人気ブログランキングへ (/head>

ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

聖母マリアになりたいけれど

誰でも女性にはなりたい母親のイメージがある。

それは

おそらく

聖母マリアのイメージのようではないだろうか。

そしてそのイメージとは

 

いつも穏やか

安定した性格

決して怒鳴ったりしない

不安要素が少ない

叱るのではなく諭すことができる

忍耐の塊

どんなことがあっても我が子を憎まない

裏切らない

子供のために自分を捨てることができる

どんな事件が起ころうとも動じない強さを持っている

辛いことがあっても外に出さない

イライラしたりしない

子供のたわいのない失敗や暴言を何度でも許せる

何が起ころうとも母親の仕事を楽しめる

自分の都合は諦めることができる

自分の子供はどんな子供でも受け入れられる

焦らず子供のペースにいつでも合わせられる

子供の心を読むことができる

いつも愛情でいっぱい

 

こんな感じではないだろうか。

実は、わたしでさえ、こういう母親になりたかった。

子供たちの良い模範となりたかった。

限りなく優しい母になりたかった。

 

けれども、かなり不可能と気づくのにそんなに時間はかからなかった。

 (まっ、当然ですが・・・)

 

母親になって、自分という人間の本質が何であるかが暴露されてしまったように感じる。自分がどんなに忍耐に欠け、どんなにダメ人間であるかが嫌なくらいわかった。

わたしは、子供を持つまで、自分がこんなに怒ったりイライラしたりする人間であることを知らなかった。

なぜ知らなかったのだろうか。

不思議でさえある。

 

それもそのはず。

何も問題がなく、平和な日々の中で見せる自分の姿は本当の姿ではなく、その平和が覆されるときに本当の姿が現れる、という概念が語っているように、自分の本当の姿はもっとも条件の悪い時に容赦無く現れるのだ。

 

そう。

全てが順調な時には、人は笑顔でいられるものだ。そんな時には、子供の態度が悪くとも大してなんとも思わないものだ。本当の姿はこの反対の状況下で現れる。

 

もっと怖いことは、

子供もその自分を失った母親の姿を見ているということである。

それは子供の潜在意識にくっきりと刻み込まれ、一生を左右するほどの力を持つ。

なんと恐ろしいことだろうか。

母になるということは怖い。

非常に重たい責任なのだ。

 

だから努力をするつもりだった。

努力に努力を重ねればできると思っていた。

でも考えが甘かった。

両者の生まれつきの性格や特徴、さらに親の育った環境が子育てに大きく作用するから、自分の頭で考えつけるような小さな努力で解決できる代物ではないと気づいた。

 

誰でも聖母マリアのような母になりたいものだ。

誰も、最初からこの反対の母になりたい人はいない。

そして、なんとなく、自分は理想的な母になれるような気がするのだ。

たとえその理想とは何か明確に説明はできなくとも、

母親には、ただなんとなくだが、そんなイメージがある。

そのイメージを疑う人はいない。

 

失敗することを予測して子供を産む人は誰もいない。

でも結果的に失敗することもある。

それだけのことなのだ。

母は皆良い母になりたいと願っている。

でもそれはなかなかむずかしい。

 

わたしは自分の子供たちに何度も謝った。

今度こそは、怒らない。

今度こそは、理解してあげよう。

と心に誓った。

 

それでもなかなか進歩が見られず落胆ばかりを経験する羽目となった。

ごめんね。

次は怒らないようにするから。

ママを赦して。涙涙。

 

その度に子供たちはこのダメママを快く赦してくれた。

子供の方が大人より人間ができているのかもしれない。

 

全ての人に母がいる。

でも完全な母はいない。

ただ愛情表現の上手な母と苦手な母がいるだけ。

しかしその苦手な母が子供を愛していないということではない。

だから

そんなお母さんを赦してあげてほしいと願う。

みんな本当は聖母マリアになりたいのだから。

その気持ちを汲んでほしい。

 

そしてお母様ご自身は

不完全な自分自身を赦し、聖母マリアのイメージなどさっさと捨てた方が賢明。

その方が子育てが楽しくできるでしょう。

完全な母になろうとするのではなく、

立派な母になろうとするのではなく、

そのままの我が子を受け入れ愛おしむだけでいいのです。

それがもっとも大切で、それができれば、残りのものは全部ついてくるはずです。

それが母業を落第したわたしの気づきでした。