三島由紀夫没後50周年企画の後半はこの2作品の上演。今回は配信で観ました。
「真夏の死」(「summer remind」)
作・演出 加藤拓也
中村ゆり/平原テツ
初出は1952年。ある夏の日、朝子は3人の幼子と義妹とで伊豆の海岸に遊びに行き、午睡している間に2人の子供と義妹を水難事故で失う。家族を失った悲しみを抱え、同時に責任の重さを感じて自分を攻めるが、秋の訪れと共に事件や子供の記憶は薄れていく。そのあとに襲ってくる空虚を耐え凌ぎ、消えかける子供の記憶を探そうと焦り、自分はまだ悲しみから立ち直ってはいないはず(立ち直ってはいけない)と言い聞かせる朝子。翌年に女児を産み、それによって自分の戒めができたと思うようになる。事故から2年後、家族で事故の起きた海岸を訪れ、朝子は娘を抱いて何かを待つように海を見つめたまま……。小説はそこで終わりますが舞台では、朝子が自分の娘を海に放り投げて終わります😱
舞台の中央に椅子が二つ並んでいて、朝子と夫はほとんどその椅子に座ったまま喋る=状況や心情を観客に向かって告白する形。時々2人で対話したり動きを見せたりもするけど、独白風リーディング劇かラジオドラマのようです。こういう演出にしたのは、家族を失った悲劇との向き合い方など夫婦の心情の乖離感は出るけど、演劇としてどうなのか?🙄 それならセリフの言い方をもっと工夫すべきじゃないかな。軽い言葉遣いが気になったし、役者の終始オドオドしたような、感情をダラダラ垂れ流すような喋り口調も苦手だった😞(個人の感想です🙇♀️)。
小説をどのように解釈し上演台本として書き起こすかは全く自由なんだけど、小説の状況を随分変えているのも気になりました。特にラストをあのような具体的な動きで見せたこと🤔 小説の最後は確かに、朝子は娘を海で溺れさせるつもりと解釈もできるけど、それならば、そこに至るまでの妻の心理描写をもっと丁寧に見せて欲しかった😔 なぜそこまでの思いに至るのか、ちょっと分かりかねた。生まれた子供は内臓の塊のようなグロテスクな「モノ」で表現されていて、妻にとって子供はおぞましい運命の象徴。それを海に放り投げるのは象徴的だったけど。
「班女」近代能楽集より
作・演出 熊林弘高
麻実れい/橋本愛/中村蒼
三島の「近代能楽集」は能の謡曲を近代劇に翻案したもので、「班女」は1955年発表。班女は「班氏のむすめ」のこと。帝に捨てられた女が我が身を扇になぞらえた詩を作った故事にちなみ、能では狂女が扇に恋人を偲ぶ姿が表現されているそうです。
芝居の方は、花子はかつて吉雄と出会って心を通わせ、2人は再会を誓って扇を交換した。以来、吉雄を待ち続けるうちに狂女となった花子。その花子を住まわせている実子は40歳ほどの独身女性。3年が経ち、吉雄が訪ねてきたが、花子は「あなたは吉雄さんではない」と退ける。そして再び男を待ち続ける花子と、その花子を囲い愛する実子の人生が続く。
三島の解説によると、吉雄を待ち続けることで、花子の正気の時の夢は精錬され、完全無欠な狂気の宝石になった。そのあまりに強い愛は実在の恋人を超えてしまい、もはや吉雄は一個の髑髏にしか見えないのだと。一方、実子は誰にも愛されたことがないゆえ、何かを心から愛している人=花子を独占する。花子は「実子の代わりに、実子の愛を美しい姿で生きてくれる人」であり「花子の愛が報いられない間は、花子の心は実子の心」なのだと。花子は待つことで、実子はその花子を手元に置くことで生を実感するのかな。
三島の情念の世界を堪能しました〜🎉 技巧に富んだセリフがとても甘美で、それを体現する3人の役者にはセリフの力を感じた👏 彼女こそ狂女だと思わせる麻実れいのセリフ回し、声、立ち振る舞いに魅了されました。そして、心を病んだ橋本愛の中から溢れる美、なんとなく不実そうな(褒めてます😬)中村蒼。素晴らしいアンサンブルです。抽象的な演出と舞台美術も作品を的確にイメージ化していたと思う👍
しか〜し❗️問題は配信映像ですっ😡 カット割りが多過ぎる😤 数秒置きにアップとロングがせわしなく交互に切り替わり、角度が変わったり、顔や身体を切ったアングルになったり、口元のアップを移したり。目がチカチカして直視できず、観劇に集中できなかったよ😫 芝居(舞台)を見せるという舞台映像本来の役割を放棄して、映像アート作品を創ろうとしているみたい。最悪の配信映像でした〜🔥