(訳)
愛しても嫌っても
両方とも私の味方。
私を愛するなら
私はずっとあなたの心の中に住む。
私を憎むなら
私はずっとあなたの思考の中に住む。
怨憎会苦
怨憎会苦(おんぞうえく)とは苦諦(くたい)の「四苦八苦」の一つだ。
つまり人が人生で通る八つの苦しみの一つ。
この言葉は字面を見ても「怨む、憎む、会う、苦しみ」なので、
「嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ」を意味する。
これがどのように親業と子育てに関係があるのか。
いやいや大いに関係があるのだ。
あなたは自分の子供を嫌ったことがあるだろうか?
怨んだことがあるだろうか。
ない?
それは素晴らしい。
あなたはきっと聖母マリアのごとき女性なのだろう。
もしくはもう既に悟りを開いた人か
凡人のレベルをはるかに通り越した人なのだろう。
でもほとんどの人は、我が子をいとましく思ったり、つまり嫌いになったことがあるはずだ。一瞬もないなんて人は稀に決まっている。
人間なんだから当然だ。
でもそんな風に思った時どんな気持ちがしただろうか。
後ろめたい気持ちになっただろうか。
そのことによって苦しい気持ちになったりはしなかっただろうか。
恐ろしいことに、
その恨みや憎みは母親の子供を愛する気持ちと同時に存在しているのだ。
なぜ?
それは子供は奪っていく存在だから。
母親の体力を。
エネルギーを。
才能を。
時間を。
母のアイデンテイテイを。
そして命を。
全て奪うのが子供なのだ。
それでもほとんどの母親は子供のために全てを捧げる覚悟がある。
奪われていいほど、つまり全てを捨ててもいいほど我が子を愛する。
ただある時ふと、母親は自分のしてきたことが報われないと思うことがある。
だから奪っていった我が子を怨み、憎む。
深層心理の中の現象だ。
その怨み憎む理由はなぜか。
それは奪っていかれるばかりで見返りがないと感じるから。
母は子供のために骨身を削るこのを厭わないところまで犠牲を払っても肝心の子供はそんな母の努力はなんとも思っていないことが多い。
母親が自分でやりたいからやっていると子供は思っているのだ。
だから子供に感謝を要求するのはお門違いなのだ。
それでも時々はこの努力を認めて欲しい、と思うのは間違っているのだろうか。
結果が見たいと思うことや見返りを求めることは邪道なのだろうか?
認めてくれなくてもいい。
ただもうちょっと素直になって欲しいと思うのは望みすぎなのだろうか?
母親の言うことを聞いて欲しいという願いは小言にしか聞こえないのだろうか?
母鶴
わたしも我が子を怨み嫌いになったことがある。
わたしは「鶴の恩返し」の鶴で、我が子の名前の美しく立派な織物を完成させるために日々自分の羽を抜いてきた。そのため今は羽が全部抜けてしまった。でも織物は特に立派にもならなかったし美しくもならなかった(羽がもともと美しくなかったのと織り方が悪かったから?)。大人になったので皆自分の好きなように生きている。それで本人たちが幸せならいいがそうでもないようだ。
それを目の当たりにすると、なんとも重苦しい気持ちにさせられる。
あれは(子育てとは)一体なんだったのだろうか?
健康に気を遣い、栄養価の高い家庭料理で育てたが、家を飛びたした途端ジャンクに走り、今は見れないような体型の息子たち。そして極めて不健康。真っ白だった綺麗な歯も今はコーヒー色に染まっていて強力な研磨器で削らなければ元に戻らないだろう。歯医者に最後に行ったのはいつだろうか。歯並びを整えるために矯正もした。でも今は矯正をしたことがあるなんて信じられないくらいのひどい歯並びだ。才能を伸ばすように音楽の好きだった子供たちに楽器の習い事をさせて毎回レッスンに連れていったのもわたし、アドバイスをあげたのもわたし。全教科の家庭教師を務めたのもわたし。夜泣きに付き合い、医者通いに付き合い、病気の子供たちの健康改善のために代替医療の研究をしたり、ありとあらゆるサポートをあげた。4人分の大学の学費を払ったのも当然わたし。でも娘以外は全員、親の教えてきたことなんて全て捨てたようだ。だから社会的にも成功していない。犠牲?そんなものは当然だと言わんばかりの横柄な態度だ。
あの時、何も収穫がないなんて夢にも思わなかった。
ただひたすら子供たちのために走り続けた。
でも、今は
「うるさい」と言われ邪険に扱われる始末。
だから何も言わずに黙っているしかない。
娘だけがわたしを労ってくれている。
でも手がかかったのは息子たち。
いたたまれない気持ちだ。
でもやっぱり実感している。
人をいとましく思ったり嫌ったりすると苦しみが増えると。
これ以上苦しみたくないので
許してあげるしかない。
そしてこんなに犠牲を払った自分が馬鹿だった、と素直に認めるしかない。
母親というものは随分後になるまで心からの感謝や理解をしてもらう日は来ないものだ。そう覚悟したほうがいい。でも来ればいいが来ないことも十分考えられる。
でもそれはそれで仕方がない。
親の悲しみ
流行りの引き寄せの法則は自分自身には適用できるが、自分以外の人には本人の自由意志があるから適用できない。どんなに母が願っても本人の願いが他のところにあるなら母の願いは届かない。
たった一つのできることは、子供が自分の人生を自分で選びそれを母から見て残念に感じることでも受け入れてあげることだ。
それが親の悲しみであると感じている。
子育てなんてこんなもんだ、と開き直るしかない。
見返りがなくて当然なのだ。
見返りや結果を望むなんて本末転倒にしかり。
子育ては思い通りにならない。
それが普通。
それを受け入れることが悟りへの道なのだ。
そして母の人生を奪っていった子供たちを赦すこと。
これしかない。
膨れあがる悲しみでいっぱいになったわが心。
涙が乾くのを待つしかない。
ドクダミママ至言
怨憎会苦とは「嫌いなものと会わねばならぬ苦しみ」を意味する。
人生には嫌いなものや、経験や、人に出会うようにできているもの。
子供は母の人生を豊かにすることもあるが基本的に奪うもの。
奪って行った子供を赦すことが幸福への道。
子供に期待しないで結果をそのまま受け入れる。
子育てなんてそんなもの。思い通りにはいかないと認める。
子育ては結果よりプロセスが大切。