「芥川(あくたがわ)」にまつわる面白い話。洪水による決壊の歴史もある!

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摂津峡

「芥川」と言えば、わがふるさと高槻市を南北に流れる「一級河川」で、上流には「摂津峡」があり、初夏にはホタルも楽しめます。春は桜の花見、秋は紅葉狩り、夏休みの時期には子供を連れて川遊びやキャンプを楽しむ家族連れで賑わいます。

ところで「芥川」は古代当地を支配した地方豪族の「阿久刀(あくと)氏」の氏神「阿久刀神社」が近くにあったり、戦国時代には最初の天下人三好長慶(みよしながよし)の「芥川山城(あくたがわさんじょう)」があったことでも知られています。

しかし、あまり知られていませんが、そのほかにも文学作品に登場したり、洪水による決壊で被害が出たこともあります。

1.和歌に詠まれた「芥川」

「芥川」は昔から「歌枕」として歌人に詠まれて来ました。

・はつかにも君をみしまの芥川あくとや人のおとづれもせぬ(伊勢)

・人をとく芥川てふ津の国の名には違はぬ物にぞありける(拾遺和歌集)

芥川みくづとなりし昔より流れもやらぬ物をこそ思へ(散木集)

2.「伊勢物語」に登場する「芥川」

在原業平がモデルの平安時代に書かれた歌物語「伊勢物語」第六段に「芥川」が出て来ます。少し長いですが引用します。

昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるをからうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率(ゐ)て行きければ、草の上に置きたりける露を「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。

行く先多く夜も更けにければ、鬼ある所とも知らで神さへいといみじう鳴り雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に女をば奥に押し入れて、男、弓、胡簶を負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつ居たりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。

これは、色男の在原業平が長年思いを寄せていた深窓の姫君・藤原高子(後の清和天皇の女御)を盗み出して(さらって)、芥川まで背負って逃げてきたのですが、結局彼女の兄の藤原基経や藤原国経に取り返されてしまった話です。藤原基経や藤原国経を「鬼」と表現しています。

伊勢物語によれば、藤原高子は清和天皇の女御になる前、在原業平と恋愛関係にあったことになっています。

この情景を詠んだ「やはやはと重みのかかる芥川」という古い川柳があります。

「なよやかな佳人の重みが肩にかかり、かぐわしい息が耳元をくすぐる。その艶めいた柔らかな重みは、姫の重みと同時に、これからの多難な恋の行方、恋人たちの運命の重みでもある」という意味です。

3.洪水による「芥川」決壊の歴史

芥川は、昭和に入ってから3度決壊しています。

(1)1935年(昭和10年)

芥川殉難碑

1935年(昭和10年)6月28日から29日にかけての豪雨は未曽有のもので、1時間に100mmを超えたそうです。6月29日の午前2時、阿久刀神社東の堤は今にも決壊寸前となり、寺の鐘や半鐘が一斉に打ち鳴らされ、カネボウ(現在のJT研究所のところにあった)の汽笛が轟轟と鳴り響き、想像を絶する緊迫感が住民を襲ったそうです。

消防団だけでは対応できないため、陸軍工兵第四連隊に出動を要請し、1個小隊が応援に駆け付け、「木流し工法」による護岸工事中、モミジの木に登っていた兵士(北野小一郎上等兵)がモミジの木もろとも豪雨で増水した「芥川」の濁流に呑み込まれ殉難しました。

彼の慰霊顕彰碑が芥川の堤に建っています。

(2)1953年(昭和28年)

1953年(昭和28年)9月25日台風13号によって、芥川と女瀬川が合流する地点付近で芥川右岸の堤防が約150mにわたって決壊しました。淀川から芥川に水が逆流して氾濫し、富田町・三箇牧村・味生村(現在の摂津市別府・一津屋付近)一帯の約17㎢が浸水しました。

(3)1967年(昭和42年)

1967年(昭和42年)7月9日、北摂地方を中心に発生した集中豪雨の「北摂豪雨」で、女瀬川の堤防が決壊しました。停滞した梅雨前線の影響で、24時間あたり225mmもの雨が降ったそうです。

4.旧西国街道の宿場町「芥川」(芥川宿)

芥川宿

芥川の中流部が「旧西国街道」と交わる辺りは、江戸時代に「芥川宿」という宿場町として栄え、「六宿駅」の一つに数えられています。

「旧西国街道」を参勤交代のため西国の大名が「大名行列」をして、領国と江戸との間を行き来しました。大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士たちも通った街道です。道幅二間半(約4.5m)で車がすれ違うのがギリギリなくらいの道で、現代の道路から見ると非常に狭い道です。

「芥川宿」には、本陣や多くの旅籠屋(はたごや)が立ち並んでいました。

5.芥川龍之介の先祖の「芥川氏」

芥川龍之介

芥川龍之介は、牛乳製造販売業を営む新原敏三とフクの長男で、母が精神異常を来したため、母の実家「芥川家」に預けられ、叔父芥川道章の養子となって芥川姓を名乗ることになりました。

母方の先祖の芥川家は代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家柄で、家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていたそうです。

なお、真偽のほどはわかりませんが、ネットの「ヤフー知恵袋」を見ていると「芥川氏」について次のような記事がありました。興味深いので転載します。

芥川氏は室町の頃、清和源氏小笠原三好流に関係すると
云われます。その子孫攝津の芥川城(高槻)で芥川を名乗ったと
有りますが、1508年大石氏との戦いで京都百万遍寺で
全滅、自殺したとなってます。

この「芥川城」は、三好長慶が城主となった「芥川山城」ではなく、芥川氏が築城した平城(高槻市殿町)のことだと思います。芥川氏の本拠地は平安時代の芥川宿で、鎌倉時代には幕府の御家人となり、その前後に築城したようです。

しかし、「応仁の乱」(1467年~1478年)で芥川氏は西軍の軍門に降り、その後摂津国人一揆が細川政元の鎮圧でこの地域の国人が没落したことから、芥川宗家は歴史から名を消してしまいます。

なお、その後の話ですが、三好長慶が父の元長の従弟にあたる芥川孫十郎を、細川氏綱から奪還した「芥川山城」の城主にしています。しかし1553年に孫十郎に謀反の疑いありとして、彼を攻め、降伏させています。そして三好長慶が芥川山城の城主となっています。

この芥川孫十郎は阿波の三好氏一族ですから、「芥川城主」の「芥川氏」とは異なると思います。三好氏一族が畿内に進出して来た時に、芥川氏の末裔と姻戚関係を結んで芥川氏を名乗るようになったのかもしれません。

いずれにしても、このあたりはややこしいところで、はっきりしたことはわかりません。

6.一級河川「芥川」とは

(1)名前の由来

「阿久刀神社」の荘園の川「阿久刀川(あくとがわ)」から転じたものと言われています。

知らない人が「芥川」と聞くと、「塵芥(ちりあくた)」の「ゴミ川」のような第一印象を受けるかもしれません。しかし「阿久刀」の当て字だと分かれば納得できると思います。

(2)地理

高槻市と京都府亀岡市との境をなす「明神ケ岳(みょうじんがだけ)」(523.5m)に源を発し、山間部で京都市西京区と高槻市の市境を流れた後、高槻市を南に縦断して流れ、高槻市中心部で「女瀬川(にょぜがわ)」と合流して、高槻市南部で淀川に注ぐ全長25kmの一級河川です。

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