日本国有鉄道 労働運動史(別館)

国鉄で行われた生産性運動、通称マル生運動に関する関連資料をアップしていくブログです

生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

久々に更新になります。

今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。

今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

生産性運動と鉄労

鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。

昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。

その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。

鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春闘)に対する態度を協議するための中央委員会だったが、賃金問題よりも、議論は、ほとんど「国鉄生産性運動」に向けられていた。

 鉄労は、生産性運動は鉄労が以前から提唱してきたことで、国鉄再建と言うことで取り上げざるを得なくなったのだろう、という見解だった。

当局に便乗するのではなく、新国労時代からのバックボーンが生産性の理念で、既に生産性教育をやっている。と言っていた。

と有りますように、鉄労としては、昭和37年の新国労時代から生産性運動に取り組んできたと言うことを主張しています。

元々生産性運動は、昭和30年には確立した理論で有り、当時から国鉄当局も取り組もうとしましたが、導入することが出来ないまま、組合との対立が続き、国鉄を取り巻く環境は更に悪化したわけです。

その中で、当局もやっと生産性運動を取り入れたと主張しているわけです。

実際に、新国労発足当初から雇用安定協約を率先して締結するなど、国労動労が、どちらかというと、力で権利を奪い取ろうと考えていたのに対し、主張すべきところは主張するが、よりよい条件を引き出して妥結するという意識が見え隠れしています。そうした意味では、どんどん左傾化していく動労や、国労とは常に一線を画する組合でありました。(動労左傾化については、改めてどこかのタイミングで取り上げたいと思います)

当局の実施する生産性運動を遅きに失したと発言

そして、鉄労は現在当局が進めている生産性運動に対しては一定の評価をしつつ、遅きに失したとして、下記のように批判しています。

再び引用してみたいと思います。

昭和30年から発足したこの運動を、昨今ようやく取り上げたことについて、むしろ遅きに失するものと、かねてから指摘していたところであります。・・・中略・・・現在のところ粗製濫造の感があり、生産性運動の真の意義を体せず、超過勤務の強制、分担業務以外のものの強要という誤った形に消化されようとしている

 この指摘は、非常に重要です。

当局の生産性運動自体が変節してしまっている、もしくは中間管理職と言われる人たちに正しく伝わっていないことを示しています。

実際、生産性運動も当初は、日本生産性本部に委託する形で行われていましたが、途中から国鉄当局自身で行う生産背運動も増えており、結果的に劣化コピーの生産性運動を生んでしまったように見えます。

そこで、鉄労としては、自らが正しい生産性運動の理論を身につけるべきだと主張しています。

そして、生産性運動が進められていた頃、国労動労を脱退して、鉄労に加盟する組合員が増えており、当時は8万5千人に達していました。

国労、生産性運動反対を確認

国労は、2月24日・25日に広島の尾道で中央委員会が開催されたそうですが、生産性運動に関しては当然のことながら反対という事で、生産性運動に関連して、鉄道学園での教育。昇給・昇格・昇職に差別的扱いの報告がなされ、総括として、「的の国家権力を背景とした攻撃に対して、組織の総力をあげるため、どう団結を図っていくかにある。・・・中略・・・全員が討議に参加する方法に改めたい」とし。

国労としては、マルクス階級闘争を組合員に浸透させていく事を強調していました。

なお、動労もそうですが、反戦青年委員会*1が参加して、盛んにヤジを飛ばすなど議事の進行を邪魔するのですが、国労は、反戦青年委員会を排除する方向に動いていたの対し、動労はむしろ育成に努めているところが有り、やがて鬼の動労と呼ばれる萌芽がこの頃からでていたと言えそうです。

動労も生産性運動反対を確認

動労中央委員会は、3月5日・6日、千葉県茂原市の日立労働会館で開催されました。

成田空港建設反対闘争が厳しい時期で有り、三里塚では、2月下旬から機動隊と国際空港建設反対同盟が衝突するなど緊迫した事態となりました。

動労でも生産性運動に対し質問等が投げ出されてくるのですが、ここでもこうした反対の急先鋒は、反戦青年委員会のメンバーが中心でした。

動労では、マル生運動とは言わず、生運研(生産性運動研究会?)と呼ばれており、彼らが中心になって運動が進められていました。

この頃の、動労反戦青年委員会を育成の方向を目指しており、国労とも反目することも多く、国労が彼らを押さえ込もうとしていた事と対照的な動きが見られました。

職場での報告としては、「生運研参加者を除名せよ」とか生産性運動参加者を村八分的にしていると言った報告もあったそうです。

このように動労も、国労も生マル生運動に対して批判的では有ったものの、どのように取り組んでいくかという点にあっては、未だに答えが出せない状況であったのも事実でした。

国労は、鉄労がマル生運動を利用していると批判

鉄労視点ばかりではなく、国労側の視点ということで、国鉄労働組合四〇年史から再び引用したいと思います。

国労としては、生産性運動は鉄労の育成であると位置づけ、下記のように記しています。

そして鉄労は、総裁の提起した労務管理政策が、生産性向上運動の名のもとに管理局から現場に向かって浸透しはじめたとき、「生産性運動ーーそれは鉄労の躍進につながる。組合結成以来、絶好の好機が到来した」として、積極的にその性格に追随したのであった。まず、はじめの役割分担は現場管理者の手足となって、「マル生」グループの結成とその育成に努めることであった。そのことが、国労動労の切り崩し、鉄労の組織化育大につながる。

と書かれています。

鉄労は、結成当初から提唱していた生産性運動を当局が導入したと言い、国労は、鉄労が当局と結託したとしています。

もっとも、組合に限らず組織が拡大を図るのは自明の理で有り、まして複数の組合に一人の職員が加盟できない以上、いわゆる組合員の拡大はどこかが増えれば、どこかが減少するゼロサムゲームのようなものですから、仕方が無いことでしょう。

ただ、個人的な見解を述べさせていただければ、国労動労もこの時点では、生産性運動ではなく、国労ではマルクス階級闘争を浸透させることが大事であるとして、また動労は更に左傾化して。反戦青年委員会等のメンバーが中心となった活動をしており、どこまでも対立するという視点だけで進めているのは、後付けの知恵で考えると、大事な時点で引き返すべき時に引き返せなかったのではないかと思ってしまうわけです。

実際、国鉄貨物が壊滅的に減っていくのは、この1970年頃からで有り、経済が発展しているにも関わらず、国鉄の貨物輸送だけが当初予測を覆して一人負けしていく背景には、国鉄の度重なるストライキの結果で有り、高速道などの開通も相まって、そのシェアはどんどん落としていくことになるのですが、その辺は国労動労も気づいていなかったように思われます。

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今回参考にした、国鉄民主化の道並びに、国鉄労働組合史40年史

 

続く

 

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*1:ベトナム戦争反対・日韓批准阻止のための反戦青年委員会