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『闇の中の男』/ポール・オースター

闇の中の男

オースターの2008年作。2000年代にオースターが書いていた「部屋にこもった老人の話」の第5作目ということで、本作も、ひとりの老人が自室の暗闇のなかで眠りにつくことができず、頭のなかで物語をあれやこれやとこねくり回している場面から始まっている。

老人が夢想するのは架空のアメリカ、9.11が起こらず、その代わりにアメリカがふたつに分裂し、いつ終わるともしれない戦争を繰り広げている、という暗澹とした世界である。そのディストピア感は、オースターの旧作『最後の物たちの国で』をおもい起こさせるようなものだ。ただし、この分裂したアメリカの物語は、読者に強烈な印象を残しつつも、ストーリーとしてはじゅうぶんに展開されることなく、どこか中途半端な状態のまま、小説の中盤で消えていってしまう。老人は、作中で自らの妄想そのものが内戦の原因であるとし、主人公の若者に戦争の元凶たる物語作者を殺させようとするのだけれど、その試みはあっけなく失敗、単純なバッドエンドを迎えてしまうのだ。

彼が「不眠症をくぐりぬけようとあがいて」ひとり頭のなかで練り上げた物語は、彼の過去に基づく哀惜や後悔といった感情を間違いなく反映してはいるものの、しかし彼の現実世界での痛みを癒やすのにはまったく役立つことがない。それは、他者に語られることなく夢想されただけの物語は、それ自体ではどこへ行き着くこともない、ということを示しているようにも感じられる。

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そして、そんな妄想物語に代わって老人に実際的な効果ーーある種の癒しというか、赦しのようなものーーをもたらすのは、本書の後半部で行われる、彼と孫娘との語らいである。眠れぬ夜のなかで、老人は孫娘に問われるがまま、自らの過去の記憶を振り返り、赤裸々に語っていく。それは愛についての記憶であり、そしてその成就の困難さと痛みについての記憶である。

過去のできごとをおもい起こす、追憶するということは、過去を題材にして物語を語ることだと言ってもいいだろう。人は、過去に起こったできごとそのものを変えることはできないけれど、現在という地点からそれについて語ろうとするときには、それをひとつの物語として語ることになる。過去というのは必然的に物語化されてしまうものなのだ。

そして、そんな風にある恣意性をもって語られた過去という物語であったとしても、それを聞いた他者が、語り手が想定していたのとはまた異なる意味合いを物語の内に見出す、ということがあり得る。ある人が、私にとってこの過去の出来事はAだ、と物語を語ってみせたとき、それを聞いた他者が、いや、それはBでもあるだろう、と言うことができるわけだけれど、それこそが、物語を誰かに対して語るということに内包された可能性だと言うことができるだろう。物語るということは、語り手と聞き手における、双方向的な営みなのだ。

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人は誰しも、自分なりの視点で周りの世界を認識し、把握し、解釈を行う。誰しもがそうなのであって、自分とまったく同じ風に世界を見ている人などどこにもいない。でもそれは、人と人とのコミュニケーションや愛といったものの不可能性に結びついているわけではなく、むしろ可能性にこそ繋がっているのかもしれない。

自分自身では、ある固定した意味合いをしか付与することのできなかった記憶に対して、他の誰かがまた別の角度から光を当て、別の解釈を行うこと。そんな可能性が開かれているのが、他の誰かと共にいること、他の誰かと語らうということなのだ。主人公の老人は、過去にやってしまったこと、起こってしまったできごとをやり直せるわけではない。けれど、それを誰かに物語っていくなかで、痛みを和らげ、恢復への道筋を見出すようなことが、あるいは可能になるのかもしれない。本作の物語からは、そんなほのかな希望が感じられるようにおもう。

人生ってどうしてこんなにひどいの、お祖父ちゃん?
ひどいからひどいのさ。それだけだよ。そういうものなんだ。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんのひどい年月。あたしの母さんと父さんのひどい年月。だけど少なくともあなたたちはたがいに愛しあっていて、やり直すチャンスも訪れた。あたしの母さんは少なくとも結婚するくらい父さんのことを愛してた。あたしは誰も愛したことがない。(p.202)