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ドクダミママ至言

母業落第の果て:もっと早く知りたかった子育てへの答え

片思い

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空っぽになった息子の部屋。所持品はほとんど処分し残りは二箱だけ。若い人は未来のことで頭が一杯で過去にまつわるものなどどうでもいい。でも親は思い出を手放せないもの。この部屋に入ると息子の幻が見えてきて胸がキュ〜んとしてきて目頭が熱くなってくる。

親業は片思いと思えてならない。


片思いとは

片思いとは

一方通行の実らない恋。

片思いをしている時はウキウキすることもあるし、

暖かく幸せな気持ちを感じる時もあるし

反対に切なく苦しい時もある。

そして究極的には見返りのないお粗末な一経験として終わる。

そんな経験を繰り返していて何の意味があるのか。

当然意味不明。

 

母業も片思い

母業もそれに似ている。

一方的な切ない思い。

その子のことを考えている時は幸せな気持ちになる。

でもその気持ちが届かず切ない気持ちにもなる。

究極的には母業には見返りなどなく、これの意味は何かと悩んだりしてしまうこともある。

 

そんな母の思いを子供は全く介せず。

だから

母は独りで泣くことが多い。

 

友人のキャリーが先日の夕方に家に来てくれて一緒に散歩に出かけた。

時間を忘れ気が付いた時は2時間も過ぎていた。

 

彼女も母業とは片思いのようで子供には通じないと言っていた。

キャリーは母の願いとは反対の方向に向かって歩んでいる長男のことで悩みが深い。

 

自分の幸せは誰の責任?

それである日こんなことを息子に言ったらしい。

「あなたのやっていることは、私を悲しませる」と。

("What you have been doing makes me sad." )

 

そしてそれに対する息子の答えは、

「お母さんの幸せは僕とは関係ない。

僕はお母さんの幸せに責任があるわけではない。」

( "Your happiness is nothing to do with me. I am not responsible for your happiness. ")

 

キャリーはその言葉を聞いてハッとした。

まっ、そうだ。

そう言われてみれば。

それは確かに正しい。

人はそれぞれ皆自分の幸せに責任がある。

誰かのせいで不幸せだという判断は幸福の責任転嫁とも言える。

 

それでもそれがどんなに正しくとも

母にとって悲しみや落胆を拭うことはそんなにたやすくいことではない。

キャリーはよく寝室のクローゼットに身を隠しそこで思いっきり泣くんだそうだ。

つい最近始まったわけではない。何年もずっとこれらしい。

そんなことを息子は知る由もなく、何食わぬ顔で

「俺の人生なんだから勝手にさせてくれ」と言っている。

それも正しい。

そもそも、彼は自分のことで頭が一杯なのだから、母親の気持ちを汲むなんて無理な話。

 

相思相愛だと勘違い

他の人の立場や気持ちを深く理解できるようになるまでには長い年月を要する。

仕方がないといえばそれだけのこと。

それでも

親という立場から見ると理不尽としか思えない。

 

子供は母のことを気にかけてくれているようで実はそうでもないことが多い。

幼い時は両思いに見える。

それを親は「子供の親に対する愛」と勘違いしたりもする。

愛でないわけでもない。でもどちらかというと、母を気にかけるというより、自分の生存にかかっているので命がけで親を「求めている」と言った方がふさわしいかもしれない。つまり「執着」なのだ。

だが、子供の親への執着は月日が経つにつれて、つまり子供が自立していくに従って

軽減されてゆき、親側の一方通行の片思いに変わっていくのだ。

そしてその後はどんどん悪化していくのみ。

 

おそらく

子供が母のことを心にかけてくれる日はなかなかやってこないだろう。

ヨボヨボの老婆になれば少しは心にかけてくれるかもしれない。

でもそれと同時にバカにされて相手にされないということもある。

 

・・・特に息子は母をこよなく愛するとよく聞くが同時にかなりバカにするとも聞いている。「おふくろは支離滅裂なことばかり言っている」とか、(特に悪気はないんでしょうけど)けなしたりも多いよね〜。 😢

 

母の役目は悲しい

母とは悲しい役目だ。

母は

我が子が自分を発見できるように自分を故意的に捨てる。

(Mother deliberately loses herself so that her child can find himself.)

 

どんなに大変でも母はそれを喜んでするのだ。

まるでそれが母の使命であるかのごとくに。

 

白髪になりヨボヨボになりそれでも我が子のことを思い続ける。

だとしても

何がどうなるというわけではない。

それが母を悲しませる。

鏡に映ったやつれた自分の顔を見て、いつからこうなったのかと思いを馳せる。

 

結局

子供の最大の関心ごとは自分のこと。

彼らの思いははるか彼方の地平線の先にあり、母の願いも想いも置き去りにされる運命なのだ。でも彼らにはそれが理解できないし、したくもない。脳裏の陰にもないのだろう。

 

命が絶えてもいいと思う時

私はキャリーのようにクローゼットの中で座り込んで泣いたことはない。

でも涙をこらえきれずにいたことは数え切れないほどある。

泣くことはストレス発散になる。だから実はいいことなのだ。

 

泣きながら人魚姫のように泡になって消えてしまいたいと思ったことも多々ある。

自分の知っている世界も全て泡となり一緒に消えてしまったらいいとも思った。

 

でも目を一瞬閉じて再び開けてみても何も変わっているものはない。

例えいくら泣いても心が晴れるわけでもない。

 

夜は泣きながら床につくこともしばしばあった。

今晩寝てるうちに息が絶えてもいいと思ったこともあった。

神に自分の命を預けて眠りにつくのだ。

明日の命のことは考えられない。

今日という日だけでもう精根尽き果ててしまったからだ。

 

新しい人生をリセットする時

昨晩あんなに泣いて自分の命などもうどうなってもいいと思っていたのに

さっき布団に入ったと思ったのに

いつの間にか朝が来ている。

 

外には太陽が昇り

新しい日が始まったのだ。

なぜまた新しい日が来てしまったの?

終わってくれても私には未練などない。

いっそのことその方が良かったのだ。

なぜなら新しい朝とともに

我が子のことを心から取り除けないで苦しんでいる自分自身と向き合わないといけないからだ。

 

どんなに泣いても

翌日には陽が昇る。

全ての人のために。

 

前日に何が起ころうとも、太陽は再び登り人の心に光を射してくれる。

その朝の光は昼間の光のような猛烈さはない。

それは生まれたばかりの柔らかな光と言った方が正しいかもしれない。

眩しすぎて耐えられないということのないようにとのお計らいなのだろう。

 

世界は徐々に朝の光に浸透されていく。

自分の心も少しずつその優しさで溶けていくように感じる。

心のつっかえは完全に消えなくとも昨日よりはマシになっているかもしれない。

そんな気がするのだ。

 

外に出て朝露で濡れた芝生の上に立ち頭を上げてみる。

そこには子供の時に描いた絵の中のお日様にそっくりな太陽がある。

絵の中のお日様はいつも笑っていた。

不思議だ。

なぜ子供は知っているのだろうか。

太陽が笑っているということを。

 

太陽は夜だけでなく自分の心の暗闇をも一掃してくれているのだろうか。

その光を見ていると今日は昨日より元気になれそうな気がしてくる。

 

どんなに泣いても朝になれば太陽が昇り別の日が始まる。

それはあたかも、過去を呪わず、過去に縛られず、今日を生きるべしと

人の本来のあるべき姿を教えていてくれているのかもしれない。

朝は人生をリセットする時なのだ。

 

 

教えてくれていることはまだある。

人生とは暗闇と光の両方が存在し、その両方がなければ意味もない。

嫌なこともあればいいこともある。

嫌なことがあるからいいことが起きた時に喜びも倍増するというものではないだろうか。

 

じゃあ暗闇が長く続く場合はどうすればいいのか。

どうやって暗闇で幸福を探すことができるのか。

探すことはできる。

でも

幸福は暗闇の中でどうやって一筋の光を見つけることかにかかっている。

 

片思いは無駄な労力

片思い親業に

いつか終止符を打てる日はやってくるのだろうか?

その日は自分の労力が無駄であると気づく日にちがいない。

 

考えてもいただきたい。

母が泣いても苦しんでも子供には迷惑な話。

どんなに我が子のことを思ってもその思いは彼らには届いていないようだし、例え届いていても見事に却下されているところを見ると、その片思いは無駄な労力としか言えない。

心配してもその先に何があるわけでない。

実りもゼロ。

だから特別なことは期待せずただあるがままを受け入れることしかない。

 

ただ無心になり

来るもの拒まず。

そこにある現実に点数をつけず

そのままで見つめ

そのまま受け入れ

自分の正直な気持ちも点数をつけずに受け入れ

全てのエゴを捨てて

自然に身を任せる。

それしかない。

 

自分の心の不幸を我が子のせいにしても始まらない。

自分の幸福は自分の責任なのだ。

片思いは片思いをしている人の独りよがりの勝手な妄想で相手には迷惑というもの。

 

 人生には片思いが多い

人生には片思いが多い。

何も子供に限ったことではない。

実らない望みもあり

それを謙虚に受け入れるしかすべがない時も多い。

 

苦しや悲しみになんの意味があるのか。

と何度も自分に問うた。

そこに真髄があるのだとはわかっているが、

それを受け入れられない自分と向き合うことができない。

つまり素直になれないのだ。

 

片思いでもいい。

自分のして来たことを誰にも感謝されなくともいい、

自分の思いが誰にも認められなくともいい、

と言えるまで

つまり

まっさらな心に到達できるまで

心の奥底をただ何も考えずに見つめ

静かにただそのままの状況を受け入れる。

そこに平安があり

慈しみがあり

悟りがあるのではないだろうか。

 

その日の苦労はその日だけで十分なのだ。

 

ドクダミママ至言

親業は片思いの部分が大きい。

それが普通でそれ以外は例外と思うべし。

片思いは片思いをしている人の独りよがりの勝手な妄想で相手には迷惑というもの。

片思いは実らないもの。

そのそも自分の幸せは自分の責任で子供のせいにしてもどうにもならない。

 

朝は人生をリセットする日。

前日の苦労は前日だけで十分。

 

暗闇を見つめずに光を見つめよ。

光は暗闇を打ち負かす力がある。

けれども人生には両者が必要。

課題は暗闇の中にどうやって一筋の光を見つけるかにある。

幸福はそれにかかっている。

 

一筋の光も見つけられなかったら

現状を受け入れ、

それに点数をつけず

何も考えず

ただ受け入れよ。

 

そして

心と頭がまっさらになるまで

課題のことは今は横に置いておくこと。

心を静寂にさせることが鍵。