、彼女の犯したこの哀れな罪は、どうやら露見しないまま、現実をすべて彼女の思惑通りに変えてしまったらしかった!その経緯は今以って謎だったが、つまり、蒔野と洋子とは、あの夜を機に、恋人同士ではなくなったのだった。
早苗は、その悪い奇跡のような幸福に、どことなく薄気味悪さを感じた。

運命とは、幸福であろうと、不幸であろうと、「なぜか?」と問われるべき何かである。そして、答えのわからぬ当人は、いずれにせよ、自分がそれに値するからなのだろうかと考えぬわけにはいかなかった。

わけのわからない運命に巻き込まれながらも、それでも人は自分なりの幸福を求めて生きていく他ない。本作で主人公たちが経験していくイベントは、決して明るく心おどるようなものばかりではない。というか、むしろ痛みや苦しみ、倦怠や悔恨を伴うようなできごとがほとんどだと言ってもいい。ただ、そんな苦しみや安っぽさやふざけた欺瞞に満ちた生であったとしても、すべては捉え方次第だ、というのもまた本書の主張だと言えるだろう。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」

物語の序盤で蒔野が洋子に対して語り、その後作中で何度もリフレインされる台詞だが、「過去を変える」未来を求め続けることで、どんな生であっても、どんな過去を持っていたとしても、人は常に前に進んでいくことができるし、幸福を見出すことのできる可能性はつねに開かれている、ということを語っているようにも感じられる。

そんな風に感じられるのは、小説のなかで、時の流れによってすべてが少しずつ変化していき、登場人物のそれぞれはそれぞれなりの場所にいずれ流れ着いていく、という穏やかな感覚が描かれていることによるのだとおもう。未来による過去の書き換えの可能性を信じること、それは、きっとどこかにある天上的な「まだ知られていない広場」を探し求めるようなことで、その成就というより、その探究のプロセスにおいてこそ、人は幸福を感じられるものなのかもしれない。そんな気がする。