スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

シン・エヴァンゲリオン劇場版を見るか迷っている方に伝えたいエヴァの楽しみ方

「エヴァってよくわからない」という感想でいい   私は宇多田ヒカルさん経由でエヴァの世界に足を踏み入れたのだが、要領を掴めないままアニメ版を見終わってしまった。  エヴァンゲリオンヲタクの友人に「エヴァってよくわからないんだよね」と伝えると、「うん、僕もよくは理解してない」と答えるのである。後に知ることになるのだが、エヴァを好きな多くの人がエヴァンゲリオンを説明しろと言われても「うっ、難しい」となる模様である。つまり、『シン・』以前に公開された作品を見てストーリーや設定を理解できなかったからと言って、エヴァとあなたの相性が悪いわけではない。大抵の人が全てを理解できないまま、エヴァンゲリオンの余白も含めてエヴァンゲリオンを楽しんでいたのである。  この記事では10年ぶりにアニメ版エヴァから全ての劇場シリーズを見直したライトなエヴァファンの私が、「おっ!これはすごい」と感じたエヴァンゲリオンの推しポイントについて語っていく。今回はアングル編についてだ。 エヴァンゲリオンはアングルで勝負している  エヴァンゲリオンを見たことがない人と、かつて見たことはあるけど何も響かなかったという人に伝えたい。エヴァンゲリオンはアングルに力を入れているアニメである。  先日放送された『プロフェッショナル仕事の流儀スペシャル』で庵野秀明監督はこう発言していた。 「アングルさえあればいい」 「アングルで勝負」 「アングルと編集がよければアニメーションって止めでも大丈夫。動く必要もない」  実際、改めてエヴァをみてみると、面白いなぁと感じる画角がいくつもある。その中には、綺麗だなとか、えっちだなぁとか、迫力あるなぁなどと言った感覚的に訴えかける刺激的なものと、それとは別に、情報がたっぷり詰め込まれたアングルがある。  例えばアニメ版エヴァの第1話。葛城ミサトが運転しながらNERV本部と電話で話すシーンがある。受話器を持ったミサトさんをバストアップで描けば事足りそうな場面である。  しかし、そのシーンはアクセルペダル辺りから車内を覗き見るように描かれる。ミサトさんの脚の間を経由をして、その奥に助手席に座ったシンジが見える。ミサトさんが電話をするシーンでありながらミサトさんの顔は描かれておらず、シンジの不安げな顔が印象に残る一コマである。そしてその後のシンジのセリフ「いいんですか?こんなことして」

『花束みたいな恋をした』一人の人間からカルチャーが消える様に悔し泣きをした件について

(C)2021『花束みたいな恋をした』製作委員会   「花束みたいな恋をした」を見た。菅田将暉、有村架純のW主演、脚本家は坂元裕二、監督は土井裕泰さんという名タッグだ。二人の男女の忘れられない5年間を辿っていく本作。この映画を観た感想を記していく。 青春胸キュン映画ではなかった  最初はどちらかというと見る気がおきなかった。なぜならポスターがとてもキラキラしていたからだ。胸キュン系の映画を見るとどうにもこそばゆい気持ちになってしまうため、本作も敬遠していた。しかし今回映画に誘ってくれた知人が言うのである。 「あのカルテットの脚本家と監督がつくった映画だよ?」  私はドラマ「カルテット」が大好きなのである。コミュニケーションが苦手なものたちが織りなす会話劇、他人同士の中に不器用ながらに生まれてくる絆、唐揚げにレモンをかけることについて長尺で議論する主人公たち。回を重ねるごとに作品に引き込まれていき、終わる頃には登場人物たちとの別れを寂しく思った。それに「Mother」「Woman」「anone」「問題のあるレストラン」など脚本家の坂元さんが手がけたドラマは印象に残っていた。  ということで、ポスターのイメージはすっかり払拭されて映画を見ることにしたのだが、映画の序盤の序盤で登場人物たちのやりとりに度肝を抜かれた。終電を逃した麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が居酒屋で好きな作家について話していたシーンだ。絹が指をおりながら作家たちの名前を口にする。  穂村弘、長嶋有、いしいしんじ、堀江敏幸、柴崎友香、小山田浩子、今村夏子、小川洋子、多和田葉子、舞城王太郎、佐藤亜紀( 『花束みたいな恋をした OFFICIAL PROGRAM BOOK』2021年1月29日発行 株式会社リトルモア)  挙げられる名前を聞きながら「あ〜、はいはい」と言って満足気にうなずく麦。  私は思わず、知人の方を見た。知人もこちらを見て驚いた顔をしていた。私は柴崎友香の、知人は今村夏子のファンなのである。絹や麦が自分の趣味と合う人の見つけた時の胸の高鳴りや喜びを感じたように、私もこの映画に対し胸が高鳴った。味方じゃんみたいな、そんな感じ。ポスター見てキラキラ青春系かと思ったけどそんなことなかったじゃん、っていう感じ。  二人はお笑いや音楽の趣味も合っている。もしあなたが、推しの名前を見かけるだけ聞くだけで

人生を垣間見る|柴崎友香『百年と一日』

  柴崎友香『百年と一日』 筑摩書房 2020年初版  見ず知らずの誰かの物語を集めた一冊。作家生活20周年で柴崎友香さんがこの世に送り出してきた一冊はまさに傑作でした。    「タイトルすごくない?」と話したい   この小説には33編の短い話が収められている。なんといっても各話の 独特なタイトル が印象的なのでちょっとこれを読んでほしい。 アパート一階の住人は暮らし始めて二年経って毎日同じ時間に路地を通る猫に気がつき、いく先を追ってみると、猫が入っていった空き家は、住人が引っ越して来た頃にはまだ空き家ではなかった  これはタイトルなのである。一読しただけではつかみとれないタイトルが目次を開くと広がっている。  他にもこんなタイトルも。 戦争が始まった報せをラジオで知った女のところに、親族の女と子どもが避難してきていっしょに暮らし、戦争が終わって街へ帰っていき、内戦が始まった  水島は交通事故に遭い、しばらく入院していたが後遺症もなく、事故の記憶もうすれかけてきた七年後に出張先の東京で、事故をおこした車を運転していた横田をみかけた   読み応えのあるタイトルに私はなんだかとても感動した。こんなにも不思議なタイトルを、ひとつならまだしも、いくつも考えられる人がいるということがちょっと信じられなかった。努力を帳消しにしてしまいそうであまり言わないようにしているが 「天才だな」 と思った。  そして、タイトルを読んだ時点でこれは多くの人に読んでほしいと思った。「すごいタイトルだね」「長っ」「私が好きなのはね、これ」と、この感動を共有したいと思ったのだと思う。 あなたもきっと想像してしまう  タイトルだけではなくしっかりと中身も面白いのでご安心を。  この小説に収められている物語は、登場人物が名前で描かれないことが多い。 なにか見えたような気がして一年一組一番が植え込みに近づくと、そこには白くて丸いものがあった。(P9)  その後もその者は『一組一番』と書かれ、新たに登場する者は『二組一番』と書かれる。徐々に「一組と二組は、顔を見合わせた」というように”一番”を省略しながらも徹底して名称は変わらない。『青木』と『浅井』だから二人が話すようになったと明かされても、二人は『一組一番』『二組一番』となのである。 また、別の話では『一人』と『もう一人』として描かれる二人が登場する。

デビュー作からすでに|今村夏子「こちらあみ子」

 今村夏子「こちらあみ子」ちくま文庫 2014年初版  あみ子は少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校してくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した作品。  第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞のデビュー作。「ピクニック」「チズさん」を併録。解説 穂村弘、町田康 これがデビュー作か  読み始めてすぐに、「これがデビュー作かよ」とため息がでた。冒頭の、勝手口から出て短い坂を登って裏手の畑に咲いているすみれをスコップで掘り起こすまで、の描写がまず良かった。  「星の子」を読んだ時には気がつかなったけれど、今村夏子さんの描く風景や自然はとっても良い。主人公が歩いている道がどれくらいの幅で周りにはどういう植物があるかが目に浮かぶのはもちろん、登場人物たちがその植物や地面の感触を特段珍しいものとも思わずに、当たり前の風景としてその道を歩いて行くことが想像できる。すこし田舎かあるいは数十年前の風景を連想させた。  その町では時間がゆっくりと過ぎている、というようなイメージを持ったのだが、もしかするとこの作品はあみ子目線でかかれた小説だから、あみ子の体感時間が反映されたイメージかもしれない。実際は仕事に受験にと忙しなく日々を送る人が大半かもしれないけど、あみ子の視点でみる景色からは忙しなさは感じられなかっただけで。  今村夏子さんは、29歳の時に「明日から仕事をやすんでください」といわれて、小説をかきはじめたらしいのだけど(そうして30歳の時には「こちらあみ子」でデビュー)、1年程度でこんな作品を書けてしまうって、凄い、の一言に尽きる。 変わっているあみ子と家族  あみ子は変わっている。授業中にうたを歌うし、給食でカレーが出たらインド人の真似をして手で食べる。同じクラスに誰がいるかを把握していない。食べ物を食べる時は蒸しパンの上のさつまいもだけ、ゼリーの中のさくらんぼだけ、チョコクッキーのチョコの部分だけ、という変な食べ方をする。  以下はあみ子が憧れの同級生のり君と一緒に帰るシーンである。あみ子のことがよくあらわれている場面なので引用する。 あみ子は顔いっぱいの笑顔をのり君にむけて「じーっ」と言った。一旦背を向けてあるきだし、十

愛がぎっちり|綿矢りさ「生のみ生のままで」

綿矢りさ「生のみ生のままで」集英社 2019年初版  彼氏と訪れたリゾートホテルで、逢衣(アイ)は女優の彩夏(サイカ)と出会う。意気投合し、友達のように仲良くなった二人。しかしある日、逢衣は彩夏にキスをされ、告白までされてしまう。上巻から下巻まで一気に読みたくなる女性同士の恋愛小説。   愛を感じる性的描写にグッとくる  綿矢りさが描く同性愛に興味があり、手にとった一作。読んでいる途中に思ったのは、「これは同性愛小説ではなく、恋愛小説だなぁ」ということ。好きになってしまった人がたまたま女性で、そして女優で、波乱が待っているのは主人公である逢衣自身もわかっているだろうけれど、 恋の引力に逆らえずおちていく感じ が良かった。  異性愛者だった彩夏が、女性である彩夏との触れ合いを簡単に好く感じるわけはなく、出だしは不快感からのスタート。それでも 彩夏の真っ直ぐな思いに溶かされるように逢衣も彩夏を受け入れていく 。読者としても「イケイケ!!」と二人の背中を押したくなるような、前のめり気味の気持ちで読み進める上巻。  上巻の後半には、あんなに頑なだった逢衣が熱い気持ちに突き動かされるように彩夏と愛し合う。「その肌に触れたくてたまらん」といった具合に互いを求める二人は尊い。以下は二人が愛し合う場面の一部。 いままで身体を縛っていた痛いほどの緊張が彼女と触れ合った部分からほどけてゆく。  生のままの酒を口移しで無理やり飲まされて、気づけば自分から飲み干しにいっているような。天然の酩酊が視界を熱く歪ませて呼吸を弾ませる。段々とベッドの上で起きていること以外すべてがどうでも良くなってゆく。(上・P147)  不思議なことに、性的な描写を読むごとに、逢衣と彩夏の思いは浮ついたものでもなく、本当に一生もんの恋や愛かもしれないと思えてくる。 こんなにエッチなのに愛も感じる描写をできる綿矢りさ、最高やん!!  ってな感じで、私は浮かれ気味に読んでいたのだけど、上巻ラストで二人の関係に陰りが差して、一体どうなってしまうのだろうと気になって仕方がなく、結局次の日には下巻も一気に読み終えてしまった。上下巻セットで購入するのをお勧めします。  二人で脱毛しあったり、互いの元彼の話をしてみたりと同性同士の友達みたいな関係も微笑ましかった。同

老いる楽しみ|若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」

若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」河出書房新社 2017年初版  先立つ夫を見送って以来、一人孤独な生活を送っている桃子さん。物思いにふけることが増えた桃子さんは、今がしっかりものを考える最後のチャンスかもしれないと考えた。七十五年の歳月を振り返り、桃子さんはいったい何を思うのか。老いと孤独、母と娘の連鎖、愛し抜いた男との別れ、故郷の思い出、一たび考え始めると桃子さんの心の中には声が溢れ出す。孤独の果てに桃子さんが手に入れたものとは。  老いることでしか桃子さんの境地には至れない、そう思った。手の届かぬところに桃子さんは行ったんだと。 老いてみなければわからない楽しさがある と思えた作品である。  文藝賞・芥川賞受賞作品。田中裕子さんを主演に2020年映画公開予定。 重みのある言葉 桃子さんの内側には声が溢れていた。それも一人ではなく、年齢も性別も不詳の大勢の声である。桃子さんのふとした心の取っ掛かりを広げ、掘り下げていくように、声たちはやりとりを始める。桃子さんはその声たちのことを「 柔毛突起ども 」と呼んでいた。桃子さんの故郷・岩手弁の柔毛突起どもと、標準語の桃子さんの掛け合いは、読者までも思考の渦に引き込んでいく。 若さというのは今思えばほんとうに無知と同義だった。何もかも自分で経験して初めて分かることだった。ならば、老いることは経験することと同義だろうか、分かることと同義だろうか。老いは失うこと、寂しさに耐えること、そう思っていた桃子さんに幾ばくかの希望を与える。楽しいでねが。なんぼになっても分がるのは楽しい。内側からひそやかな声がする。その声にかぶさって、  んでもその先に何があんだべ。おらはこれがら何を分がろうとするのだべ、何が分がったらこごがら逃してもらえるのだべ。正直に言えば、ときどき生きあぐねるよ。(P30~ 31) 「なんぼになっても分がるのは楽しい」と希望を見出したすぐ後で「何が分がったらこごから逃してもらえるのだべ」と続く。  柔毛突起のやりとりは、ふわりふわりと思考を転々としているかと思えば、 不意に思わぬ着地を見せる 。そこに待っている言葉は、文字を読むことを止めさせるような重みがあった。 すんなりとは飲み込めない凄味 があった。それは、桃子さんの痛みや悲しみを訴える声の時もあれば、桃子さんが人生

純粋でいられたら | 村田沙耶香「ぼくの ポーポが こいを した」

村田沙耶香 作/米増由香 絵/瀧井朝世 編「ぼくの ポーポが こいを した」岩崎書店 2020年4月 初版  ぬいぐるみのポーポと、ぼくのおばあちゃんが結婚する。「きもちわるいよ」そう言われるおばあちゃんの心は、純粋な気持ちで溢れていた。  およそ30ページの絵本でも、著者・村田沙耶香さんの色はちっとも薄まることなく、むしろ凝縮されているようにも感じる。米増さんの描く迫力のある絵とともに、恋の尊さを優しく教えてくれる一冊。 おばあちゃんの恋は誰のもの  にちようび ぼくの おばちゃんが、 ぼくの ぬいぐるみの ポーポと けっこんする。 「ぼく」のおあばちゃんは「ぼく」のぬいぐるみのポーポと夜な夜なキスをする仲である。晴れて結婚する運びとなったが、「ぼく」は反対だ。  「ぼく」は、 おばあちゃんは人間で、ポーポはぬいぐるみだから、ぜったいに変 だということを主張する。ここで、登場するのが「ミカおかあさん」と「ユカおかあさん」だ。「ぼく」には 二人のお母さん がいる。しかし、二人のお母さんはポーポとおばあちゃんの結婚に大賛成で、準備を進めていく。反対しないの? と聞く「ぼく」に、二人のお母さんはこう答える。  「しないよ。わたしたち、ママの みかたよ」 「そうよ。おばあちゃんの こいは、おばあちゃんの ものだもの」 ポーポにも相手にされなくなり寂しさを募らせ、おばあちゃんには「きもちわるいよ」と言ってしまった「ぼく」。そんな「ぼく」も、おばあちゃんの姿をみて気持ちを変えていく……。  ちなみにおばあちゃんが結婚式に来たドレスの色は、オーソドックスなものではなかったので大変驚いた。何色のドレスを着たか、村田沙耶香さんのファンならもしかしたら当てられるかもしれない。是非、想像してから本書で確かめてほしい。 純粋と狂気  パラパラとこの絵本を開いた時に、私が初めて見たのは、細かな模様で埋め尽くされたページだった。うわっと驚いたのを覚えている。「狂気じみた細かさ」を感じたのである。しかし、よく見てみると、線からはみ出ている部分や、色にムラがある部分もあり、大変不規則で雑っぽい。しかし、その雑さが、なぜだか温もりを感じさせた。  優しさと狂気の両方を感じられる絵。村田沙耶香さんの作品にもそういうところがあるので、とても素晴ら