今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

朝廷に法を守らせた信長と検察定年延長問題

 検察官の定年を延長する検察庁法改正案について、SNS上で抗議の声が上がっている。検察OBが反対の意見書を出すのは異例といえる。

 政府は法案提出以前に黒川弘務高検検事長の定年延長を法律の解釈変更という閣議決定で強行している。法案はこの決定を「後付け」で正当化するものとみられている。

 黒川検事長の定年延長の話を聞いて、織田信長(1534〜82)が南都(奈良)の大寺院、興福寺のトップである別当職をめぐる正親町おおぎまち天皇(1517~93)の決定を覆した、天正4年(1574年)の「興福寺別当相論」が思い浮かんだ。

 この出来事は、天皇の権威をも凌駕しようとする信長の専制を象徴する事件とみられてきたが、最近の研究ではどうもそうではなかったようだ、ということが分かってきた。

読売新聞オンラインwebコラム本文

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高検検事長定年延長問題とは

 詳しくはコラム本文を読んでいただきたいが、高検検事長の定年延長問題をおさらいしておく。検察庁のナンバー2である高検検事長検察庁法で63歳が定年と決まっている。黒川検事長は今年2月に63歳になったが、安倍内閣は法改正をしないまま、黒川氏の定年延長を閣議決定し、黒川氏は今年7月にも勇退が見込まれる稲田伸夫検事総長の後任に就くことが可能になった。

 国家公務員法には定年延長の規定があるが、これまで政府は「国家公務員法の規定は検察官には適用されない」と解釈してきた。首相すら逮捕できる強大な権限を持つ検察は政治的中立性を求められるからだ。ところが森雅子法相はこの解釈を変更し、その手続きも口頭決裁で済ませた。

 その後に国会に提出された検察庁法の改正案は検察官の定年を段階的に65歳に引き上げるというものだが、改正法が成立しても、後付けで黒川検事長の定年延長のいい加減な手続きを正当化することはできない。

 「興福寺別当相論」とは

  では、興福寺別当相論とはどんな話か。藤原氏の氏寺でもある興福寺別当職は、寺があげてきた候補者を藤原氏の代表者(氏長者うじのちょうじゃ、通常は関白)が補任し、天皇が勅許で認める慣例になっていた。

 天正元年(1573年)に興福寺別当に就任した松林院光実こうじつ(?~1585)は、早々とおいの東北院兼深けんしん(生没年不明)を次期別当に就け、朝廷の内諾も得ていたが、天正4年(1576年)になって、寺内から「兼深は維摩ゆいまえ探題たんだいをこなしていない」という理由で兼深の別当就任に異を唱える声が出た。

 維摩会は寺が催す最大の学会で、「探題」は僧たちに仏教に関する専門的な問題を出す大役。これを経験しないと興福寺トップにはなれないという寺法があった。

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興福寺維摩会(『春日権現験記絵巻.第11』国立国会図書館蔵)

 信長激怒「面目がつぶれる」

 上洛してこの話を聞いた信長は、「従来の寺法通りにせよ」と、事実上尋円を別当にすべきとする書状を氏長者に出したが、兼深の直訴を受けた正親町天皇は、兼深を別当に推す決定をしてしまう。

 安土で報告を受けた信長は「笑止の沙汰」と決定を覆させ、別当には尋円が就いた。騒動が決着した後、信長は朝廷に宛てた書状にこう記している。

 「今度の別当職の件は言語道断のことだ。朝廷の政務に滞りがあれば、下々まで乱れることはもちろんだ。そんなことをしていれば天皇の威信が失われる。そうなるとこの信長も同じく面目が丸つぶれになる」

 ひと昔前なら、信長なら朝廷の人事を引っ繰り返すことなどなど朝飯前、と思われていたが、今の学説では信長が前例無視の強引な人事をしたのは家臣に対してだけだったという見方が有力だ。

 信長は朝廷が旧来の法から外れた決定をしたのでやむなく介入したが、朝廷が決める人事については基本的に朝廷の自主的な判断を尊重していた。朝廷の完全な独立は認めないが、一定の範囲で「準独立的権限」を認めようとしていたともいえる。

 にもかかわらず朝廷が決める人事に介入したのは、一定の独立を認めるからこそ、朝廷が法に沿った決定をしなければ困ると考えたからだ。そうでなければ「自分の面目」も丸つぶれになり、信長自身も天下人としての責務を果たせなくなる。

 むろん時代背景も状況も今とは異なるが、黒川検事長の問題と似ていると思うのはこの点だ。信長が朝廷にあてた書状の「こんなことをされたら信長も面目が丸つぶれになる」というくだりが、今に通じるように思えてならない。

 もうひとつの介入「絹衣相論」

 コラム本文で興福寺トップ人事を巡る話はさらに詳しく書いているので、ここでは信長が介入したもうひとつの宗教関連の抗争「絹衣きぬころも相論」について紹介したい。これは常陸茨城県)水戸から始まった僧侶の素絹の衣の着用を巡る天台宗真言宗の争いだ。

 興福寺相論の人事抗争で古来からの寺法を守った信長は、この問題でも古来からのしきたりを守っている。

 絹衣は平安中期から天台宗の僧侶だけが着用を許されていた。ところが水戸地域の支配権が天台宗を保護してきた大掾氏から真言宗を信奉する江戸氏に移ると、真言宗の僧侶にも絹衣の着用が認められるようになった。

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比叡山延暦寺(根本中堂)

 南常陸にあった天台宗不動院の訴えを受けた天台宗の総本山、比叡山延暦寺常陸真言宗僧侶の絹衣着用を禁じるよう朝廷に求め、朝廷は真言宗が地方の寺院に絹衣着用を認めていないことを確認した上で、常陸真言宗門徒に絹衣を着用を禁じる綸旨りんじ(命令書)を出した。

 ところが天正2年(1574年)になって、真言宗側が前の権大納言柳原資定すけさだ(1495〜78)を通じて絹衣着用の正当性を確認する訴訟を起こした。今度は地方の真言宗に対しても絹衣の着用を求める正親町天皇の綸旨が出されたが、これは資定が勝手に出した偽の綸旨だったとみられ、資定は天皇から謹慎処分を受けている。 

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絹衣姿の僧(『法然上人絵伝』)

双方の訴えを聞いた信長は…

 いずれにしてもこうした朝廷の混乱もあって天台宗真言宗の絹衣着用を巡る争いは泥沼化し天正3年(1575年)に上洛した信長が調整に入ることになった。信長は優秀な公家5人を天皇の補佐(奉行衆)につけて審理のやり直しを命じた。

 5人は過去の決定を全て白紙に戻し、柳原を赦免した上で一から審理をやり直した。その結果、問題の原因を作った江戸氏に対して真言宗に対する優遇措置をやめること、常陸の寺院はこの問題に関する争いをやめて本寺の指示に従うこと、今後朝廷はこの問題に関する訴訟は受け付けないことを記した綸旨を出した。

 ところが、この命令書を常陸に伝える使者となった真言宗醍醐寺の僧侶が絹衣を着て常陸に下向したため天台宗側はまたしても反発し、それを京都に報告した。これを聞いた信長は激怒し、使いの僧を「悪僧」と呼んで醍醐寺から追放処分としている。

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興福寺

興福寺相論」にも通じる絶妙のバランス感覚

 この事件が起きたのはコラム本文で紹介した「興福寺相論」の直前で、絹衣相論を裁定した5人の公家(奉公衆)のうち4人は興福寺相論でも天皇の裁定を補佐している。信長は朝廷の決定を尊重し、古来からの法を守って恣意的な決定をしないよう求めたのだろう。

 信長はこの時、すでに比叡山延暦寺を焼き討ちにしており、高野山金剛峰寺に対しても圧力をかけていた。しかし、そうした宗教弾圧と朝廷政治の話は別物だったこともわかる。信長は宗教的な権威を凌駕しようとしていたわけでもないし、だからといって朝廷にとって代わろうとか、天皇に圧力をかけて自分の意のままに動かそうとしていたわけでもない。

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 興福寺相論の措置と同じく、朝廷の独立性や権力の分掌については、十分に配慮していた。ただ、朝令暮改で過去の慣習が変わり、偽の綸旨が出るような朝廷政治では困ると思ってさまざまな措置をとったのだろう。

 専制君主で「鳴かないホトトギスを殺してしまう人」とみられていた信長だが、私は法治主義と権力の分立についての理解はあったのではないかと思っている。

「染谷信長」との親和性

 以上の話は信長が大和を支配下に治めてからの話で、今の大河ドラマ麒麟がくる」は、まだまだこの年代には来ていない。しかし、染谷将太さん演じる信長からは、過去の「第六天魔王」「破壊者」のイメージばかりではない実利にたけたしたたかさを感じる。この信長像の方が本物に近いような気がしてならない。

*国会での検察庁法案審議紛糾を受けて5月17日に内容の一部を修正しました。

 

 

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