今回のお城は信州の英雄的存在である真田幸村の兄・真田信之が治めた地、松代城(まつしろじょう)です
別名は海津城または読み方は同じ貝津城、長野城とも呼ばれる輪郭式の平城となります
この城は冒頭の通り江戸時代には信州の勇士真田家の出で、“日本一の兵”と言われた真田幸村(信繁)の兄・真田信之が初代松代藩主として治めた場所です
その築城主はその真田家の主君であった武田信玄で、きっかけは信玄が信濃へ侵攻、そして北信濃を庇護していた上杉謙信と激突、そして戦となって始まった川中島の戦いです
この信玄と謙信のライバル対決として有名な戦いは西暦1553年から12年もの間に計5回も起こったほどの壮絶なもので、その戦いのために川中島の拠点として信玄が整備したのが海津城です
この海津城は武田の名軍師として知られる山本勘助が築城を命じられたとされ、完成は1660年とされます
この次の年の1661年は川中島の戦いで最も激戦だった第四次の戦いが開戦、山本勘助は夜明けと共に敵を挟撃する“啄木鳥戦法”で挑んだが、この策を見破った上杉謙信は深夜に音を立てずに部隊を移動して逆に奇襲、思わぬ所から攻撃を受ける事になった武田勢は必死に防戦しましたが、この時に山本勘助は奮闘するも討死、他にも武田信玄の弟で副将武田信繁など多くの武将が討たれています
ちなみに真田幸村の諱である“信繁”は、この武田信繁を慕った幸村の父で徳川家を幾度も翻弄した智略の将真田昌幸が名付けたと言われ、兄の信玄も弟・信繁が亡くなったと知ると遺体を抱いて号泣しており、また味方の武田のみならず敵方の上杉からも死を惜しまれたと言われるほどの人格者だったそうです
この第四次の戦いの後は激しく衝突しておらず、双方代表を出して勝負を決め、北信濃は上杉領となりました
その後は武田信玄が病没すると武田は弱体、織田信長に攻められて滅亡すると森蘭丸の兄・森長可が入城しましたが本能寺の変で信長が倒れると長可は海津城から人質を盾にして撤退、海津城はしばらく空白でしたが豊臣の管轄地になりました
その後江戸時代に入る間際の西暦1600年に森長可の末弟・森忠政が入り、城名を待城(まつしろ)に改名したが数年で津山藩(岡山県)へ石高を加増されて転封、そして松平や酒井も入ったがまた転封、そして西暦1622年に真田信之が入城して真田の居城となりました
ちなみに松代城と名を改めたのは西暦1711年だそうです
この松代は松代藩の政治の中心にはなりましたが、商業の方はここから近い善光寺の門前から商人をひっぱろうともしても、善光寺を慕って動こうとしなかったために商業は栄えませんでした
現在も長野は善光寺を中心とした場所が商業の中心地となっており、松代は武家情緒や温泉など歴史的な場所となっています
明治になると廃城となり、火災などもあって土地の多くは住宅地となり、天守台と本丸四隅に設置されていた櫓も失われてしまいました
後に城趾の一部が県の史跡になり、2004年に堀や土塁と石垣、それに太鼓門などが復元されています
⚫︎太鼓門
それではスタンプをぽんっ!
◇スタンプは真田邸にございます