今回は一つの境内に二社が鎮座する和歌山の一宮にして官幣大社、日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)、総称して日前宮(にちぜんぐう)です
この神社は一つの境内に二つの神宮が鎮座する極めて珍しい神社で、日本でも最古級の歴史があります
こちらは朝廷から別格として神階を贈られておらず、このように別格とされたのは他には伊勢神宮のみというほど格式高い神社です
伊勢神宮と同列格とされたのも御祭神と御神体、それと神話が関係しています
まず、日前神宮は御祭神が日前大神で御神体は日像鏡、國懸神宮は御祭神が国懸大神で御神体は日矛鏡が御鎮座されています
この御神体の二枚の鏡は、神話に伝わる“天照大神の岩戸隠れ”の際に石凝姥命が伊勢神宮の御神体である八咫鏡に先立って鋳造した鏡で、日前宮に祀られていると日本書紀などにも記されています
このため日前宮は準皇祖神との扱いを受け、特別な神とされました
他にも日前大神は“日”が付く名からも“天照大神の前霊”とされており、鎮座する紀国は大和国の西の出口、伊勢神宮の伊勢国は東の出口としてもその対性から伊勢神宮と同格に近い扱いとされていたようです
この御祭神の話ですが、日前大神は元々この地で崇められた太陽の神ではないかとも言われ、もう一柱の國懸大神も紀国の国津神で須佐之男命の子・五十猛命ではないかとも言われます
これは現在日前宮が鎮座する場所には元々木の神の五十猛命を祀る伊太祁曽神社が鎮座しており、これを国譲りで受けてこちらに遷座、伊太木曽神社は現在地に移られたとされる話からの推測になります
要約すると大和朝廷から土着の豪族がこの地を追い出されて奥地へと行かざるを得なかった、その後に朝廷の正当性のため土着の神も形を変えて祀ったのではないかと思います
ちなみに紀伊は元々は紀国、さらに遡ると“木国”と呼ばれた五十猛命の地です
それだけにこの日前宮の地は重要な場所だったとも考えられますね
日前宮が元々鎮座していた場所は現在濱宮神社が鎮座している場所とされます
中世では熊野詣での際にも立ち寄られる場所との記録があるほど崇敬されていましたが、西暦1585年に豊臣秀吉により攻められて社領は没収、社殿が取り壊されるなどして荒廃しています
江戸時代になると紀州徳川の初代藩主徳川頼宣により社殿が再興されていますが、境内は最盛期の5分の1ほどの広さで以前ほどの力はなくなってしまいました
さらに近代になり、大正8年に改善工事で建物が全て一新されており、昔の姿とは大きく変化してしまっています
1946年から単立神社となっているので紀伊国一宮で官幣大社でも別表神社ではありません
和歌山では日前宮・伊太祁曽神社・竈山神社の三社を参拝する事を三社参りとしているそうです
⚫︎社号標