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徳川史観を排し、豊臣政権を再評価する

2020-07-06 15:48:19 | 日本史

石田三成関連で、「関ケ原合戦と石田三成」矢部健太郎著、吉川弘文館 2014年。「敗者の日本史」シリーズ第12巻です。

 

石田三成は関が原で徳川家康率いる東軍に敗れ、徹底的に悪役とされましたが、私は大した人物だと尊敬しています。そう思って読み進みましたが、三成のことは少ししか書いてありません。むしろ三成の主人である豊臣秀吉の、豊臣政権作りの構想が主題になっているように思います。

徳川幕府は三成や秀吉のことで自分に都合の悪いことは徹底的に隠蔽し、証拠を隠滅し、なかったことまで創作したのです。歴史は勝者の歴史ですから、現在に残る資料といえどもよほど慎重に吟味する必要があることを、著者は繰り返し実証しています。

秀吉は織田信長横死のあと山崎合戦で明智光秀を打倒し、賤ケ岳に柴田勝家を亡ぼして織田後の第1人者に躍り出ます。天正10年10月3日の従五位下任官から天正13年3月10日正二位内大臣、同7月11日従一位関白まで、わずか2年10か月ほどで位人身を極めた秀吉は、それで有頂天になっていたわけではない。著者は、秀吉は戦国大名を責め潰すのではなく、配下に抱えながらの安定を目指した、とします。小田原攻めは極めて例外だとしますが、確かに秀吉が取り潰した戦国大名は稀です。秀吉は全国のあまたの大名を、公家の官位制度を利用して統制しようと図った。だけでなく、大名個人の力量・官位を超えた「家格制」を導入し、豊臣宗家を「武家摂関家」、最有力大名家を清華家になぞらえる「清華成」、以下公家成、諸大夫成に序列して統制しようとした。清華家とは摂関はダメだが大臣・大将・太政大臣までになることのできる家系で、後年五大老と称される5-6人の有力大名が清華成と呼ぶべき一つのグループであることを指摘したのは著者が初めてです。

その五大老といっても実質的な権限はなく、秀吉独裁であって合議制などあり得なかった。諸大夫成は秀吉側近の、後に五奉行と呼ばれる官僚大名たちである。こうしておいて、個人の力量ではなく「家格」で末永く豊臣家の安泰を計画した。摂関家たる豊臣宗家を支え、政治を切り盛りする実権を諸大夫成の官僚に持たせたすれば、天皇-公家制度を拝借したものとはいえたいした計略家だといえるでしょう。

それは秀吉一人の考えなのか。公家社会に明るいとは思えない百姓上がりの秀吉に、誰か参謀となる人物がいたのはないか、と考えてもおかしくありません。残念ながら著者は何も言っていませんが、秀吉自身が 「才器が我れに異ならないものは、三成のみである」 と言ったという逸話がありますから、あるいは三成もその構想に何らかのアイディアを提供していたのかもしれません。

実は五大老というのは、秀吉自身は 「五人の衆」や「五人の奉行」 と呼んでいたので、秀吉は五大老という言葉を知らなかった、というのには驚く。逆に五奉行のことを「年寄」と呼んでいたそうです。(227p)  徳川家康が五大老筆頭であったというのはどうやら幕府の林羅山が創作したらしい。現在の教科書はまったくウソを書いていることになります。

また家康の嫡子秀忠は秀吉から豊臣姓を下賜されており、一時は豊臣秀忠だった (61p)。このことは徳川幕府では撤退的に証拠隠滅が図られ、文書がほとんど残っていない。徳川家は明確に豊臣家の家臣であり、家康による政権奪取は明らかに簒奪、主家殺しといわれておかしくない、わけです。

石田三成は関が原で敗戦したため悪しざまに言われているが、優れた人物でした。家格や石高は比較にならないけれど、ずば抜けた才覚で五奉行筆頭に出世し、豊臣家の官僚として主家を守るため簒奪者・タヌキの家康に立ち向かい、武運拙く敗れた。片々たる小身でありながら日本の半分を糾合して筋を通そうとした。彼にちっぽけな領土的野心などがなかったことは、いくつもの逸話から伝わってくる。むしろ領地を拡大していれば関が原でもっと勝算があったのかもしれない。彼と友人たちは当初互角に戦った。ただ元の秀吉養子・小早川秀秋の裏切りが勝敗を決定したのでした。(小早川や福島など、東軍諸将で取り潰された人は自業自得でしょう。)

七将の石田攻めの時、徳川屋敷に逃げ込んだというのも、家康の度量の大きさを宣伝するための作り話らしい。

著者は、北政所おねと淀殿との不仲説にも疑問を呈し、おねが後妻淀殿と秀頼を嫌い、徳川に味方した(165-166p) かの見方は根拠が薄弱とします。確かに、たとえ仲が良くなかったとしても、秀吉と一緒に築いた豊臣家を狸ジジイなどに騙されて打ち捨てる気になるものでしょうか。これも徳川時代の講談流のつくり話にすぎないのかもしれません。

 

大変学ぶところが多い本でした。

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