かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー② 中林貞男

2020年05月26日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと
 
 ② 中林 貞男
     ―「平和とよりよい生活のために」を体現
 
 
1、学生時代、新聞記者、産業報国会
 
 石黒武重についで日本生協連会長となる中林貞男は1907(明治40)年富山県生まれで、早稲田大学を出て報知新聞の記者となり、戦時中は産業報国会につとめ、終戦とともに日本協同組合の設立に参加、以後、生協運動に生涯をささげた中林は1926年、賀川の指導のもと東京学生消費組合が発足した年に早稲田学院に入学した。その年、早大では大山郁夫教授が大学から追放されるという事件が起きたが、雄弁会幹事だった中林は雄弁会会長だった大山追放に抗議し「暴圧反対学生雄弁大会」を28,29年と続けて開催するなど学生運動に挺身した。1928年には共産党党員が一斉に投獄される事件(3・15事件)が起き、また悪名高い特高警察ができた年であり、反戦思想を理由に賀川豊彦らキリスト教関係者も弾圧されていった。
 中林は「軍事教練反対」の弁論をやり職業軍人だった父から「お前がそんなことをやるなら俺は切腹する」と叱責されることもあった。雄弁会や「早稲田新聞」も解散させられ、自由・民主の気概をもつ学生は行き場がなく、東京学消早稲田支部の売店に集まっていた。中林は学消には関わらなかったが、学消の店に集まるだけで特高に捕まるという事態となっていた。
 中林は1932年、大学を卒業、報知新聞社会部の記者になり、2・26事件などかなり生臭い事件をふくめあちこち駈けずり回った。日本は日中戦争、太平洋戦争に向かうが、新聞記者としての後半は当時新しい省だった厚生省担当となった。
 
新聞記者から産業報国会へ
 1940年には国を挙げての戦時体制の仕上げとして大日本産業報国会や大政翼賛会ができるが、中林はその大日本産業報国会の事務局に入ることになった。産業報国会は、挙国一致体制のため企業とか労働組合とか産業と言われる分野を縦割りで一本化した組織だった。例えば、生協でいうと日立造船因島工場にあった因島労働購買組合は日本産業報国会因島支部ということになった。横の社会が町内会と隣組、縦は大日本産業報国会、その上に大政翼賛会ができて政党は解散、戦時ファシズム社会が完成した。
 この時期、中林は旧友の藤井丙午(のち新日本製鉄、参院議員)から産業報国会(産報)の会長平生釟三郎の秘書にならないかと誘われて産報に入った。文部大臣もやった平生釟三郎は賀川豊彦の活動も支援し灘生協の設立も手伝った人だが、日本製鉄や川崎造船のトップもつとめ産報の会長に祭り上げられた。中林の肩書は最後は連絡部長兼組織部長であったが、産報には当時の労働組合の関係者も働いたり協力しており、中林はその人脈は「のちの生協での活動に役に立った」と述べている。
 
2.日協同盟、日本生協連創立のころ
 
 1945年8月、日本の敗戦となり、中林は産報は労働組合等を統合してできた組織なので、即刻解散し、その財産等も労働組合に移管すべきだと主張した。産報は持っていた現金は国庫に納入し、残った財産は神田の事務所の借地権と机と椅子とか文房具ぐらいだった。終戦直後で労働組合の統一的な中央組織はまだ生まれておらず、中林は旧知の東京学消の専務だった山岸晟などから生協の動きとして「協同組合の連中が中央組織をつくろうと賀川を入れて話し合いをすすめている」との情報を聞き、産報の幹部に残った財産は協同組合の中央組織に任せてはという提案をし、関わっていた厚生省も含め了解され、その話を賀川など日協同盟設立のメンバーに伝えた。「それは結構なことだからぜひ君も一緒に来て生協の再建を手伝え」ということになり、本人も事務局長ということで日協同盟に入った。
日協同盟は45年11月に賀川を会長として創立され、46年2月に産報の入っていた救世軍ビルに入った。そこで譲り受けた財産で一番役に立ったのは紙の割当の権利で、日協同盟はその紙を使って新聞を作り、生協づくりや食糧獲得闘争の宣伝をした。「雨後の筍」と言われたように全国の地域、職域で生協が誕生したが、何よりの課題は食糧・物資の確保であり、日協同盟は食糧獲得のための闘争を労働組合と一緒になって取り組んだ。日協同盟の事務局には戦前からの生協経験者が入ったが、生協の経験のない中林は食糧獲得闘争などで中心的な役割を果たした。
 
 日協同盟から日本生協連へ
 日協同盟は重要な課題として生協法制定の取り組みをすすめ、戦前、関東消費組合連盟のリーダーだった山本秋を中心に本位田祥男(協同組合学者)が協力し法案づくりをし、中林たちはその制定実現に取り組んだ。生協法に先立って制定された農協法には信用事業が認められていたが、1948年に成立した生協法には信用事業が認められず、日協同盟は「生協法改正運動を翌日から始めた」状況だった。それが埒があかないまま、中林は労働組合関係者と話し合い、労働金庫づくりに取り組むこととなった。
1948年に生協法が成立し、新たな生協法による連合会・日本生協連の設立準備がはじまったが、この時日協同盟は破産寸前で100人いた事務局が6人まで減っていた。新連合会の発起人の東大の学生で東大生協専務だった福田繁が東大の講堂教室を日本生協連設立総会の会場として確保し、創立総会のスローガンとして「平和とより良き生活のために」のスローガンを提案した。当時の国際学連のスローガン「平和とよりよき未来のために」の「未来」を「生活」にかえての提案だったが、賀川の「それはいい」という一言で「平和とよりよき生活のために」が採用されることになった。
 日本生協連がスタートした時の常勤幹部は中林と木下保雄で、木下は戦前の家庭購買組合と全国消費組合協会(全消協)にいた人で中林とのコンビで事務局を支えた。1960年、私が日本生協連に就職したころは中林と木下が専務理事で、常勤役職員が10人ほどの事務局で、設立間もない日協貿が石黒社長のもと数人で頑張っていた。
 
 労金づくり、事業連の設立
 中林は生協法で欠落した信用事業を何とかしたいと岡山の生協関係者、兵庫の労組のリーダーたちと労金づくりを進め、さらに各方面に働きかけて労働金庫法を成立させた。産報時代からの労働組合関係者などを含む中林の人脈が生かされた成果であり、1957年に全国労金協会ができると事務局長になった。しかし、中林が労金協会事務局長として活動し、報酬の一部も得ていたことは「日本生協連のトップが2足の草鞋をはいている」と批判もでた。
日協貿が設立された1956年、共同仕入れ機関として関西本部が設置され、全国的な卸売事業への期待が高まった。日本生協連理事会でその議論がされたが「今の日本生協連幹部では事業はできない、事業に失敗して指導連までつぶれてはまずい」と別連合会を設立することになった。中林は「私が信用されなかった」と不満だったが、58年、全国事業生協連が設立された。
 
 生協規制反対、全国消団連結成
 1950年代は地域勤労者生協が各地に設立され、労金から資金を借りてわりに大きな店舗をつくったりしたので小売商に衝撃を与え、小売商業特別措置法という法律で生協を規制しようという論議が国会でも論じられるようになった。一方で物価の問題や独禁法の改正など消費者の権利が話題になる社会情勢があり、日本生協連は主婦連などと協議し1957年全国消費者団体連絡会を結成し中林が代表になった。物価値上げ反対闘争と合わせて生協規制反対の運動が消費者団体と一緒に取り組まれた。
 1959年の2月26日には生協規制をねらう特別措置法を阻止しようと日本生協連は雪の降るなか国会前にテントを張って座りこみをした。学生で大学生協連常任理事であった私も仲間と参加したが「勲一等をもらった元国務大臣の石黒さんという人も来ている」と聞いて驚いた。学生の私は先輩たちのその行動をみて「卒業しても生協を続けようか」とも考えさせられた「私の2・26事件」だったが、戦時中「記者をやめたら大衆運動をやりたい」と考えていたという中林にとっても、この取り組みや同年に消団連として全国的に展開した新聞代値上げ闘争などは学生時代を思い出すものだったと考える。
 
3、成長期の生協の時代
 
 消費者運動、反核平和の取り組み
 中林は1963年に日本生協連の専務から副会長になるが、64年に大学生協の支援で京都の洛北生協が誕生すると札幌市民生協、埼玉の所沢生協などの設立が続き、60年代末から新設生協が全国的に誕生していった。65年に事業連と合併した日本生協連は消費者・組合員の立場で開発したコープ商品の開発、提供でその発展を支え、事業も拡大し会員の支持も強まっていった。日本生協連自身も首都圏に日本を代表する生協をつくろうと「首都圏大生協構想」を打ち立て、東京生協づくりを始めた。その支援のための関連人事で私は日本生協連から早大生協に移り、専務として職員を何人か東京生協に派遣した。しかし、設立後出店した2店舗の経営がうまくいかず、その計画は挫折、見直されることとなった。日本生協連は副会長の中林が中心になって起案し総括を70年の福島総会に「総会結語」として提案した。それは組合員に依拠しない事業、店づくりは間違いだったというものだったが、直後に札幌市民生協の多店舗展開による経営破綻などが問題になり、生協の出店への批判、共同購入こそ本道といった論議を生んだ。しかし、東京生協の失敗の基本は連合会が直接生協組織をつくり、組合員代表の参加しない理事会がすべてを執行したことにあり、店舗か共同購入かといった問題ではなかった。早大生協はじめ大学生協は同時期に再建支援を要請されていた生協や新たな生協設立の動きに、「組合員に依拠」ではなく「組合員が主人公」の原則で支援活動を強化することとなった。
 71年に中林は石黒の後を継いで日本生協連会長になるが、70年代は有害商品とか環境問題等多くの消費者問題が出てくる時期で、誕生・発展する生協が消費者運動の中心になっていく時代だった。消団連に長らく関わってきた中林は国民生活審議会等のメンバーでもあり、日本生協連の中で指導性を発揮するとともに米価など物価問題、灯油裁判など国政に関わる問題について重要な役割を果たした。
 もうひとつ大きかったのは原水爆禁止の運動を中心に平和運動ではたした役割で、ソ連の核実験をめぐり分裂していた原水協が1977年に統一世界大会開催の機運が生まれると、中林は地婦連や青年団協議会等市民団体と協議、統一を促進した。原水禁運動が統一されると全国の生協の運動参加は急速に高まり、署名運動やヒロシマ、ナガサキ行動の中心を担うこととなった。中林自身もSSDⅡにはニューヨークに出かけ、全国からの署名を国連に届け主要なメンバーと会談するなど、最後まで「平和とよりよい生活のために」献身した。中林は1957年のICAストックホルム大会に参加した以降、ICA大会や各種の国際会議に参加、原水爆禁止や冷戦下の協同組合間の協同連帯の強化などを訴え続けた。
 
4.戦後の困難な時代のリーダーとして
 
 中林はよく「統一と団結」ということを強調した。最後までかかわった原水禁運動でもそうだったが、最初の日協同盟の時から中林が言葉にし、努力したのは全国の生協運動の統一と団結だった。日協同盟には戦前の関消連という労働者生協のグループの地下活動に入った闘士から、賀川豊彦のキリスト教のグループ、もうすこし穏やかに運動を進めていたグループ、ここには後に首相となる漁協組合の鈴木善幸などもいた。その後も日教組や炭労が関わる学校生協や炭鉱生協の連合会の日本生協連への統合、地域生協と職域生協、大学生協、医療生協を含む多様性に富む日本生協連の運営と全国生協の統一と団結に貢献した。戦前、協同組合全体としても生協陣営のなかでも統一した連合会活動ができなかったこと、逆に上からの統合のみが進んだことの苦い思いからだったと思われる。その思いからか中林は「国の世話になるな。官僚の世話になるな」が口癖で、政党などとの関係でも生協運動の独立性を強調した。
 中林は苦しい時代に日協同盟を維持し日本生協連を発展させた。新聞記者や産報時代に培った広い人脈と視野を生かし、日本生協連の活動をはじめ全労済や労金など労働者福祉運動の分野でも大きな役割を果した。全国消団連をつくり消費者団体をまとめ、その後の反核平和でも市民団体の協同連帯をまとめていった。賀川会長の平和への思いを発展させ、反核平和の活動で果たした役割は大変大きなもので、賀川さんが強く支持した「平和とよりよい生活のために」のスローガンを体現したリーダーだった。
 中林は石黒と同様に日ソ協会の会長を務めるなど国際活動にも熱心で、協同組合の場ではICA生協委員長としての役割を果たした。平和と国際友好の貢献に対し日本生協連は国連から「ピースメッセンジャー」の称号をもらったが、中林の果たした役割が評価されたものと考えられる。
(注―参考文献―中林貞男の著書「平和とよりよき生活を求めて」1985年日本評論社、「心の語り合いー中林貞男対談集」1984年同時代、ほか)

中林貞男 略歴

1907年 富山県小杉町生まれ

1932年 早稲田大学政経学部卒、報知新聞社社会部勤務

1941年 大日本産業報国会参事、連絡部長兼組織部長

1945年 日本協同組合同盟中央委員 51年 日本生活協同組合連合会専務理事 

 56年 全国全国消費者団体連絡会会長、60年ICA中央委員、

     61年 国民生活審議会委員、以降、経済審議会、米価審議会、物価安定政策会議等の委員歴任

1971年 同連合会会長 85年同名誉会長

    74年 勲2等瑞宝章授与

(労金ほか 1952年東京労金副理事長、中央労福協副会長、57年全国労金協会事務局長)

2002年 逝去94歳
 

<私の思い出―東京学消と石田博英>

   日本生協連は1965年に全国事業連と合併、その事業部がCOOP商品の開発などを手掛けはじめることになった。日本生協連出版部にいた私は事業部に移り雑貨担当となり、COOP洗剤などの開発に夢中になっていた。資生堂とCOOPブランドのシャンプー開発の話を進めたが、単協はCOOPだけでなく資生堂が入らないと売れないからダブルチョップにならないかといった話で苦労していた頃だった。日本生協連はそれまで進めていた首都圏大生協構想のもと東京生協の設立を決め、1968年の暮れにその人事に着手、その関連人事で私に古巣の早大生協に行くよう求めた。

  私はCOOP商品開発の仕事に未練はあったが、人事提案は受け入れた。そのことで専務の中林さんが一席設けるという。酒が飲めない人がどうしたのかと指定の料亭―そんなところは初めてだったーに行くと衆議院議員で、長く労働大臣を務めた石田博英さんが同席されていた。石田さんは早大で中林さんの少し後輩で学生消費組合にかかわっていたことは聞いていたが初対面だった。その石田さんは「君は早大生協の専務になるそうだが、戸塚署には世話になったことはあるのか」と聞く。60年安保の頃、早大の学生仲間には戸塚署に世話になった者もいたが自分はそんな学生ではなかったと返事すると「それで生協の専務は務まるのか」と自民党議員らしからぬことをいう。

 石田さんの話では当時の東京学消早稲田支部は特高警察にマークされており、店舗の専従(石田さんの言葉)はたびたび検挙され戸塚署にこう留された。石田さんは学生だったがリヤカーで横山町の問屋街に仕入れにも行ったそうだが、「戸塚署にはたびたび連れていかれ、そのたびに組合長の賀川豊彦さんにもらい下げてもらった」と話された。中林さんの学生時代から数年たち、東京学消の各支部は弾圧の下で次々に解散させられ赤門(東大)と早稲田が最後の孤塁を守っていた時期だったという。当時の早稲田では雄弁会や新聞部など学生の自主的組織はすべて解散させられており、学消が最後の砦であり、石田さんはその砦を守った一人だった。

 その夜は、恐縮している私を肴にして中林さんは後輩の石田さんと気持ちよさそうに昔の早稲田の話から少し生臭い政治の話などを楽しんでいた。普段の中林さんは反自民だが、石田さんはじめ多くの友人、人脈を自民党にも持っていること、石田さんが賀川豊彦を大変尊敬されている協同組合支持者であることなどを知り、勉強になった。

 翌1969年、早大生協の専務になった私は大学紛争の中で大学のロックアウト、警官導入、革マルと中核の紛争といった激動に見舞われたが、戸塚署には世話になることはなかった。東京生協はじめ地域生協支援は予想以上に困難が続いたが、私の生協人生では楽しい年月であった。(斎藤)

 

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