和久わくこ和久わくこ

子供時代に得た鮮烈なイメージは、以降の私にとって「戒め」として残ったのです。

生き物同士による不具合「いじめ」

ニワトリの尖ったクチバシ

私の祖父は、郊外で養鶏業を営んでいました。

自転車に乗れるようになってから、ちょっとした遠出がてら、よく、祖父の養鶏小屋に行ったものでした。

おやつほしさに、お手伝いもしました。

そこで、嘴(くちばし)の先を焼き切るという作業の手伝いをしたことがあります。

鶏の身体を固定して、専用の焼切り機械で とがった部分を切り落とすのです。

嘴の先を切る理由とは

祖父は、叱るべきときはきっちり叱る、厳しい人でした。

容赦なく鉄拳が飛んできたこともあります(たぶん、私が危険なことでも やらかした時でしょう)。

でも、海に山にと、よく連れて行ってくれました。

私は祖父に懐いていました。

子供心に、人生の先輩として尊敬する気持ちがあったように思います。

鶏の嘴を切ることについて、かわいそうに思いました。

でも、祖父が行っていることには、それ相応の理由があるのだろうと思い、手伝うことにしたのです。

鶏たちの部屋

鶏小屋では、5~6羽ずつがひとつのカゴに入っていました。

まだ大人になっておらず、人間に例えれば、中学生くらいの鶏だそう。

それぞれのカゴは、畳半分くらいの面積で、鶏たちはそれぞれに動き回ったり餌を食べたりして、大人になるまでの時間を過ごしています。

1羽ずつ取り出し、ばたつく羽をなでつけて押さえ、作業台へ嘴を固定します。

嘴を切ること自体に痛みはないようで、少しほっとしました。

作業内容に慣れた頃、手伝いながら、嘴の先を切る理由を聞きました。

ちょっとしたきっかけで…

その理由は、ちょっとしたきっかけで、鶏同士の突き合いが起こるため、そのときのダメージを小さくするために、嘴の先を切るということでした。

そしてそれには続きがあり、けっこう衝撃的でした。

祖父は、「血を見て狂うのかなぁ」と口にし、続きを言いました。

カゴの中の鶏のうち、どれか1羽がなんらかの理由でケガをすると、他の数羽が一斉にその傷を突きまくるのだそう。

逃げる鶏を追い回し、続けられるそれ。

追われた鶏が絶命し動かなくなっても続けられ、内臓を引きずり出しても、さらに続行。

つついても血が出なくなったら、終わるそう。

はじっこの死骸らしいもの

そういえば、カゴのはじっこに、鶏らしい死骸があったのを、見たことがありました。

“らしい”と言ったのは、なにか むごたらしい様で、詳細を見ていないので、よくわからなかったのです。

鶏が突きまわされる現場を見たことはありませんが、その様子が映像としてイメージされてしまい、いつまでも印象に残るものになりました。

脳裏に湧き上がる像

この件は、小学校低学年だった私にとって、ショッキングなことでした。

が、後に、人間同士の「いじめ」について耳にするたび、私の脳裏に湧き上がる像になりました。

祖父とのやり取りには、後の私に大切な「気づき」をもたらすものが、多々ありました。

祖父は、子供らしく思い切り遊ぶ機会を与えてくれ、そして、折に触れ、生きることの厳しさを教えてくれる人だったのです。

人生の戒めのひとつ

後で思うに、鶏らのその行為は、血の赤さ(ハデな色を認識するようだ)に注目することと、湧き出てくる水分を求めているだけ?かとも思えたりしました。

人間同士に置き換えて考えるのは、根本的に違うかもしれないとも。

ただ、「血を見て夢中になり(飽きたからやめる)」など、あってはいけないことだけど、

「ちょっとしたきっかけで起こるもの」だとすれば、このことは、自分や自分の身の回りにも、起こりうることかもしれない。

だから、それを、人生の戒めのひとつとして、心に留めておくこととしました。

続きをごらんください 「鶏カゴの片隅の死骸のようなモノ」愉悦の自覚②