今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

「暴れ川」「ダム」の歴史と令和の熊本豪雨

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決壊した球磨川と浸水した人吉市

 梅雨前線の影響で熊本県南部に記録的な大雨が降り、球磨川が氾濫した。支流に近い球磨村特別養護老人ホームが浸水し、土砂崩れも多発した。

 八代市人吉市では橋が流失し、多くの人が孤立した。死者・行方不明者は30人を超えた。大雨はまだ続きそうだ。私も熊本にいた時期、梅雨末期の大雨の猛威を経験した。被災された方には心からお見舞い申し上げるとともに、引き続き警戒するようお願いしたい。

  

 洪水常襲の「暴れ川」球磨川とは

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球磨川流域図(国土交通省河川局『球磨川水系の流域及び河川の概要』)

 九州は梅雨末期になると毎年のように集中豪雨による水害が発生するが、7月4日未明から朝にかけては観測史上最多雨量を更新する猛烈な雨が降った。球磨川流域は急峻な山々に囲まれ、日本三大急流のひとつとされる。

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 上流の人吉・球磨盆地は、周囲を山に囲まれ、山間部に降った雨がすり鉢状の盆地に集まりやすい。中流域は山の間を流れ、川幅が急に狭まる「山間狭窄部」、つまり「ボトルネック」になっており、急に水位が上昇しやすい。下流八代平野扇状地を蛇行し、河口付近は干拓でできた海抜が低い土地で、堤防決壊や広範囲にわたる浸水が起きやすい。球磨川は上流、中流下流ともに、大雨が降ると一挙に「暴れ川」となり、流域のすべてで氾濫が起きやすく、ひとたび氾濫すると浸水被害は大きくなる。

 1200年続く水害との戦い

 球磨川の流域は昔から繰り返し洪水被害に見舞われてきた。古くは貞観11年(869)にすでに大洪水が発生したとの記録がある。平安時代以降、川の流れを弱めるために川に杭(杭瀬)を打ち込む治水工事が継続的に施された。相良氏が人吉を拠点にした1200年代以降は領主の城館を水害から守るため、堤防や護岸の整備が行われたが、国土交通省河川局の「球磨川水系の流域及び河川の概要」によると、流域では過去400年の間に100回以上の水害が記録されている。

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 平成になってからも大きな水害は起きているが、多くの死者が出た水害はなかった。今回の水害は規模も被害も大きく、これまでの水害で対応できる範囲を超える大雨が大きな被害につながったのは間違いない。

清正が 築いた?遥拝堰

 何とか暴れ川を制御しようと、多くの人が困難な治水事業に挑戦してきた。有名なのは加藤清正(1562〜1611)が手掛けたという説もある「遙拝堰」の築造だ。 

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復元された「遥拝堰」

 「遙拝堰」は川の真ん中を頂点に川底に八の字形に石を積み上げ、川の流れを左右に分けて急流を和らげる堰だ。球磨川が山間部から八代平野に出る遥拝宮の近くに設置された。水害を防ぐ「四十八瀬の殿」とされ、木製の杭瀬から改良した石積みの長さは約800メートルにわたる。洪水時に水を流し、平常時には舟が通れるように、頂点にあたる中央部は約40メートル開いていた。

 堰の両側には井樋が設けられ、農業用水を取水する仕組みで、干拓で拡がった八代平野の田畑を潤すためにも必要な設備だった。昭和48年(1973)にコンクリート堰に改修されて姿を消したが、その後歴史的遺構として復元されている。

 遥拝堰の取付部から河口までの下流には「萩原堤」「前川堤」など、総延長6キロ以上の堤防が築かれた。清正の跡を継いだ加藤忠広(1601〜53)が、家臣の加藤右馬允正方(1580〜1648)に命じ、一気に整備されたという。小西行長が八代を治めていた時代の麦島城が元和5年(1619)の大地震で大破したため、正方は新たに八代城(松江城)を新築しているが、下流平野部の堤防や堰もこの時同時に整備されたという。

 球磨川が大きく蛇行するカーブに築かれた萩原堤は、八代城下を洪水から守る要として、特に堅固に築かれた。激流を川の中央に戻す石張りの「はね」も7か所につけられていた。 

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蛇行地点に築かれた萩原堤(国土交通省河川局『球磨川水系の流域及び河川の概要』)

「瀬戸石崩れ」を7日で復旧させた稲津弥右衛門

 ところがこの萩原堤も宝暦5年(1755)の大洪水で決壊してしまう。「瀬戸石崩れ」と呼ばれるこの水害は、大雨で上流の山が崩れ、球磨川をせき止めてできた天然ダムが瀬戸石付近で決壊したために起きた。八代城下は突然の濁流に襲われ、死者は500人以上。冠水した田畑3万町歩という大災害になった。

 防災の要を一刻も早く復旧させないと、次の大雨はいつ来るか分からない。だが、難航必至の堤の復旧を引き受ける者などいないと思われた。この時、熊本藩主の細川重賢(1721〜85)に進み出て堤の修築を申し出たのが、郡目付の稲津弥右衛門頼勝(1705〜86)だった。

 当時は堤の築造・修理は領民の公役(無償労働)で行うのが常識だったが,稲津は甕数百個に銭を盛り、「男女15歳以上,よく土石を運び,労役に服する者には銭を与える」と布告した。集まった領民を力に応じて3グループに分け、能力に応じて日払いで報酬を出したため、大勢の領民が復旧工事に加わった。

 寝食を忘れた稲津の働きの結果、以前に倍した堅固な大堤防がわずか7日で完成した。その年の八月、球磨川流域には再び大雨が降ったが、八代城下は被害を免れることができたという。

 領民は『あのや稲津さまは仏か神か 死ぬる命を助けさす』という歌を作って頼勝の功をたたえた。後日、この話を伝え聞いた重賢も宴席で『あのや稲津さま』の歌を口ずさみ。これを伝え聞いた頼勝は「およそ家来たる者は多いが、主君から『様』をつけて呼んでもらった者はわしだけだろう」と涙を流して喜んだという。

 萩原堤は後世の増強工事を経て、今も八代市を守る堤防として重要な役割を果たしている。今回の大水害でも大きな役割を果たしたのではないか。今回の水害でも多くの地点で堤防の越境が起きており、次の大雨に備えて氾濫場所の早期把握と復旧・強化が不可欠だ。

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七・三水害の人吉大橋下流国土交通省河川局『球磨川水系の流域及び河川の概要』)

昭和40年の大水害と市房ダム

 上流に位置する人吉市球磨川の水害に悩まされてきた。「七・三水害」と呼ばれる昭和40年(1965)年7月3日未明の洪水は、家屋の損壊・流出1281戸、床上浸水2751戸という大きな被害が出ている。

 この水害の5年前には、洪水対策の決め手として球磨川上流に市房ダムが造られている。それでも「七・三水害」は起きてしまった。しかも、この時の水害はこれまでとは様相が違ったという。

 『球磨川大水害体験録集』には、「何をする暇もなく、どっと水が押し寄せてきた」「2、3時間で3メートル以上水位が上がったのは初めて」「これまで経験したこともない(増水の)速度だった」という証言が残されている。

 昔から洪水は多かったが、津波のような増水は多くの人にとって未経験のものだった。市房ダムが完成して間もなかったこともあり、水位が急激に上がったのはダムの緊急放流*が原因だったという見方が根強く残った。

*緊急放流 ダムがほぼ満水になり、水をため込めなくなったため、入ってくる水をそのまま下流に流すこと

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緊急放流が検討された市房ダム

 ダムからの放流量は流入量より多くなることはなく、緊急放流は下流のピーク流量を増大させることはないという。しかし、この時の市房ダムの緊急放流の警告内容は「洪水調節を行っており、これからさらに川の水が増えて大変危険ですから川に近寄らないでください」という内容だった。

 急な増水の原因はダムの緊急放流((最近は昔より雨量が増えたことで、ダムに貯水能力を超えた水が流れ込み、緊急放流が原因と記憶している人は多い。今回の熊本豪雨でも一時、市房ダムの緊急放流が検討された。

緊急放流がは見送られたが…

 これとは別に、市房ダム完成と同時に行われた遊水地帯の河川改修で河道が直線になり、それが球磨川の時間当たり流量を大きくした、という見方もある。

 ダムの緊急放流はダムの決壊を防ぐために行われるが、ダムが決壊するほどの大雨が降れば下流ではすでに氾濫が起きている可能性が高く、そんな時に過放流で水量が増やせば氾濫地点での被害はさらに大きくなる、というわけだ。

 ダムの建設は確かに治水の有効な手段だが、貯水能力を超えると、上流部に大量の水を抱えるリスクが発生する。宝暦5年の「瀬戸石崩れ」が天然ダムの決壊によって起きた。上流のダムの流量調整が出来なくなれば、かえって危険が高まるケースも出てくる。 

 「七・三水害」を受け、球磨川水系では昭和41年(1966)から川辺川ダム計画が進められたが、熊本県の蒲島知事は2008年に計画反対を表明し、2009年からダムに代わる治水策を協議してきた。しかし、堤防のかさ上げや遊水地の整備には莫大な費用がかかり、抜本的な治水対策は進むことなく、今回の水害が起きてしまった。

 熊本県の蒲島知事は「ダムによらない治水を12年間でできなかったことが非常に悔やまれる」と語る一方で、「極限まで、もっとほかのダムによらない治水方法はないのか考えていきたい」と述べ、「ダムなし治水」の方針は変えない考えを示している。

ダムが要るのか、ダム無しがいいのか

 また、市房ダムの緊急放流について蒲島知事は「もともと(7月4日)午前8時半の(緊急)放水予定は弾力的に考えて雨の様子を見ていた。午前9時半まで待ったところ雨が弱くなった(ので放流を)見送った。午前8時半に自動的にダムの水を全て放水していたら、今回の洪水以上の大きな災害になったと思う」と語っている。

 「これまで経験したことのない」「100年に一度」の豪雨や洪水が、全国各地で毎年のように起きている。想定外の豪雨が増えたことで、ダムに貯水能力を超えた水が流れ込み、緊急放流せざるを得なくなるケースは今後も増えるだろう。2018年の西日本豪雨でも、ダムを守るための緊急放流がかえって被害を大きくしたとの指摘がある。

 より大きくて丈夫なダムを造るべきなのか、それとも、緊急放流を想定しなければいけないダムによる治水は、もはや止めた方がいいのか。今回の水害はダム治水の在り方にも大きな課題をつきつけている。

 熊本豪雨は、まだ復旧より人命を守ることに全力を挙げる段階だが、人命救出や救護、生活支援にめどが着いた時点で、わずか7日で手を打った稲津の行動力を見習い、堤防などの復旧作業を急いでほしい。その次には「過去に例のない量の雨が降ったのだからどうしようもなかった」と片付けず、ダム治水策のさらなる検証が不可欠だろう。

 #球磨川 #熊本豪雨 #川辺川ダム #緊急放流

 

maruyomi.hatenablog.com

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