日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一五話 全施労結成

今回も、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道を参照しながら、適宜他の資料も参照しながら、お話を進めたいと思います。

国労は一貫して、マル生運動に対して対立姿勢

国労では、昭和45年4月11日から始まった生産性運動は、当初のは無視を決め込んでいた国労ですが、国労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えてきたことなどから、国労としても危機感を抱くようになり、よく昭和46年1月12日には国労本部で、不当労働行為対策会議で組織破壊攻撃(マル生攻撃)への対応策を協議したほか、2月24・25日の拡大中央委員会では、マル生攻撃と戦う職場闘争の強化を決定するなど、組織的な対抗策を考えていきます。

この背景には、国労を退職して鉄労に移籍する組合員が多かったことに対する危機感からでした。

更にもう一つ注目していただきたいのが、組合内における、極端な左傾化でした。
その要素としては、組合なのに育ちつつあった新左翼(いわゆる極左勢力)の台頭で有ったと言われています。

国労動労における、反戦青年委員会の台頭

国労動労内に、反戦青年委員会による台頭もあったかと思われます。

反戦青年委員会とは、*1日韓基本条約の批准やベトナム戦争に反対するために、日本社会党や総評系の労働組合青年部が中心となって、1965年(昭和40年)に結成された組織で、共産党は、革命的であるトロツキスト暴力集団を受け入れられないとして、これを拒否したことから、新左翼諸派に合流していったもので、特に革マル派(革命的マルクス主義)の影響を強く受けていました。

国労は、反戦青年委員会を育成させない方向でいたのに対し、動労は、むしろ育成の方針をとったことから、後に「鬼の動労」と言われるように過激な方向に走ることとなります。
動労が、国労以上に過激になっていく背景にはこうした点があったことも注目していただければと思います。

国労内で過激な活動家によるグループが誕生

話が横道にそれてしまいましたが、こうした反戦青年委員会の組合員が組合の中で育っていくとともに、昭和46年3月15日には社会主義協会系の実戦部隊が、「国労中央合理化研究会」(国労反合研)を結成します。このグループが、鉄労組合員に暴力を振るいマル生粉砕の中心勢力となるわけですが、マル生闘争資料集には、設立されたと年表には記載されていないことから、国労内部でも余り触れたくないのかもしれません。

当時の様子を、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道から引用させていただきます。

これから、約半年後に、鉄労組合員に暴力を振るい、”マル生粉砕”の中心部隊になる「国労中央反合理化研究会(国労反合研)が、三月十五日に結成された。

 国労会館の一室で、「会社は潰れても鉱山は残る」と言う発言で有名な社会主義協会系の向坂逸郎資本論研究会」が四十三年から、定期的に開かれていることは、すでに書いた。この実戦部隊が「国労反合研である」

この研究会の責任者は、新鶴見駅構内作業掛の職員であったが、実質的な責任者は、元三井三池労組書記長が行なっていました。

 

全施労(全国鉄施設労働組合)の誕生

 そのような中で、国労内から再び新しい組合が分裂しました。

それが、全国の保線区などが中心になって結成した、全施労でした。

結成は昭和46年4月27日で、大阪市淀川区にある大阪コロナホテルで、「全国鉄施設労働組合(全施労)」の結成大会が行なわれたそうです。

国労を脱退した、保線を中心とする施設関係の組合員により結成された組合で、委員長に松山保線区の渡辺博、副委員長に大鉄局施設部保線課)福間恭、大分保線区、三浦義正、書記長に尼崎保線区の草刈収を選出とされています。

「政党支配を排除し、組合主義に徹することで、屋外労働者の作業安全・労相衛生の向上に努力する」と謳い鉄労との協調を期待していたが、こうした一連の動きのなかで、名古屋を中心とする国労施設協の組合員が大量に脱退して全施労に移籍するという動きがあり、これに驚いた国労幹部が、国鉄総裁の磯崎総裁に泣きつき、磯崎総裁もこれを了承して、名鉄局長に脱退を思いとどまるように指示をしたと書かれています。

この話が本当ならば、片方でマル生運動を進めながら、組合員の移動に対して当局が介入したことになり、不当労働行為のそしりは免れないと思います。

実際には、その後組合側からの反撃でもあっさりと、その旗を降ろしてしまい、現場管理者は多くが退職や降格、亦は配置転換(所謂左遷人事)を受けており、当局側の現場管理者に対する裏切りは許されない部分があるかと思われますが。この辺は更に今後明らかにしていくこととしましょう。

この辺の事情を再び「鉄労友愛会議、国鉄民主化への道」から引用させていただきます。

 

 国労施設協議会議長の秋元貞二(施設協のボスなどと言われていた)も、国労を脱退することは確実とみたれ、秋元が脱退すれば。一万人ぐらいはついていくだろうといわれていた。

 更にびっくりする噂が流れた----。名古屋を中心にする国労施設協の組合員が大量に脱退して、全施労に移るという動きがあった。この動きに驚いた国労の酒井と富塚が、国鉄総裁の磯崎に会って談判した、磯崎総裁は国労の主張を了承、直ちに名鉄名古屋鉄道管理局)局長の篠原良男に、手を打つように命令した。そうしたら、脱退の動きがぴたりと止まったという。篠原は国鉄土木のボスである(東大土木を昭和十一年に卒業、後に施設局長、常務理事)

とかかれています。当然のことながら、マル生資料集にそうした記事は出ていません。

国労としては大量脱退を止めたいというの想いは当然のことながらあることはわかりますが、こうした圧力と言えないまでも、労働者脱退を特定組合の意向で当局が動くのは、いかがなものかという疑問は、残ってしまいます。

 

国鉄マル生闘争資料集並びに、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道

国鉄マル生闘争資料集並びに、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道 2冊の書籍を参考にしています。

続く

 

blogランキングに参加しています。
クリックしていただけると喜びます。


世相・世論ランキング


社会・経済ランキング

********************************************************
取材・記事の執筆等、お問い合わせはお気軽に
blackcat.kat@gmail.comにメール
またはメッセージ、コメントにて
お待ちしております。

国鉄があった時代 JNR-era
********************************************************

*1:正式には「ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会」と言う名称で呼ばれている。