大坂城 | Shotaの日本旅行記 〜日本の素敵〜

Shotaの日本旅行記 〜日本の素敵〜

社寺と風景、お受けした御朱印に100名城スタンプを載せています。
この記事を見ていいと思ってくださる方がいるなら嬉しいです!
また、後で見返す事を前提としているのでたびたび前の記事を編集しますが、ご了承をお願い致します。

 
今回のお城は太閤・豊臣秀吉の城としてその栄華を誇った大坂城(おおさかじょう)です
 
 
大坂城は大阪城とも表記されて別名は錦城(金城)、豊臣政権の本拠地として栄華を極め、日本三名城と一つとして挙げられています
 
城郭の構造は輪郭式平城で、天守は複合式望楼型の5重6階地下2階建てだったと言われています
 
しかし大坂夏の陣にて豊臣家が滅亡すると、徳川によって豊臣時代のものは盛り土をして縄張りを改め再建されており、現在のものは徳川政権時代のものですが、現在その地下に眠る豊臣時代の遺構を発掘されたりしています
 
 
元々この場所には織田信長を苦しめた本願寺顕如石山本願寺があり、寺院とはいえ台地の北端で淀川が流れたこの場所は城郭としても鉄壁の防御を持つ場所でした
 
信長もこの立地を高く評価しており、本願寺を滅して跡地となったこの場所に大きな城を築く予定だったとされます
 
 
立地の防御もさることながら天然の堀となっていた淀川は京都に繋がる交通の要衝でもあり、西日本の押さえとして大変優れていた事に目をつけたのが豊臣秀吉でした
 
西暦1583〜1598年にかけて豊臣政権の権威を示すため巨大な城を築城、黄金の茶室や金箔瓦、壁板には金の彫刻が施されていたと言われる程の贅を尽くしてその財力をアピールしたとされています
 
ちなみに大坂城の縄張りを担当したのは黒田官兵衛です
 
 
そんな大坂城も太閤秀吉が亡くなると、日本が東西に分かれて戦った関ヶ原の戦いが勃発、豊臣に忠誠を誓って戦った石田三成が破れると豊臣家は大大名から一大名の石高に転落します
 
その後も太閤秀吉の子・豊臣秀頼は大坂城を居城としていましたが、西暦1614年に勃発した大坂冬の陣にて真田信繁(幸村)ら豊臣ゆかりの浪人などが奮起しましたが、結局和議を結ぶ事になりました
 
しかし、この時の和議において相互に認識の差があり、徳川勢は協議の外堀のみならず二の丸の堀など豊臣の持ち分の場所まで埋め立ててしまい防御力を落とさせられます
 
そしてそこを突いて大坂夏の陣が勃発、丸裸同前の大坂城に殺到する徳川勢を防ぐ事はできず、真田信繁ら大阪五人衆が奮闘するも破れ去り、豊臣秀頼も切腹となって大坂城と共に豊臣家は滅亡しました
 
 
この後の大坂は藩を廃止して幕府の管轄の天領となり、西暦1620年に江戸2代将軍徳川秀忠によって豊臣のものを排して大坂城を復興、1629年に完成しました
 
これ以降の大坂城は幕府直轄として歴代将軍が城主となっており、譜代大名から選ばれた大坂城代が管理しました
 
 
江戸時代には度重なる火災にあっており、天守は1665年に落雷で焼失しています
 
さらに幕末には大政奉還で二条城から追われた徳川慶喜が大坂城に移りましたが、鳥羽・伏見の戦いによって大阪も危険となって江戸へ脱出、この混乱で城内の建築物はほとんど焼失しています
 
 
明治には和歌山城の二の丸御殿の一部が移築や桜門が復元されており、大正に城内公園計画が持ち上がり、昭和に入ると大阪市長がこの事業を整備、こうして復元天守が1931年に完成します
 
戦時には大阪大空襲などで大坂城内も多大な被害を受けましたが、天守はなんとか破壊を免れて、今も大阪の象徴の1つとしてそびえ立っています
 
 
 
⚫︎大坂城内
 
 
⚫︎大手門

⚫︎天守前広場
 
⚫︎大坂城天守
 
 
⚫︎金明水井戸屋形
 
⚫︎武将兜
 
 
⚫︎壁板の金の彫刻の再現とシャチホコ
 
⚫︎天守からの大阪市街



それではスタンプをぽんっ!


◇スタンプは天守閣1階インフォメーションにあります

◇こちらは自分で押す押し印のみの御城印があります

◇御城印帳もあります



大阪城は復元天守なのであれですが、内部のエレベーターなどはさすがに城の形をしたビルって表現が妥当で、あまりお城感はないです
 
観光の外国人が集まる場所って感じもして、正直いい印象はないですね
 
こういってはなんですが、似非お城かな?
 
歴史的に考えてもすごい城だけに残念です
 
 
 
◆大坂城天守閣ホームページ◆





日本100名城のまとめは下のリンクからどうぞ
 
 
 
 
ブログランキングやってます!

お城・史跡ランキング
 
よかったらクリックお願いしますm(_ _)m