正岡子規

1867年10月14日(慶応3年9月17日)~1902年(明治35年)9月19日

正岡子規の俳句正岡子規の後半生、死に接してさえも垣間見えるユーモアは、眩しく映る。滑稽を愛する、根からの俳人として生まれた漢。
病牀六尺には、闘病に伴う苦痛が至る所に記されてはいる。けれども、そんな苦しさを書き連ねる中で、死の6日前となる9月13日項に突然、「人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である」と書き込むのである。
自身の写生論を病床にまで活用し、苦しみを達観する境地にまで辿り着いていたのだろう。これを見ると、それが、子規の実践してきた俳句のかたちなのだと思えてくる。

死の半日前には、自由の利かない身体を抱き起こしてもらい、筆を取る。そこに絶筆三句と呼ばれる糸瓜の句を記すが、その筆勢には、永遠を生きる者の力強さがある。
既に喀血を経験していた明治25年、25歳の正月には「死ぬものと誰も思はず花の春」と詠んでいる。在原業平の辞世「つひにゆく道とはかねて聞きしかど きのふけふとは思はざりしを」と重なるものを死の10年前に詠み上げ、病床においてもその手を休めることなく、近代日本に大きな足跡を遺した。辞世は

糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 子規

佛には、「喉仏」に「死者の姿」が重なる。痰切りの薬とする糸瓜をあしらい、遅すぎたことを暗喩するが、「咲く花」に、次代への希望を薫らせる。



正岡子規に関する補足

1)正岡子規 ⇒ 資料1

2)病牀六尺 ⇒ 青空文庫

3)絶筆三句 ⇒ 資料2

4)死ぬものと誰も思はず花の春 ⇒ 「寒山落木 巻一」明治廿五年新年項

5)在原業平の辞世 ⇒ 在原業平は、平城天皇の孫で六歌仙・三十六歌仙の一人。辞世として伝わるこの和歌は、業平が主人公だとされる伊勢物語の「つひにゆく道」に顕れる。また古今和歌集に「やまひして弱くなりにける時よめる」の詞書とともに載る。



向井千子

???~貞享5年(1688年)5月15日

向井千子の俳句続虚栗に、「花にあかぬ憂世男の憎き哉」という句がある。これを詠んだ向井千子は、松尾芭蕉の高弟である向井去来の年の離れた妹である。高名な医者であった父ゆえに、京都の名家にも顔が利いたに違いない。都を往来する中で詠まれただろうこの句は、その器量を炙り出す。
去来はそんな妹を可愛がり、貞亨3年(1686年)の秋、求めに応じて伊勢参りに連れ立った。去来は三十半ば、千子は二十過ぎだったと言われている。

この二人の旅は、去来の「伊勢紀行」に記されている。そこで千子は「伊勢までのよき道づれよ今朝の雁」と詠み、心を開放する旅のはじまりを告げる。そして道々、その外連味のない性格を爆発させるのである。極まりは、草津で姥が餅を食した時。皺のない餅を差し出して口上を述べる女房を前に、「紅粉を身にたやさねばいつとても 皺の見えざる姥がもち哉」と歌い上げるところ。
千子のこの自由奔放な性格は、その婚期を遅らせたに違いない。「憂世女」として、様々な恋を積み重ね・・・。

けれども、最後の恋は悲しい。旅から程無く、長崎の御船手・清水藤右衛門に嫁したものの、「もえやすく又消えやすき螢哉」の句を遺して死んでしまう。句から察するに、激情に自らの命を手放したかのように思われる。
美人薄命。哀しいものだ。

もえやすく又消えやすき螢哉 千子



向井千子に関する補足

1)向井千子 ⇒ 資料1 向井家は俳諧一家で、兄の震軒・去来・魯町・牡年も俳諧をした。

2)続虚栗 ⇒ 宝井其角編1687年刊行の俳諧集。

3)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

4)向井去来 ⇒ 資料3

5)伊勢紀行 ⇒ 貞亨3年8月20日過ぎに宇治から伊勢神宮に向かった。紀行文は1850年に刊行される。芭蕉は跋文に「東西のあはれさひとつ秋の風」の句を添えている。

6)清水藤右衛門 ⇒ 詳細は不明。千子との間に一女をもうけたとの説もある。長崎は、千子の父である向井元升が医学を学んだ土地でもある。

7)もえやすく又消えやすき螢哉 ⇒ 千子の辞世として「いつを昔」(宝井其角編1690年)に載る。


去来抄(向井去来著)に、千子が亡くなった時に土用干している時、偶然にも芭蕉から「なき人の小袖もいまや土用ぼし」の句が届いたとの記述がある。これが芭蕉の追善句である。去来は曠野集(山本荷兮編1689年)に、「いもうとの追善に」として「手のうへにかなしく消る螢かな」の句を遺している。



榎本其角

寛文元年7月17日(1661年8月11日)~宝永4年2月30日(1707年4月2日)

榎本其角の俳句松尾芭蕉第一の高弟として知られる榎本其角。14歳でその門を叩き、師なきあとは江戸座を開き、「洒落風俳諧」を広めた。
大名をはじめ多くの著名人とつながりを持ち、当時は芭蕉以上に人気があった俳人だったとも言える。そして、様々な伝説に彩られる俳人でもあった。
特に知られているのは酒との縁の深さで、「大酒に起きてものうき袷かな」などの句がある。「十五から酒を飲み出て今日の月」の句から見るに、酒を飲み始めたのは芭蕉の許に来てからである。芭蕉は、酒の作法も教えたのだろうか。
いずれにせよ、常に酒の切れることのない暮らしをしていて、吉原に入り浸っていたという。ただ、多くの秀句を遺しているところから、自堕落な飲み方ではなかったのだろう。「今朝たんと飲めや菖の富田酒」などの回文による句もあるところを見ると、酒を飲んでも頭脳明晰、いや、酒を飲むからこそ頭の血の巡りが良くなったのかもしれない。

けれども、38歳となった年に「酒ゆえと病を悟る師走哉」の句を詠む。その後も体調は優れなかったと見え、47歳で亡くなっている。
辞世は、死の7日前に詠まれた「鶯の暁寒しきりぎりす」。この「きりぎりす」は、現在でいうキリギリスではなく、コオロギのこと。コオロギの中には、越冬するカマドコオロギもあるから、春の鴬との取り合わせも無理なことではない。

自らの姿と重ね合わせた「きりぎりす」。それは、芭蕉が斎藤実盛を詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」に相通じる。これらの「きりぎりす」に共通するのは、百人一首に選ばれた後京極摂政前太政大臣の「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」に表れる孤独感である。
この辞世を口遊む時、華々しい人生の裏側にある寂しさを思わずにいられない。名が知れ、成したことも多くある故、次代を担う鴬の明るい声に覚えるのは、この上ない侘しさだったのだろう。

うすらひやわづかに咲ける芹の花 其角



榎本其角に関する補足

1)榎本其角 ⇒ 資料1

2)松尾芭蕉 ⇒ 資料2

3)斎藤実盛 ⇒ 平家物語「実盛最期」で知られる武将。木曾義仲追討で老齢を押して白髪を染めて出陣し、篠原の戦で討たれる。敵であった義仲ではあるが、かつての恩人の死に涙を流した。



戸張富久

???~1825年(文政8年)3月5日

品川来福寺の阿波藍商人墓標群蕎麦御三家の一つ「藪蕎麦」。有名な神田藪蕎麦は、団子坂の竹藪の中の蕎麦屋「蔦屋」の流れを汲むが、おそらくその蔦屋も含め、藪と称する蕎麦屋の起源は、雑司ヶ谷の「爺が蕎麦」にあろう。
爺が蕎麦は、雑司ヶ谷鬼子母神近くの竹藪の一軒家で、「雑司ヶ谷籔の中」と呼ばれて、江戸でも指折りの名店だったという。1735年刊行の「拾遺続江戸砂子」で、「藪」の名をもって登場する最古の「藪蕎麦」である。そして江戸中期となって戸張富久が活躍する頃には、「蕎麦全書」に、その名も「藪の中爺がそば」として掲載される。ただ、蕎麦は美味いが汁が悪いものだから、そば汁を持参して食べに行く者がいたとか。
戸張富久は、喜惣次とも称し、御用彫金で知られる、後藤四郎兵衛の高弟である。国立博物館に収蔵されるほどの小柄や、鍔などを製作する名工であった。
その名工が、どうやら「雑司ヶ谷籔の中」の主人だったらしい。「若葉の梢」(1798年刊)に「勘兵衛」の屋号で載る百姓の店が「藪」とあるから、それを買い取ったものなのだろう。狂歌の大田南畝は、蕎麦屋の富久のことを「見渡せば麦の青葉に藪のそば きつね狸もここへ喜惣次」と歌っている。


鬼子母神の本院である法明寺に、戸張富久の句碑がある。「蕣塚」と呼ばれるものがそれで、得意とした朝顔を、死した富久に代わって友人の酒井抱一が彫り込んでいる。句は、「蕣や久理可羅龍のやさすがた」。朝顔を、不動明王の剣に巻きつく倶利伽羅龍に見立てたものだ。
決して蔦ではない。「朝顔の花一時」の慣用句もある、刹那の花としたところに味がある。燃えるような現を生きる苦しみを、「爺」と呼ばれた柔和な姿で耐え忍んだ末の一句であろう。

蕣や久理可羅龍のやさすがた 富久

人気の象嵌は、地金の中から発せられるような、深い輝きを持っている。小柄に彫られた朝顔の裏側に、しばしばこの句が確認されるという。



戸張富久に関する補足

1)戸張富久 ⇒ 別号に松盛斎・仙里など。生年は不明であるが、1850年頃であると考えられている。息子に、同じ金工の喜久がいる。経営していた蕎麦屋は、富久の死後ほどなくして閉店したといわれている。

2)後藤四郎兵衛 ⇒ 大判の鋳造と墨判および両替屋の分銅の鋳造を請負った後藤家の当主。富久の師は、十三代後藤延乗。

3)大田南畝 ⇒ 1749年~1823年。御家人で狂歌師。別号に蜀山人。

4)酒井抱一 ⇒ 1761年~1829年。権大僧都であり、江戸琳派の祖として知られる絵師。屠龍の号を持つ俳人でもあった。



秋日庵秋之坊

生年不詳~享保3年1月4日(1718年2月3日)

秋日庵秋之坊の俳句極限の生活こそが、人生を彩る言葉を提供してくれる。しかしそれも、真の静けさを身につけてこそ。

幻住庵を訪ねた秋之坊。その遁世者を、「我宿は蚊のちいさきを馳走かな」の句で迎え入れた芭蕉。つまり、豪華に振舞えるものはここにはないが、蚊の羽音のような、世に蔓延る喧騒からは隔離されていると。
退出時には「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」を贈答句とし、やはりここでも、騒がしくあれば死場を見失うものだと、秋之坊は諭される。
清貧を貫いたことで知られる秋之坊であるが、この時までは、幾らかの色気があったのだろう。「金沢に名高い風流の隠士」と言われ、それを鼻に掛けていたところがあったのかもしれない。いや、むしろ名を得るために敢えて武士を捨て隠士となって、西行らしきものを声高に叫んでいたとも思われる。

芭蕉に会って以降の秋之坊は、真の求道者である。ある時は寒さに耐えかね、「寒ければ山より下を飛ぶ雁に物打荷ふ人ぞ恋しき」と、「山」「厂」「物打」「人」から「炭」を形成する和歌を詠み、炭を請うた。虚飾を去り不足を恐れぬ中で、その日を生きるために言葉を選ぶ男が現れたのである。
それはやがて、人生を天に委ねる証を立てたいとの思いにつながり、自らの生を型にはめ、それに忠実に生きたいと願うことにもなる。句による暦作りに着手し、

正月四日よろづ此の世を去るによし

と記したまさにその日、この世を去ったのである。
世間では、兆候の無い死であったと言われている。居合わせていた李東は驚いて、「稲つむと見せて失せけり秋の坊」と詠んでいる。
けれども、定められた日に沿って、自ら命を絶ったように思えてならない。三箇日の神事を終えて残されたるは、浄土への道ひとつであると。「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」の贈答句への返礼とすべく。



秋日庵秋之坊に関する補足

1)秋日庵秋之坊 ⇒ 秋の坊

2)幻住庵 ⇒ 門人の菅沼曲水の世話により、元禄3年(1690年)4月6日から7月23日まで松尾芭蕉が住んでいた庵。現在の滋賀県大津市にある。

3)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

4)西行 ⇒ 鳥羽天皇の北面武士であったが、23歳で出家し和歌を歌いながら全国行脚した西行法師。

5)寒ければ山より下を飛ぶ雁に物打荷ふ人ぞ恋しき ⇒ 貧しさの中で寒さに耐えかね、豪農である生駒萬子に炭をもらおうと歌った。萬子は「さむければ山より下を飛ぶ雁に物うち荷ふ人をこそやれ」と歌って炭を贈っている。

6)李東 ⇒ 地方の大庄屋で、秋之坊とは俳諧つながりであった。



立羽不角

寛文2年(1662年)~宝暦3年7月21日(1753年8月19日)

立羽不角の俳句世渡り上手の評判で、貧困の中に身を起こし、法眼にまでのぼり詰めた立羽不角。門弟千人を誇ったことから、千翁との名もある。
蕉風全盛の江戸の町では、譬喩を多用する句風が合わなかったのか、その流派を「化鳥風」と呼んで蔑んだ。おそらくは、「芳里袋」に載る不角の跋「身は風鳥のいでたち、何にかかわるべき姿ともおもほえぬよすてびと・・・」から作り上げた名ではあろうが、町民は、化鳥と言われる鵺のような掴みどころの無さを感じて恐れたか。
たしかに、その出で立ちは化け物のようでもある。

この人は、12歳で不卜門を叩き不角の号を得る。その後、経師の店を開きながら浮世草子や怪談集を著して出版するも、あまり当たらなかったと見えて、前句付興行に重点を移す。やがて、それら前句付興行の高点句を句集にして刊行。5句1組で投句料が25銭という安さも手伝い、上京してくる地方藩士を中心に大いに繁盛。ついには、備前岡山藩主池田綱政の後ろ盾を得たのである。
この池田綱政の力添えで、まずは法橋の地位を賜ることになるが、世間はやっかみもあってか、綱政の「夏の夜や長居はふかく(不角)早帰れ」の句に、「蚊(か)の歯も立たずかしこまりだこ」と付けたことを、得るもののために阿っていると批判したのである。

けれども不角は、地位を目的に綱政に従ったのではない。身分あるものに恥をかかさぬために法橋になりたかったのだとの言がある。
何より不角は、自らの名を知らしめて、さらに多くの人との言葉遊びを楽しみたかったのだろう。ついには自らの姓も「立羽根」から「立羽」に改め、名前を「たちばふかく」にしてしまった。

立場不覚になったとは言え、うつつの姿を心得ていたし、帰りゆく場所も知っていた人。辞世は、

空蝉はもとのすがたに返しけり 不角



立羽不角に関する補足

1)立羽不角 ⇒ 資料1

2)法眼 ⇒ 僧位の第二にあたる位階にちなんで、連歌師などに授けられていた敬称。

3)蕉風 ⇒ 松尾芭蕉の広めた俳風。

4)芳里袋 ⇒ 1694年友鴎編の俳諧集。

5)不卜 ⇒ 岡村不卜

6)浮世草子や怪談集 ⇒ 不角の浮世草子に「好色染下地」(1691年)や「花染分」(1692年)、怪談集に「怪談録」(1692年)などがある。

7)前付句 ⇒ 現代の川柳のもとになったとも言われている。当時の俳諧の世界では、発句を重視する傾向にあり、前句付は下に置かれる傾向があった。

8)5句1組で投句料が25銭 ⇒ 現代の金額で300円くらい。

9)法橋 ⇒ 僧位の第三にあたる位階にちなんで、連歌師などに授けられていた敬称。

10)空蝉はもとのすがたに返しけり ⇒ 江戸川区の萬福寺に、この辞世を刻んだ不角の墓がある。墓石に刻まれた命日は6月21日である。



橋本諦助

1848年?~1874年(明治7年)10月10日

品川来福寺の阿波藍商人墓標群「たよるべき宿へは遠し秋の暮」という句は、橋本諦助という人が詠んだもの。彼は、江戸末期の阿波の農家に生まれ、俳諧の魔力に取り憑かれた。
おそらくは、家族の影響で句を詠み始めたのだろうが、家に背を向け全国行脚。極貧に身を投げ打ち、俳諧仲間に拾われながら食いつなぐも、明治になった東京で、病に倒れて死んでしまった。
品川の来福寺に葬られたというから、大島蓼太の流れを汲む俳人だったのだろう。幸運にも、阿波藩ゆかりの寺に骨を埋めることにはなった。
ただし、その故郷は大変なことに。本来ならば働き盛りの26歳になる男が、乞食同然の姿で、異郷の土となったのである。親類は、腫物に触るかのような扱いで、橋本家の墓地に名前は刻んだ。唯一残されていた掲句を、墓碑の裏側にして。

この一句が、しかし、特別な男を生んだ。橋本夢道ーーープロレタリア俳句を語る時、外すことの出来ない人物である。

少年時代、墓の裏側にまわったことが、全ての始まり。そこに見つけた叔父の句は、小学生の心をも鷲掴みにした。そして、父の反対を押し切り身を投じた世界に、夢のような道が開けたのである。
尤もそれは、茨の道。青年となってからは、商社の番頭の地位を捨ててまで俳句に没頭し、ついには新興俳句弾圧事件に連座。2年もの獄中生活を送る。それでも諦助の句は、彼の頭を離れなかった。いや、苦境に立たされるほどに、より鮮明になって浮かび上がったに違いない。

たよるべき宿へは遠し秋の暮 諦助

ほかに何ひとつ知られていない諦助の句。家も財産も全てを捨てて、徘徊した果てに見つけた男の辞世。それが、新たな時代の旗手を育んだのである。

【補足】
プロレタリア俳句ゆえに前職を解雇となった夢道は、次に商店の支配人となった。その時、「みつまめをギリシャの神は知らざりき」「君知るやこのみつまめの伝説を」のキャッチコピーで売り出したものが「あんみつ」。
橋本諦助という人がいなければ、今日「あんみつ」はなかったし、「あんみつ姫」も生まれなかった。
諦助の目指した宿は、どんなところだったのだろう・・・



橋本諦助に関する補足

1)品川の来福寺 ⇒ 資料1

2)大島蓼太 ⇒ 資料2

3)橋本夢道 ⇒ 資料3

4)新興俳句弾圧事件 ⇒ 反戦俳句を掲載した「京大俳句」が契機となり、治安維持法に基づく俳人に対する言論弾圧事件が起こった。「俳句生活」を創刊した夢道は、1941年に捕まった。



野村朱鱗洞

1893年(明治26年)11月26日~1918年(大正7年)10月31日

野村朱鱗洞の俳句自らの死の一年前となる昭和14年秋。遍路となることを決めた山頭火は、四国・松山の夜雨に打たれた。目的は、早世の同志・朱鱗洞の墓参り。
その来訪は、地元紙も取材に訪れるまでの注目を浴びた。けれども、墓所であるはずの寺には何も残されておらず、落胆しながらも山頭火は、仮の墓石を定めて手を合わす。それを不憫に思った友人が、三日をかけて辺りを探し回り、ようやく探し当てたのは真夜中。朝を待つように引き留める友人がいたが、その手を振りほどいた山頭火は目に涙を湛え、雨に打たれながら墓参した。

それほどまでに山頭火を刺激した朱鱗洞は、二十年余り遡る秋に、流行初期にあったスペイン風邪で斃れた。自由律の星として光を放ち、気力も充実していたであろう二十代半ばにして。
松山では子規の再来とも目され、海南新聞の選者として、ホトトギスの生地に旋風を巻き起こした。その句は飽くまで透明であって、師である井泉水は「礼讃」の中で「朝に咲く短い命の花にある清らかさと薫りにも似てゐる」と述べ、殉教者に擬している。
たとえばその句「いつまで枯れてある草なるぞ火を焚くよ」。終には萎む営みの中にも何かを求め、明日の希望につなげようとした男が居る。井泉水はそれを「真純すぎるほど至醇」と表現するがまた、「天分を受けたが為めに…」天命を全うできぬひとでもあった。
不意の帰天を命ぜられた朱鱗洞は、その晩年に

いち早く枯れる草なれば実を結ぶ 朱鱗洞

と詠んでいる。枯れることなきものなら、どんな花を誇っただろう。



野村朱鱗洞に関する補足

1)野村朱鱗洞 ⇒ 資料1

2)山頭火 ⇒ 種田山頭火

3)子規 ⇒ 正岡子規

4)海南新聞 ⇒ 愛媛新聞の前身。子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が発表されたことでも知られる。

5)ホトトギス ⇒ 1897年創刊の俳句雑誌。正岡子規の友人・柳原極堂が松山で創刊。1898年に、東京で高浜虚子が継承。保守俳壇の最有力誌として君臨していた。

6)井泉水 ⇒ 荻原井泉水

7)礼讃 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション



藤野古白

1871年9月22日(明治4年8月8日)~1895年(明治28年)4月12日

藤野古白の俳句明治二十八年春、古白の自殺を知った子規は、「春や昔古白といへる男あり」と詠んだ。子規にとって古白は4歳年下の従弟であり、高く評価していた弟子でもあった。けれども古白の方は、華々しく活躍する子規をライバル視していたとも言われている。
同じ語を冠する子規の「春や昔十五万石の城下哉」は、同時期に詠まれたものである。故郷松山の春の穏かさを詠んだもののように理解されることが多いが、従軍途上で寄港した広島の宇品から対岸を望み、在原業平の「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」に託して、変わりゆくものの憐れをうたったものと言うべきだろう。

その古白の変節は、恋にあったと言われている。二十の頃、それまで従順寡黙だった男が、隣家の女性のために饒舌になったと。
しかし、操り切れない恋情は、男を狂人へと変えていく。向き合える人間になろうと早稲田の門を叩いたというが、他者に耳を貸さない性が露となり、自らを「天才」と称す。
実際に、天才ではあった。鳴雪はその俳話に子規と古白を比較し、「子規より早く新調の風を得て居つた」と述べ、「先天的の能力は古白の方が余計に富んで居た」とも言っている。
ただ哀しきは、心中の矛先が明らかになるほどに浮き立つ孤独。最後に表した戯曲「人柱築島由来」は、やり場のない心の末路を松王に委ねて探り、「非礼は礼を騙り、無道は道理を騙り、不仁は仁義を騙り…この世は悪魔の騙る浄土なり」と語った上で、「申さじ言わんの胸の裏、潮となって湧くならば、消えゆく泡は世の中の、栄華の夢とご覧ぜよ」と言って、女の自死を見届けた上で最期を迎える。

戯曲の如く自殺を図ったのは4月7日。常に死を口にしていたため、仲間内からは「口先だけだろう」と囁かれていたが、盗んだピストルが激しく火を噴く。
先ず放たれた頭上からの一発は後頭部を掠めただけだったが、二発目が額に留まる。爆音に気付いた家族が駆け付けた時、既に助かる見込みはなかった。
一説には、「人柱築島由来」の不評を嘆いてのことだとも言われているが、その前から自殺願望を抱えていたことは明らか。ひとつの失恋が世の不条理を連鎖的に炙り出し、生きるのが下手な繊細な男を崩壊させてしまった・・・

乞食を葬る月の光かな 古白

行き場を失くした独善が、世に知らるべき宝を奪った瞬間である。



藤野古白に関する補足

1)藤野古白 ⇒ 資料1

2)子規 ⇒ 正岡子規

3)春や昔古白といへる男あり ⇒ 「寒山落木巻四」所収。同時期の子規の俳句に「春や昔十五万石の城下哉」

4)古白の変節 ⇒ 川東碧梧桐「子規を語る」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

5)鳴雪 ⇒ 内藤鳴雪

6)鳴雪俳話 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

7)人柱築島由来 ⇒ 青空文庫



河合曽良

慶安2年(1649年)~宝永7年5月22日(1710年6月18日)

河合曽良の俳句おくの細道に随行した曾良は、今日では最も有名な芭蕉の弟子。ただ、蕉門十哲に含まれるかといえば微妙なところで、多くは外される傾向にある。

この寡黙な男の人生は、決して平たんなものではない。生まれてすぐに養子に出されるも、養父母を亡くし、親類を頼る。その親類のおかげで伊勢長嶋藩に仕官するも、神道に惹かれて、30歳前後で浪人の身。以降は貧しい暮らしにあったと見られ、芭蕉は「深川八貧」の一員に数え上げている。

尤も、その芭蕉からの信頼は厚く、「雪丸げ」(1686年)には、

曾良何某は、此のあたり近く、假に居を占めて、朝な夕なに訪ひつ訪はる。わが喰ひ物いとなむ時は、柴を折りくぶる助けとなり、茶を煮る夜は、来りて氷を叩く。性隠閑を好む人にて、交金を断つ。或る夜雪に訪はれて、
 君火を焚けよきもの見せむ雪まろげ

とある。芭蕉庵近くに居を構え、無償で穏やかに芭蕉の世話をしていたことが分かる。「鹿島詣」や「おくの細道」に誘い出されたのも、当然のことだったのだろう。そして旅においても、詳細な事前調査は芭蕉を喜ばせたし、遺された「曾良旅日記」は、今日の芭蕉研究に欠かすことの出来ないものとなっている。
けれども曾良の句は、そんな実直な性格からは想像もできないほどの無邪気さに溢れている。特に、最後の句と見なされる「春に我乞食やめてもつくしかな」はどうだろう。

この句は、60歳を超えて江戸幕府巡検使に選ばれ、九州に派遣されることが決まった時のものである。それまでは六十六部として、乞食同然の放浪生活をしていたと見られる曾良が、驚くほどのまとまった金子を得て、九州の旅を楽しみにする中で詠み上げた。
「つくし」には、派遣先の「筑紫」に「土筆」が掛けられている。「金をもらってつくしを摘む必要がなくなったというのに、またつくしかよ・・・」というような感じだろうか。この人は、自らの置かれた立場を、常に楽しんできた人のように思う。
結局、訪れた壱岐で死んでしまうが、それも覚悟の上の旅だったのだろう。二十年遡る山中での芭蕉との病の別れにこそ死を見出し、

行行てたふれ伏とも萩の原

と詠んでいる。空の風の如き爽やかな人生を体現したひとである。



神野忠知に関する補足

1)河合曽良 ⇒ 資料1

2)芭蕉 ⇒ 松尾芭蕉

3)蕉門十哲 ⇒ 松尾芭蕉の優れた高弟10人を指す語であるが、其角嵐雪去来丈草以外は諸説ある。

4)深川八貧 ⇒ 江戸深川の芭蕉・曽良・路通・依水・苔水・友五・夕菊・泥芹。元禄元年12月17日に、この8人で「貧」にちなんだ句を詠んだ。

5)雪丸げ ⇒ 河合曽良編「雪まろげ」 ⇒ 国会図書館デジタルコレクション

6)鹿島詣 ⇒ 貞亨4年(1687年)、中秋の名月を見ようと、曾良・宗波を伴い鹿島の仏頂和尚を訪ねた芭蕉の旅行記「鹿島紀行」。

7)おくの細道 ⇒ 元禄2年(1689年)3月27日からの、芭蕉のもっとも有名な旅行記。

8)曾良旅日記 ⇒ 「おくの細道」の行程を記した曾良の日記。昭和13年に山本安三郎によって発見された。

9)江戸幕府巡検使 ⇒ 江戸幕府が諸国の情勢調査のために派遣したもの。巡見使随員として曽良は参加し、3月1日に江戸を発ち、5月22日に壱岐で病気のために客死。

10)六十六部 ⇒ 諸国の寺社に参詣する巡礼者。古くは、法華経を66か所の霊場に納めて歩いた巡礼者。

11)山中での芭蕉との病の別れ ⇒ 元禄2年「おくの細道」の「山中」に「曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、先立て行に、行行てたふれ伏とも萩の原 曾良 と書置たり。行ものの悲しみ、残るもののうらみ、隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。予も又、今日よりや書付消さん笠の露 芭蕉」とある。