皆さん、こんにちは
お元気ですか?
皆さん、ラスベガスは山で囲まれていることをご存知ですか?
その最も高い山の一つがチャールストン山で、そこが山火事になりました。
ラスベガスはいつも暑いイメージをお持ちの方々が多いでしょうが、この山はよく雪が積もり白くなっているのをラスベガス市内から見えます。
先週の父の日にちょうど家族でハイキングに行ってきたところでした。
森林に囲まれて体が癒されたのを感じましたが、その山が大火事になりました。
その煙が高く雲のように空に舞い上がり、その煙で隠された太陽はオレンジ色になり少し異様な風景でした。
火事の原因は人災であるとされています。
キャンプをしている方々の日の後始末からなのでしょうか?
ちょっと残念です。
また、シルク・ドゥ・ソレイユが倒産しました。
ラスベガスではたくさんのアクロバティックなショーを披露してくれていました。
このカナダの会社は、これから投資を受け存続していくようですが、中国の企業も投資するみたいです。
これもまた残念な話です。
ところで最近この様な記事を読みました。
性転換したアスリートが競技に参加して優勝をしたりするのですが、それがアンフェア(不平等)であると抗議があります。
去年もたくさんあったようですが、今回はテネシー州でそのことに対する署名活動を行い法律を設定する動きがあったようです。
この性転換アスリートは高校生からいる事にまず驚きました。
そして、ホルモンの調整をし、テストステロン レベルをあるレベルまで下げれば科学的には競技に参加できるようになります。
テストステロンとは、簡単に言えば男らしい体をつくる男性ホルモンです。
思春期を越えると、子供たちは男の体になっていき、女の子は女の子へとなっていきます。
性転換したアスリートは、一年間は少なともホルモンを調整していきながらテストステロンを下げ参加することで、科学的に平等であることを証明しています。
しかし、世論はそれをまだ納得していません。
去年、カナダの競輪の世界大会で性転換したアスリートが優勝しました。
これに対して非難がものすごくあったようです。
良かったらYOUTUBEを見てください。
実際、体つきを見てもいくらテストステロンが下がっても、思春期を越え作り上げられた体は男なのですから、筋肉や骨格、肺など全く違うのは当然です。
皆さんはどの様に考えますか?
これはフェアでしょうか?、アンフェアでしょうか?
私はそもそも科学の目的が間違っていると思います。
ですから、この様に科学で平等さを証明しても世論は納得できないのでしょう。
科学は人間の叡智や智慧を証明するもので都合よく使われるものではありません。
中国で人間のクローン実験をしたことが問題になったことと変わらないような気がします。
そして、自由も同じです。
自由もその時に気分で好き内容に考えたり、行動したりするものではありません。
性転換も一つの自由の表現なのでしょうが、もっと私自身だけの自由でなく、大きなグループで家族や国家なども考えたうえでの自由ではないでしょうか?
私の先生は、自我と無我の違いを教えてくださいます。
「無我とは我が無いことではない。」と言われます。
「天に対して、より大きなものに対して我の無い立場が無我である。」と言います。
最初にどこから考えるか出発するところが自我と無我とは全く違います。
私は深く感銘しました。
なぜなら、私は自己中であると何十年も共に仕事をしてきた人に言われたことがありました。
私は「この人は私の事は何にも分からなかったんだなぁ。」とガッカリさせられました。
本当に人を理解することって難しいものですよね。
理解することも、理解されることもです。
しかし、よくよく反省してみました。
今の時点で私の中で納得できる答えは、この天に対しての意識が違うからその様に見えるのだろうと理解しています。
これは私が時間をかけて証明していくしかないものです。
また、これも天からの叱咤激励なのでしょう。
結局、自由も科学も何をするにしても自我のレベル、つまり私がその様にしたいからやるのレベルでは駄目なのでしょう。
そして、無我を追求しながらいろいろな困難を経て、さらに純粋な無我の境地を求められていくのが人生なのだろうと思います。
これが道であるならば、最終的には好きとか嫌いとか無くなってしまうのでしょう。
私自身の事だけを考えるのでなく、シンプルに天から与えられた宿命や運命を見つけて生きていきたいものですよね。
生きているだけで、誰かや何かを犠牲にしてしまうことはつきものです。
それがある面、宇宙の原則になっていますよね。
犠牲にされた人から見れば、自己中かもしれません。
しかし、何かを犠牲にしながら更に大きな目的に向かって行くので、私自身としては最終的に感謝と謙虚でしかありませんよね。
それを考えたら性転換してアスリートって私にはちょっと理解できません。
私が犠牲にしてしまった人たちもいるし、私自身が犠牲になってしまったこともあります。
でも、恨みや怒りは無益な思いです。
ですから、自我から無我へ、そして更なる無我へ行くしかこれからの時代生き残れないのでしょうか?
これから科学の発達でもっと自分自身の事しか考えなくなっていきますよ。
ちょっと哲学的になってしまいましたが問題提起をしたくて書かせていただきました。