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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

子育ての試練を克服するには一元に生きること

 

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(出典:https://www.shannonmiller.com/pregnancy-and-motherhood/motherhood/5-effective-ways-to-help-with-a-rebellious-teenager

子供(成人した子供も含む)は親を心配させることをたくさんする。

親が望まないことや自分で悪いと思っていることでもする。

それは子供は経験が足らないだけでなく、柔軟性に富み常識に囚われない考え方をするからでもある(まあ良い風に言えばの話ですが)。

 

その反対に親は常識に囚われやすく頭が硬い。

おまけに我が子のことになると極端に心配性でもある。

そして子供のすることや子供自体に「悪い」もしくは「良い」などの白黒はっきりした評価を下しやすい。

 

これを二元的な生き方という。

 

二元に生きる

二元とは哲学用語で、物事の根源が二つあることを意味する。

つまり、「いい」に対して「悪い」。

「賢い」に対して「ばか」。

「下手」に対して「上手」と。

全ての起きている事柄に対して「✖︎」か「◯」かの評価を下すことは物事を二元的に捉えていることを意味する。そしてそういう生き方を二元的に生きると言う。

 

この場合

子供の評価が「良い」と出たらしめたものだが、「悪い」と出たらどうするか。

当然我が子が「悪い」という評価は親を焦らせ悩ませる。

このように二元的に生きると全てが辛くなってくるものだ。

ではこれに解決方法はあるのだろうか?

 

一元に生きる

一元とは物事の根源がただ一つであることを意味する。

一元に生きるとは、何かが起きた時に様々な異なる評価を下すのではなく、

常にたった一つの評価を下すということを意味する。

 

これは人生の多くの場面に応用することができるが、

子育てにもしっかり応用できる。

 

つまり子供が思い通りにならなかったとしても、それを「悪い」もしくは「良い」と評価を下す(二元)のではなく、常に「良い」(一元)と見るのである。

これが一元に生きることを意味する。

何が起きても「これで良い」と言える肝っ玉の大きさは子育てをしている最中にも力を発揮ししやすい。

 

人生にマイナスの要素はつきもので子育てにもこれは当てはまる。

しかし全ての出来事に一喜一憂していては心が休まる時はない。

だから丸ごと全部「良い」と見ることが大切になってくるのだ。

そして、一元に生きることさえできれば人生はより幸福に生きることができると言っても過言ではないかもしれない。

 

喧々諤々!娘とのバトル

以前に触れたように、現在わたしは娘の反抗期の真っ最中に置かれており、

日々「ああ死にそう〜!」と言わんばかりの状態にある。

1年前が嘘のような最悪の状況にある。

それが女性ホルモンの増減のせいなのか脳の発達段階が今そういう時期にあるのか原因ははっきりとはわからない。

 

言い合いを避けるために私がとった方法は、無言に徹すること以外に、バカに徹することがある。

つまり、娘がえらく威張った態度で遠慮なく言いたいことを言ってくると、わたしはこう出る。

「はいはい。そうです。全て私のせいです。私はバカですから何もちゃんとできないのです。なんでも忘れるしね。確かにどうしようもない人間です。」

と捨て台詞を吐くことにしている。すると娘は罪悪感を感じるのか大人しく引っ込むことが多い。

 

けれども1週間前は上記の戦略を使う気にはとてもなれないようなセリフを娘に言われた。

「親の子育ての仕方にすっごく疑問を感じる。たくさん助けてあげたり意見を言う親だと子供が反抗して当たり前なのよ!だからあたしのやっていることは当然の結果!」

(ムカつく意見!)

私は我慢がならずこう反論した。

「それって順番が違うんじゃない?自分でちゃんとやらないしできないから教えてあげただけのこと。ちゃんとやる子供には親は信頼しているから何も言わないし助けもあげない。それに助けて教えてあげるのが親の使命で、その使命を全うしただけ。そもそもね〜、子供の個性や成長段階によっても異なるから一概に言えないんじゃないの?」

 

娘はふてくされて自分の部屋に入り鍵をかけた。

 

娘は病気持ちだったため、親は娘の生活に関与を余儀なくしてきた。そんな面倒なことをしなくともよかったなら当然しなかった。でも子供を想う親として当然のことをしただけのことじゃあない?だが娘はそれが嫌なのだ。そしてそれが間違いであると指摘してきた。じゃあ放っておけばよかったのか。そうしたら今頃どうなっていたか。そんなことは本人はお構いなしで言いたい放題。

 

現在、我が娘は、何か話しかけようものなら、大声で叫び噛み付いてくるメスライオンそのものだ。だから娘が話しかけてこない限りはこちらからは何も言わないことにしている。話しかけてきたとしてもほとんどが喧嘩腰だ。

娘にとって親の干渉はどんな類でもいらぬお節介で、はっきり言って「うざい」のだろう。放っておいて欲しいのだ。私もメスライオンに精神を脅かせらるのは嫌なので放っておいてある。腫れ物に触るように距離的にも極力近寄らないようにしている。一緒に食事なんてもっての他。とにかくどんな些細なことでも娘は何も聞いて欲しくないし、何も勧めて欲しくないし、親の意見など一切聞きたくない。親の声が耳に入るだけでも怪訝な顔をし、ちょっとでも何か聞けばキツイ返事しか返ってこない。

それでも、とにかく親としてはひたすら忍耐するしかない。つまり忍耐とは沈黙を意味し、それしか今の所対応方法が見つかっていない。

それに今までに教えてきたことに対しても反抗し全て反対のことをしている。その為すでに健康問題も出てきている。

ここで、だから言ったでしょう!?とやり込めたい気分だが、そんなことを言えば3倍になって返ってくるのが目に見えている。だからやっぱり黙りっぱなししかない。そして原因と結果の法則から自分で学んでもらうしかない。

 

夫の姉も病気持ちのうえ同じパターンで親に大反発し、義母はそれに対して成すスベがなくその先にある結果を恐れ嘆き悲しんでいた。親とは我が子のことになると否定的な観測をしやすい。自分も同じである。だから将来のことを思うと恐ろしくなるのだ。心は沈み真っ暗闇の深い穴に突き落とされていくように感じる。

そして予測通りの最悪の事態が起きた。義姉は21歳でこの世を去った。

結局死により病気も悩みも反抗も全てが解決したかのようだった。歴史は繰り返されると言うように娘にも同様のことが起きる可能性はある。それを思えば当然口出しをしたくなる。でも受け入れ側が拒否するならこちらは何もできないのだ。

 

現在、自分の精神を守る為にも、娘の行動をいちいち「だめ」とか「いい」とか評価せずに、今はわからないけれど、最終的にはいい方向に行くもので、今はただその途中経過にあるのだ、と自分に言い聞かせている。そしていつかはこの成長段階から抜け出す日もやってくると信じている。ただそれが「いつ」で「いい方向」とは一体全体なんなのかはわからない。

でも結果はやってくる。そしてそれがなんであろうと、それに甘んじよう。

ただ今は娘の反抗に感謝するしかない。

なぜなら、

実は生意気な態度は大人になろうともがいている証拠で(親は死にそうだけど😖)

誰もが通らないといけない道。

だからこれはいいことなのだ!と一元に考えるように(必死に😭)努力している。

同時にこの経験を通して親もいろいろと考える機会に恵まれ忍耐を試され人間として成長できるから良いことなのだ。

と考えるようにもしている。

 

まとめ

一元に生きるとはすなわち

全てをプラスに捉えることでもある。

 

それはわかってるけど、でも・・・

とあなたは言われるかもしれない。

それは当然。

「言うは易し行うは難し」と言われているようにわかっていても実践は難しい。

だとしても、このような考え方を習慣化して行ったら、変化やストレスに対する免疫が強くなって行くのではないだろうか。

大人は変化を拒むきらいがあるけれど、子供(成人を含む)は変化の動物。

ということは様々な新しい「事件」に子供に遭遇して欲しくないと望むこと自体が無理なお願いなのだ。だから、何かあるたびに一喜一憂しないためにも、一元に生きることが大切になるように感じている。

 

全てはよろし。

明日は分からず。

今一見マイナスに見えることも将来的にはプラスになる可能性もある。

たとえそのプラスがどんなプラスなのかは今は見えなくとも。

だから、もし将来がプラスになると思えるなら、今の状態も「○」と見れる。

 

うちの娘の反抗期は大人に脱皮するために誰もが通らなくてはないらない道。

それは親にとっては非常に対応が難しく精神を脅かすことも多々(毎日!)ある。

でも何年か経った時に「あのときはあれでよかった」と思えるのではないだろうか。人生とはそんなものだ。後にならないと分からないことが多い。

 

だからこそ、今この瞬間、一元に生きることが大切になってくると思うのだ。

 

ドクダミママ至言

子供がいると、何歳になっても安からに生きることが難しい。

しかし、たとえ現在起きている事がマイナスに見えても、何年後かにはそれはプラスの出来事だったと思えることも多い。

ということは、今の心配は無駄な心配ということになる。

何が起きようとも一喜一憂せず、一元に生きることを習慣化すれば、心安らかに生きることができる。

それを日々胸に刻んでおこう。