若僧ひとりごと

禅やら読書やら研究やら

『学道用心集聞解』を読む#4 〜乾巻2〜

2020-03-25 02:42:52 | その他

 『学道用心集聞解』は道元禅師が35歳で書かれた『学道用心集』の注釈書で、面山瑞方禅師(以下面山さん)により書かれたものです。

 前回は「学道用心集」の字義についてが主なテーマとなりました。今回扱う部分ではこの学道用心集の十段がそれぞれどのような意味を持っているのかについての面山さんの解説から入っていきます。まず十段について確認します。

第一 可発菩提心事
第二 見聞正法必可修習事
第三 仏道必依行可証入事
第四 用有所得心不可修仏法事
第五 参禅学道可求正師事
第六 参禅可知事
第七 修行仏法欣求出離人須参禅事
第八 禅僧行履事
第九 可向道修行事
第十 直下承当事

 書き下しは以下のようになります。
第一 菩提心を発(おこ)すべき事
第二 正法を見聞して必ず修習すべき事
第三 仏道は必ず行に依りて証入すべき事
第四 有所得心を用って仏法を修すべからざる事
第五 参禅学道は正師を求むべき事
第六 参禅に知るべき事
第七 仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事
第八 禅僧行履の事
第九 道に向かって修行すべき事
第十 直下承当の事


 さて、まず十段あることの意義としては、「大海に入るごとく、次第次第に甚深なり」と説明されています。別々に立てられているものというよりは、読み進めていくうちに仏法の深い部分に親しんでいくことができるということです。ここからは十段それぞれがどのような役割を果たしているのか、どのような意義があるのかについて述べられていきます。

 まずは第一の「可発菩提心事(菩提心を発すべき事)」です。最初にこれが来ていることについては、発菩提心が「三世諸仏の成正覚の根本なるゆえ」であるとされます。三世諸仏というのは過去現在未来の仏のことです。成正覚はひとまず悟りのこととしておきます。この「可発菩提心事」は「この一段が無ければ後の九章も戯事なり」とされ、特に重要視していることが分かります。戯事は「ざれごと」とも読み、実を伴わない事であるということと受け取れます。もちろん、これは面山さんの解釈であり、道元禅師ご自身もそう考えられていたと短絡的に結びつけることはできないかもしれませんが、大いに参考になる部分です。

 私は福井にある曹洞宗の大本山永平寺にて安居(修行)していましたが、そこではこの「可発菩提心事」が「発菩提心」という題目で読誦されていたのですが、『学道用心集』という10章からなる著作の1章だけ切り取って読まれているのかが釈然としない思いがありました。しかしこの面山さんの「可発菩提心事」が無ければ他の章は詭弁にしかならないということが言われていることからも、修行全般の中で最も肝要な部分であるから取り上げられたのだろうと納得することができました。

 第二の「見聞正法必可修習事(正法を見聞して必ず修習すべき事)」については「菩提心を発してからは仏祖単伝の正師を尋ねて正法を見聞して修習するが菩提心の潤色ゆえ」とされています。潤色というのは「彩りを添えていくこと」といった意味がある言葉です。菩提心の彩りとして、正しい師匠を訪ねて正法を見聞きし、実践していくことが肝要であるということがここでは示されることになります。また、修習するとは行のこと、すなわち「坐禅三昧」のことであるといいます。

 「行ぜねば菩提心に証入することならぬゆえ」に第三の「仏道必依行可証入事(仏道は必ず行に依りて証入すべき事)」があるとされます。そしてその証入が「有所得の心」によって行われてしまってはならないことを示すため、第四の「用有所得心不可修仏法事(有所得心を用って仏法を修すべからざる事)」があると続きます。そして誤った師のもとでは有所得に堕してしまうことから、第五の「参禅学道可求正師事(参禅学道は正師を求むべき事)」を示されたとされます。

 第六は「参禅可知事(参禅に知るべき事)」で、「参禅と云うには古徳の先蹤があるを知ってその例とせねばならぬ(ゆえ)」、第七「修行仏法欣求出離人須参禅事(仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事)」「日本に自身初めて伝来せられしゆえに、今まで諸宗で仏法は娑婆を出離して浄土を欣求すると思う人もそれよりは参禅の自己に帰るほどはやみちはなきこと」

 第八「禅僧行履事(禅僧行履の事)」「坐禅僧なればその日用の行履を識得する為」、第九「可向道修行事(道に向かって修行すべき事)」「行履の了然不生の所も修行ゆるくしてはならぬゆえに、刹那も油断せず菩提を目かれず見よ」
という教えを示すためであるとされます。また、ここでは修行とは坐禅と聞法であることもまた示されています。

そして第十段に入る前に、「発心とは四弘誓」であると述べられています。四弘誓とは、四弘誓願文のことです。「衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」の四句からなるのがこの四弘誓願文です。
これについて、面山さんは次のように釈しています。

衆生無辺誓願度=「化他の為」
煩悩無尽誓願断=「自行の為」
法門無量誓願学=「聞法」
仏道無上誓願成=「正身端坐」

 仏教の中では自利利他という言葉がありますが、この利他が最初の「衆生無辺誓願度」、自利が「煩悩無尽誓願断」に当たるとされているのです。そして第九で示された、修行は「坐禅と聞法」というところが今度は「法門無量誓願学 仏道無上誓願成」に関わってきます。法門無量誓願学は聞法であり、仏道無上誓願成は坐禅であるのです。

 この正身端坐が「佛佛祖祖の直下承当」であるために第十「直下承当事(直下承当の事)」があるのだとされ、そして「第十の時に最初の発菩提心が円成する」とされます。最初に発菩提心が無ければ後の九段は全てが「戯事」であるとされていましたが、ここではその菩提心が第十をもって円成するとされているのです。円成するとは「仏行として満ち足りたものになる」と受け取っておきたいと思います。
菩提心を発し、正しい師を求め、教えを聞き、坐禅をし、誤った見解に落ちずにひたむきに精進を重ねていくことを懇ろに説かれているのでしょう。


ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。学びの身ですでありますので、どうか誤った点などございましたらご指摘いただけると幸いに存じます。


次回からは実際に学道用心集の本文へと入っていきます。
またお会いできますよう。



仏教ランキング


最新の画像もっと見る

コメントを投稿