米びつから鍵が出てきた話。 | ヒハ ノボル

ヒハ ノボル

発達凹凸ありの小学生男子の母です。
生まれは関西、ほぼ東北育ちで、今は関東在住。
漫画好き。最近の趣味は、フラワーエッセンス。

久々に、

村上春樹さんの本を読みました。

小説ではなく、

「自らのルーツを綴ったノンフィクション」。

 

猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)

 

 

私は以前、

村上春樹さんの小説が好きで

結構色々読んでました。

 

『海辺のカフカ』あたりまでは

本が出るとすぐに買って読んでたんですが。

 

『1Q84』の頃には引きこもりで

時間はいっぱいあったけど

読書に集中できないような精神状態だったので

BOOK1しか読めず。

その後BOOK2と3も買ったけど読んでない。

わりと最近の『騎士団長殺し』も

買ったけど1行も読んでない…。

 

村上春樹さんがどうのとういうことでなく

「小説」にあまり興味がなくなってしまった

ということなのだと思います。

先日、十数年ぶりに

小野不由美さんのライトノベル

『十二国記』の新刊が一気に4冊も出て

 

ヒャッホ~~~~~~~!!

 

と、なって

とりあえず先行発売の2冊を買ったけど

3ページ読んだだけで止まってるし…orz

 

なので、村上春樹さんの作品も

とりあえず『1Q84』か『騎士団長殺し』、

どっちかを読むまでは

新しいのは買わんとこう…

と、思ってました。

 

でも、新聞広告で

『猫を棄てる』-父親について語るとき-

を見つけたとき、

「あの村上春樹が家族をネタに本をっ?」

と驚いて興味を持ちました。

でも、買うのはな~

今すぐでなくてもな~とか迷ってたら…。

 

「外出自粛中に読んだ本、送ってあげる!」

と、実家の母から本が届きました( ゚ ρ ゚ )

 

※もう一冊はブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

 

 

村上春樹さんについては

以前から家族とあまり仲がよろしくないんじゃないか

という噂を聞いていたので

「父親について語る」というので

とっても興味がありました。

 

お父さんの実家が

京都の大きなお寺だったこととか

結構詳しく明かされていて

本当に「父」について

本人の記憶や

亡くなってから調べたことまで

いろんな情報が書かれてました。

 

そのお父さんが

戦争で中国に渡った経験があることや

除隊になるのがほんの少し遅れていたら

おそらく命を落としていたこと

なども書かれていていました。

それを見て

村上作品の中で

大陸での戦争の情景が

実に印象的な表現で

繰り返し描かれていた理由が

わかったような気がしました。

 

 

あと、自分でも

ちょっとびっくりだったのですが。

 

事実が淡々と書かれてるだけの文章なのに

読んでいると時々

なぜか涙が出てくるんです。

ドトールで

抹茶ラテを飲みながら読んでたので

号泣はなかったけど。

家だったらボロボロ泣いてたかも…。

でも、なんで涙が出てくるのか

自分でもよくわからないんです。

感動する部分ってそんなにないと思うし

これまでの村上小説でさえ、

読んでて泣いたことって

ほぼ無かったと思うのに。

 

 

 

 

ふと思い出したのは、

私自身が「父について」

考えるきっかけになった

去年の出来事でした。

そもそも、

この本に興味を持ったのは

「父親について語るとき」

というサブタイトルでした。

 

去年の冬。

ローマ教皇が来日したころのことです。

 

特に父と何かあったとかではないんですが

何かのきっかけで内観していて

「今のこの状況は父との関係性が係わってる」

と、思い至ったんです。

それまで、

「母親との関係性」については

繰り返し浮かび上がってきてましたが

良く考えたら

「父親」が登場したのは

そのときが初めてだったことにびっくりしました。

そこで改めて

父のちょっと複雑な生い立ちから

その人となりについて思い起こしてみて

それが自分にどう影響していたのか。

そういうことを考えることになりました。

 

そんなときに目に飛び込んできた

テレビのニュースで

「ローマ教皇来日」が報じられていて

日本の信者が教皇に向かって

「パパ!パパ!」と叫んでいるシーンに

釘付けになりました。

でも、それを見て私が思ったことは

「パパ!」を求める女性の姿勢とは真逆で

 

「父からの自立」

「父権的なものからの自立」

 

といったことでした。

 

同じ時期に、

発達障害の講座でお世話になった先生とのシンクロもあったりして

あの時期(ローマ教皇来日前後)には

もしかしたら、

「父性」と向き合うような経験をした人が多かったんじゃないか、

当時、そんなことを考えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

…そんなことを思いながら、

そして、抹茶ラテを飲みながらの

小一時間の読書でした。

薄い本なので(笑)

 

 

でも、気づきはこの先にあった…。

 

家に帰ってからも気になっていたのですが

おしまいの方の文章で

とても印象的な個所がありました。

 

 

 

…僕は手を動かして、実際に文章を書くことを通してしかものを考えることのできないタイプの人間なので(抽象的に観念的に施策することが生来不得手なのだ)、こうして記憶を辿り、過去を眺望し、それを目に見える言葉に、声に出して読める文章に置き換えていく必要がある。そしてこうした文章を書けば書くほど、それを読み返せば読み返すほど、自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。手を宙にかざしてみると、向こう側が微かに透けて見えるような気がしてくるほどだ。

 

 

 

「自分自身が透明になっていくような」

 

「手を宙にかざしてみると、向こう側が微かに透けて見えるような」

 

 

私自身が、そういう経験があるとか

そういう心境がわかるとか、

そういうことではありません(笑)

 

でも、これって

スピっぽい話になってしまいますが

私=あなた(自分=他人)

という考え方そのものというか…。

「握りしめてきたもの」を手放し

感情の統合がすすむと

エゴの境界線が薄くなる。

すると、

 

自分自身が透明になっていくような

 

心境に至るのかもしれないな、と。

村上春樹さんにとっては

「文章を書く」ことを通して

感情や、他人(特に親)由来の固定概念など

その時点で必要なくなったモノを

手放してきたんだろうな。

そう思いました。

 

 

 

肉体がある限り

自分と他人の間の境界は

ゼロにはならないけど

どこまで「透明」になれるか。

 

 

 

自分はまだまだ、色々抱えてる自覚はあるけど

目指す方向性は同じ。

そう思った。

 

そう思ったんだけど…。

 

そこで出てきたのが

 

寂しい

 

という感情でした。

 

 

どこまで透明になれるか。

それを追求する方向性は同じなんだけど

それをやり切ることは

何かを「卒業」することであって

その「卒業」を寂しく思う気持ち…。

卒業式で泣いたことないけど、

泣いちゃう人の気持ちは何となくわかる。

そういう気持ち。

あ、ドトールで涙が出てきた理由の一つは

そういうことだったのか…と気づく。

 

反面、「寂しい」の対極にあるのが

もうたくさん」「うんざり」だということにも気づきました。

最近のキーワードが

同じことの繰り返しはもうたくさん

だったこと。(チェスナットバッド

仕事でも家事でも

何があったわけでもないのに

「やらされてる感」が大きくて

イライラがあったのだけど

そうした

うんざり」の対極に「寂しい

があったんだな…と。

 

 

あくまでも個人的な思いだけど。

確かに、

「卒業式」で寂しい思いが湧いてきても

じゃあもう1年くらい学校生活やってみる?とか

全員でもう一回1年生からやり直せるけどどうする?

とか聞かれれば

迷わず「いや、結構です」と答える心境、というか(笑)

 

だって、思い起こせば

「うんざり」なことも結構あったよな。

それも含めて良い思い出とも言えるけど

少なくとも、もう一回繰り返したいとは思わないわ…。

あれ?

卒業が「寂しい」と思ってたはずだけど…あれ?

うん。もう十分堪能した。

と、いうことで

 

心置きなく

 

 

 

 

先に進みまーす!!

 

 

 

 

…みたいな(笑)

 

 

そんなこんなで、多分

「寂しさ」⇔「わずらわしさ」

対極にあるものを

また一つ解消できたのかな、と思ってたら

その翌日からさっそく

職場でのイライラが一切なくなったわけなので

そういうことなんだと思います。

 

望まない現実が目の前にあったら

そのときの感情を特定して

その対極にあるものに気づく。

すると、バランスされて感情の偏りがなくなり

現実の歪みもなくなる…。

改めて、そう思いました。

 

 

とにかく

「透明」を目指すことは

寂しいことではないんだ、とういこと。

そして、

色とりどりの「個」というのは

やがて「透明」に返る

ちっぽけな存在ではあるんだけど

「かけがえのない」ものでもある、ということ。

 

本の中で村上春樹さんは

お父さんの除隊のタイミングが遅れたり

お母さんの婚約者が戦死することがなければ

自分は生まれてこなかった…

ということを何度か繰り返して書いています。

たまたの偶然が重なったおかげで

自分は生まれた。

両親のことに限らず

偶然の積み重ねがあって

今の自分がある、と。

 

 

 

いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。

それは、この僕はひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴にすぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に

本のタイトルにもなっている

「猫を棄てる」について。

 

小学校低学年のころ

村上春樹さんは

お父さんと一緒に

海辺に猫を棄てに行ったそうなんですね。

猫を入れた箱を抱えて

自転車の二人乗りで、

二キロくらい離れた海岸に行き

猫を棄ててすぐに

また自転車で帰ってきたそうです。

 

そしたら。

 

玄関の戸を開けると

さっき棄てたはずの猫が

「にゃあ」と言って出迎えた…と。

お父さんも村上さんも驚いて

ボー然としてしまったようです。

 

二キロも離れてるのに!

自転車でまっすぐ帰ってきたはずなのに!

なんで先回りができた?

 

この出来事を、村上春樹さんは

「今でも僕にとっての

ひとつの謎になっている」

と書いているのですが。

 

 

これを読んで、

思い出したことがありました。

 

小学校3年か、4年のころ。

その日は母の用事か何かで

私は家の鍵を持たされていました。

学校から家に帰ってきて

鍵を開けて家に入り、

母が帰宅したあと、外に遊びに行きました。

夕方戻ってきて、母に

「預けてた鍵を返して」と言われたんですが

なんと、鍵が見当たらない…。

服のポケットやランドセル、

遊んだ場所も探してみたけど

見つからない…。

 

その後

多分ガッツリ怒られて(よく覚えてない)、

とりあえず夕飯準備を始めた母が

台所から「あらあああああ!」と

大声を出すので何事かと思ったら

 

「こんなところから鍵が出てきた!」

 

と言う。

母が手にしているのは確かに

皮のキーホルダーがついた、家の鍵。

それが、なんと

米びつの中から出てきた、というのです。

でも、私は入れた覚えがない。

米びつに触る用事もない。

当時使ってた米びつは

ボタンを押すと必要な量のお米が

シャーッと受け皿に落ちてくるタイプのもので

お米の補充のとき以外

あまり開け閉めする必要のないものだったはずだし…。

 

 

何年か前に、

母に「こんなことあったよね!」と話してみたら

「そうだっけ」とよく覚えてない様子。

でも、私にはすごく印象的な出来事でした。

どう考えても

どうしてそうなったのか

納得のいく説明が思いつかない…。

 

 

 

そんなこんなで。

“米びつから鍵”の出来事は

 

「今でも私にとっての

ひとつの謎になっている」

 

のでした…。