今につながる日本史+α

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読売新聞編集委員  丸山淳一

本来の「年忘れ」に戻る2020年

  新型コロナは年末になって感染拡大の第3波が襲来し、東京都の小池知事が「年末年始コロナ特別警報」を出して、忘年会や新年会を自粛し、帰省を控えるよう呼びかけた。「Go To トラベルキャンペーン」は一時停止され、いつもの帰省ラッシュもない。

 信用調査会社の東京商工リサーチが約1万社に行った調査によると、約9割の企業が忘年会や新年会を開催しないという。同期などとの小規模な忘年会や、部署での納会についても禁止する会社が多い。最後までコロナ禍に振り回された今年こそ、忘年会でも開いて「年忘れ」をしたいところだが、感染拡大を防ぐにはやむを得まい。年の最後のコラムでは日本で約600年続く忘年会の歴史を遡ってみた。

読売新聞オンラインのコラム本文

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第3波が広がるさなかに

 約100年前のスペイン・インフルエンザ大流行では、大正8年(1919年)12月から第3波の流行が始まったとされる。すでに2波にわたる流行を経験していた日本では「呼吸保護器(マスク)をせずに人の集まる場所に行くな」という呼びかけが行われていたが、忘年会や新年会の自粛は呼びかけられていなかったようだ。

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    スペインインフルエンザ流行の経緯(国内の死者数)

 磯田道史さんによると、第3波の兆候を知ったオーストラリア政府は大正9年1920年)1月に日本政府に事実の有無を問い合わせたが、外務大臣だった内田康哉こうさい(1865〜1936)の返答は「寒気とともに患者数は激増しているのは事実だが、前年度流行当時に比べれば、患者数も死者数もなお少数で、10分の1にも達しない見込みだ」というものだったという(2020年5月13日「古今をちこち」より)。

 すでに感染の波を二度も経験していたにもかかわらず、第3波の流行を甘くみていたと言わざるを得ない。政府がこんな調子だったのは、今と違って有識者の危機感もなかったことも一因かもしれない。コラム本文では、帝国学士院(現在の日本学士院)の納会が、参加者のせきやくしゃみでにぎわう中でも強行されたと紹介する大正8年12月15日の読売新聞記事を紹介している。納会は、当時の日本の「学者のすい」たちが感染リスクを踏まえても、やめるべきではないものだったのだろう。

近代忘年会は明治中期から

 社会学者の園田英弘(1947~2007)は著書『忘年会』のなかで、組織的に大人数で年忘れを行う忘年会を「近代忘年会」と名付け、その起源を明治中期と分析している。身分制が解体され、社会が流動化して一獲千金の商機や才能に応じた抜擢ばってきの道が開かれた。旧大名は文明開化に後れを取るまいと社交や接待の場を増やし、薩長藩閥の要人は自らの権勢を示すために派手な会合を開きたがった。庶民も自分が属する集団(会社など)内部の人脈を広げ、外部の人脈を開拓しようとした。

 職業や地位にかかわらず、「年忘れ」は集会や交遊の場を設ける絶好の名目になり、官民を問わず急速に普及した。明治21年1888年)末には、時の首相、黒田清隆(1840~1900)が、各省庁に官費による公用忘年会はできるだけ質素にするよう訓示しているが、その黒田自身が首相官邸に大臣や要人を招いて忘年会を開いている。夏目漱石(1867~1916)が明治38年(1905年)に発表した『吾輩は猫である』には、注釈もなく「忘年会」という言葉が出てくるから、このころまでに庶民にも広く定着したのだろう。

「歳忘」から「年忘」に、さらに「忘年」に

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建部綾足像(『寒葉斎建部綾足』国立国会図書館蔵)

 忘年会という言葉を最初に使ったのは漱石だ、という人がいるが、それは誤り。江戸時代中期の国学者建部綾足あやたり(1719~74)が『古今物忘れ』のなかで、忘年会は「うき(き)一年」を忘れるための会合と紹介している。ただ、建部は本来の「憂きこと」の意味は「忠孝をつくすべき君主や親がとしをとり、老いていくこと」だった、と嘆いている。

 確かに室町時代連歌会を記した記録には「若者とともに(自分の歳=年齢を忘れて)連歌会の納会でこの1年の上達を喜び合った」という記述がある。

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室町時代連歌会の様子。上流階級の社交の場だった(『慕帰絵々詞』国立国会図書館蔵)

 貝原益軒(1630~1714)の『日本歳時記』によると、江戸時代前期には、まだ「目上の人を交えて酒を酌み交わし、1年間を無事に過ごせて、年を越せる(数え年で1つ歳を重ねることができた)ことを喜び合う」のが年末のしきたりだった。室町時代の「歳忘れ」の精神がまだ残っていることがうかがえる。 

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『日本歳時記』挿絵の「年忘」風景(国立国会図書館蔵)

 どうやら「歳忘れ」が「年忘れ」になり、江戸時代に漢字が「年忘」から「忘年」にひっくり返って近代忘年会へと変化したというのがひとつの流れのようだ。

 コラム本文ではその流れを遡るとともに、「年忘」が「忘年」にひっくり返ったきっかけは、江戸中期に「御歳暮」の風習が庶民にも広がったことが関係しているのではないか、と推理してみた。むろん一つの仮説に過ぎず、おそらく近代忘年会に至る経緯は、多元的にさまざまな風習や慣例が交錯しているのだろうから、これだけが真相とは言えないが。

吉良邸討ち入りはなぜ成功したのか

 経緯には諸説あるとしても、江戸中期にはすす払いや大掃除を中旬までに終わらせ、その後で雇い主に「御歳暮」のあいさつをして、「年忘れ」の宴で酒を飲み明かすというのが恒例になったようだ。 江戸の町では年末の仕事は12月13日までに終わらせるのが定着していたという。

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討ち入りは吉良邸納会直後を狙った?(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

 余談になるが、旧暦の元禄15年12月14日(今の暦で1703年1月30日)、赤穂浪士が吉良邸に打ち入ったのは、大掃除の後に開かれた納会の茶会の後だった。園田の『忘年会』によると、吉良邸の警護役は納会も終わり、すっかり気が緩んでいたところを襲われたから浪士たちに太刀打ちできなかったという説があるという。

気の緩みはやはり禁物

 12月31日、東京都の新型コロナ新規感染者数がついに1337人に達し、初めて1000人を超えた。600年の歴史がある忘年会を我慢したのだから、ここで気が緩んでは元も子もない。振り返ってみると忘れてしまいたいことが多かった2020年だが、1日呑んで騒いだくらいでは忘れることはできない。

 不幸にもコロナで亡くなった方々のご冥福を祈り、厳しい状況で奮闘する医療現場の方々に思いを向け、無事にこの1年を過ごせたことを家族とともに静かに感謝する――2020年は本来の「年忘」の年越しに立ち返る年なのかもしれない。

 今年もご愛読、ありがとうございました。

 

 

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