今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

「麒麟がくる」に反映された「洛中洛外図屏風」の謎解き

 京都市中(洛中)と郊外(洛外)のパノラマ景観を描いた洛中らくちゅう洛外図らくがいず屏風びょうぶの中でも最高傑作とされる「上杉本」(国宝、米沢市上杉博物館所蔵)が、上野の東京国立博物館で開催中の特別展「桃山―天下人の100年」に出品されている。

 70点を超える洛中洛外図屏風のなかでも初期の作品で、狩野永徳かのうえいとく(1543~90)が描き、天正2年(1574年)に織田信長(1534~82)が上杉謙信(1530~78)に贈ったとされる名品だ。

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上杉本洛中洛外図(米沢上杉博物館所蔵)

読売新聞オンラインのコラム本文

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屏風は織田信長から上杉謙信に贈られた

謎多き「上杉本」をめぐる大論争

 永徳に屏風を発注した人物は誰が、何のために描かれたのか。多くの学者が描かれた背景や秘められた政治的なメッセージについて考察し、歴史学者の大論争も起きている。その結果、明らかになった屏風の発注主と、そこに隠されていた意外な新事実について紹介した。

 詳しい経緯はコラム本文に書いた。東京国立博物館に行かれる方は、ぜひその前にお読みいただければと思う。ここではコラム本文に書ききれなかった余話を取り上げたい。むしろ東博で実物を見た後にお読みいただいた方がいいかもしれない。

桃山文化安土桃山時代以前から

 コラム本文で書いたように、上杉本洛中洛外図は信長が発注したのではなく、13代将軍足利義輝(1536~65)が存命中に若き永徳に発注したというのが今の定説になっている。だとすれば、狩野派の作品は、信長が台頭する以前の永禄年間の前半から、さまざまなところに描かれていなければおかしい。

 少し前まで豪華絢爛な桃山文化は、信長と豊臣秀吉(1537〜98)の安土桃山時代に花開いた、と思われてきた。信長と秀吉が“成り上がり“らしい派手好みの性格だったことと結びつける見方もあった。しかし、「上杉本」の発注者が義輝なら、桃山文化はそれ以前から花開いていたことになる。

 「上杉本」が描かれた経緯についての定説が固まったのは20年ほど前に過ぎない。NHK大河ドラマ麒麟がくる」の時代考証は、それを映像に反映させている。信長上洛前後の永禄年間の二条御所などのセットを豪華で派手な装飾で彩られ、もう桃山文化が花開いているのだ。

 「美濃の蝮」斎藤道三(1494?~1556)が実は2代目だったことや、帰蝶が信長に嫁いだのは再婚だったことなど、最近の定説を織り込んでいることは以前にも紹介したが、綿密な考証はさすが大河ドラマだ。

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特別展のタイトルに込められた意味

 今回の特別展の名称「天下人の100年」にも、桃山文化安土桃山時代という固定観念を見直す意味が込められている。

 安土桃山時代は時代区分ではせいぜい30年ほどで、100年も続いていない。しかし、桃山文化は戦国時代の後半にはすでに始まり、徳川の世になってからも続いていた。特別展に並んだ複数の洛中洛外図屏風を見ると、そのことがわかる。だから、あえてタイトルに「100年」が入っているのだろう。

 信長は天才絵師、永徳に安土城の内装を描かせたが、安土城天正10年(1582年)の本能寺の変後に焼失し、永徳の傑作の多くは灰になってしまった。安土桃山時代を象徴する安土城の襖絵を描いたという記録は「永徳=安土桃山時代を代表する絵師」というイメージを定着させたが、「上杉本」は永徳は安土桃山時代を代表するとともに、桃山文化を代表する絵師だということを再認識させてくれる。

読売新聞オンラインのコラム本文

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 上杉本をいつ、誰が描かせたのか、というのは些細にみえるが、こうした地道な研究成果によって日本の文化、美術史は修正され、それは今作られている映像にも影響を与える。結果の当否にかかわらず、研究家たちの努力はやはりすごいと思う。

 

 

 

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