先日、弱い信仰の人に、偶像礼拝の場では、形だけ頭を下げて難を逃れる方法があることを、私自身、教えられたことがあったことを思い出した。
「1/27昨日の記事 弱い信仰をつまずかせないで、建て上げる」
その結果、確かに私は今、仏教やその他の偶像崇拝から離れて、守られてはいる。
しかし、同じことを、今、私は生まれたばかりのクリスチャンに伝えてはいけないと思った。偶像の前で、形だけちょっとだけだから偶像崇拝には当たらないと安易に考え、それを続けるならば、恐ろしい結果につながる。
今日は、弟子訓練の第一回目の日ですが、教える側にいる私自身が、救いを全うすることについて、はっきりと意識しておく必要を覚えた。
「空中再臨」 「携挙」 「患難時代」 「再臨」 「千年王国」 「第一の復活」 「最後の審判」 「第二の死」 「新天新地」
黙示録20章を開いてみた。過去の牧師のメッセージを倍速で聞いた。
聖書が読めるという恵みの中で、信仰をはっきり持って生きていく必要を感じた。
現在の日本は、ローマ時代のような、キリストに従い通すために、激しい迫害、患難をも甘んじて受ける殉教者が多くいたという状況下ではない。
中途半端で、形だけの信仰で、証しをするどころか、他の人に躓きを与えるような信仰者は、どうなのか。恐れをもって、今日なされる学びに臨まなくてはならないことを、主によって示されました。学び会のリーダーは牧師夫人なので、私は控えて主ご自身の導きを祈りつつ、同席します。
今日、一緒に学ぶ彼女の職場は、京都市内のど真ん中で、偶像崇拝に深く関わっている人々や場所で、名前ばかりのキリスト者とも関わって、長年働いておられる方なのです。