村田沙耶香「変半身」筑摩書房 2019年11月 初版
村田沙耶香さんと劇作家の松井周さんが、三年に及ぶ取材や創作合宿を重ねながら生み出した「変半身(かわりみ)」。2019年11月、村田さんは中編作品「満潮」も収録した本小説を、松井さんは同タイトルの舞台を発表した。二人が考えた架空の離島「千久世(ちくせ)島」が放つ声は、あなたの世界の輪郭までも揺さぶるかもしれない。
ポーポー様の眠る島で続く秘祭「モドリ」
舞台となる千久世島には、ポーポー様という神さまがいた、という伝説がある。信号が一つしかないような小さな島だが、年に一度行われるポーポー祭りには観光客も訪れ島全体が活気付く。その祭りの開催が迫っていた。
三日間行われるポーポー祭りの最終日の夜には、選ばれた人間しか参加できない秘祭「モドリ」がある。「モドリ」に参加できるのは十四歳になってからで、この学校にも、「モドリ」に初めて参加する子がいるのだと思う。私もその一人だった。(P14)主人公の伊波 陸は秘祭「モドリ」に参加することが決まっていた。この時点ではモドリがどのようなものなのかは明かされない。ただ、モドリに選ばれることは嬉しいことではないようだ。この時期に学校で泣いていたり学校を休んだりした子は、モドリに参加するのだろうと推測される。
また、モドリに参加するのが誰なのかは口外禁止になっている。
「高城くん、この話、してるのがばれたら村八分だよ」(P16)「村八分ってまたまたぁ」と一瞬クスリときた場面だが、同級生の高城くんと伊波の会話を聞いているうちに、「村八分だよ」が冗談でも脅し文句でもなかったかのように思えてくる。島に流れるただならぬ空気に緊張感を高めていくのは、モドリに選ばれた者だけでなく読者も同じかもしれない。
祭りがいよいよ間近に迫り、伊波が高城くんへの想いと向き合うという場面がある。
小学校のときからずっと、私の恋と発情は、高城くんのものだった。村田さんが描く恋は、熱を帯びかすかに湿っている感じがする。引用部分も含めて1ページと7行だけの短い場面だが、この作品の中では数少ない本物の熱を感じられる場面だ。伊波の叶わなかった夢と後悔のような気持ち、どこをとっても綺麗すぎて心が震える。この作品に残された聖域のような場面である。
誰にも言ったことはなかったのに、花蓮はいつから気がついていたのだろう。用心深く、私のどこからも、この発情の気配が漏れないようにしていたのに。(P24)
高城くんや親友の花蓮もモドリに参加することが分かった伊波。しかしどうすることもできぬまま、とうとうモドリが始まってしまう。モドリがどういうものなのか、伊波たちがモドリの日にどうなったかは、本作を読んで確かめて欲しい。
左:村田沙耶香さんの描いたポーポー様ステッカー 右:舞台「変半身」のリーフレット。イラストは鳥飼茜さん |
人間を疑え
冒頭では千久世島の伝説の内容については語られず、ただ「ポーポー様」という神様と「ポピ原人」という種族がいたということしか明かされない。ポーポー、ポピ、繰り返されるPの音に、私は無自覚のうちに油断してしまっていたんだと思う。油断するということは、可愛いとか脅威ではないとかそういう判断をしてしまったということだ。ポーポー様がどんな神かも知らないくせに。
この小説は三つの章に分かれている。Ⅰは一四歳の伊波たちと島の様子が、Ⅱには島を出て結婚した伊波の生活や社会の様子が、Ⅲでは変わり果てた島の様子が描かれている。
Ⅰ章までは、どこか現実世界とかけ離れた島のお話として楽しんでいた読者も、Ⅱ章になると現実世界に強く結びついた話のように感じるだろう。
伊波の夫はタカヤというプロデューサーに雇われ、「成功者のモデルケース」を演じていた。夫は流行で変わる「勝ち組男性」の像にはまっていなければならないし、伊波もまた勝ち組男性のステータスになるような「勝ち組男性の妻」を演じて生活しなければならない。夫はいかにもお人好しな顔立ちで人から信頼されるタイプである。
詐欺の入り口には、こんな人の良さそうな人がこんなふうに成功してるんだ、という油断ときっかけを与えてくれる人がいると、警戒心が解けるのだ、とタカヤさんが偉そうに言っていた。(P38)タカヤは夫を成功者として売り出し、詐欺を働いていた。そしてまた、間接的に詐欺に加担するような生活を送っている伊波は、世界のあらゆることが信じられなくなってしまっていた。
ここからこの作品は私たちを裏切り始める。伊波がそうであるように、読んでいる者も、何が本物で何が偽物か分からなくなってしまうし、全てが疑わしくなってしまう。
終盤で作中の人物たちが口にする、この世界に隠された真実。それが本当のストーリーであると私は信じることができなかった。信じることができないのは、「ポーポー様」という可愛い響きに油断し、警戒心が揺らいだところでこの作品の中の何かを強く信じてしまっていたからだ。そしてその信仰を裏切られたからだ。
きっとこの小説を読む者は、何かを信じて、裏切られ、信じるということを疑うようになるのだと思う。
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