若僧ひとりごと

禅やら読書やら研究やら

菩提心とは「やるか、やらないか」〜『学道用心集聞解』を読む#5

2020-04-02 20:58:04 | 仏教・禅
前回は可発菩提心事について、前半の説明でした。心地観経についての説明でしたね。ここでは空というのは固定した存在はない、実体的な存在はないということなのだけれど、それが行き過ぎてしまうと因果の道理を無視した邪見に陥ってしまう。空というのはあくまでも「有の病」に対する薬として処されるものである。そして邪見から離れれば悟りの心が自ずから働き出すのだ、というのがおおまかな内容となっていました。今回は前回の引用の残りの部分です。こちらに再掲しておきます。

それ自性清浄の心を菩提心と名づく。六道の群生みな具えたり。ただ発と未発との差別なり。諺に喩を説かば、人の臥したると起きたるとのごとし。未発は臥(ね)てらるなり。発は起るなり。なにほど勝れた器量芸能ある人でも臥(ね)て居た分では一切の事業死人と同じ。もし起きてなれば我に有るほどの智慧才覚少しもつかえず用う。今もこれと同じ。本具の菩提心を発しだにすれば、その功徳の働きにて六度万行の器量芸能にもあらわれ、三明六通の智慧才覚も用いられて一超直入如来地なり。ゆえに華厳には初発心便成正覚と説かれ、涅槃には発心畢竟に無別と説かる。菩提と云うは、阿耨多羅三藐三菩提の略語なり。梵語を翻すれば、無上正偏智とも無上等正覚とも称す。果満如来の徳号なり。

ここに示した引用部分は経典ではなく、面山さん(面山瑞方)の解説になっています。本文は漢文ではなく書き下されたものになっていますが、ひらがなになっている部分はカタカナで記されています。

さて、最初のところから見ていきます。
それ自性清浄の心を菩提心と名づく。六道の群生みな具えたり。

自性清浄という言葉が出てきました。『唯識 仏教辞典』には「自性清浄心」の項目があり、ここでは次のように出てきます。

「本来的に清らかな心。煩悩は心に付着した日本来的なもの(客塵煩悩)であり、心の本性は清らかであるという考えをいう」

本来ある清らかな心、つまり悟りの心があるということを菩提心というのだというのがここの部分です。それを六道の群生、つまり天・人間・阿修羅・地獄・餓鬼・畜生にある存在が全てその悟りの心を持っているというのです。みんな本来的に悟っているんだ、というのが天台では「本覚思想」と言われ、堕落の原因ともなったのですが、ここでは単に本覚思想に終わることはありません。次の文章です。

諺に喩を説かば、人の臥したると起きたるとのごとし。未発は臥(ね)てらるなり。発は起るなり。なにほど勝れた器量芸能ある人でも臥(ね)て居た分では一切の事業死人と同じ。もし起きてなれば我に有るほどの智慧才覚少しもつかえず用う。

本来清浄な悟りの心なのだけれど、どうして違いがあるのかと言うと、それは寝ているか起きているというような違いにあるのだと言われています。未発、つまり発心していない状態は寝ていること、そして発心している状態は起きていることに例えられます。

どれほどの器量芸能、簡単に能力のことと解釈しておきますが、そうした能力のある人でも、寝ているだけではなすこと(事業)は死人と変わらない。つまり何の作用も起こさないということが言われます。「やればできる」と言いながらぐーたらしている人間は結局のところ何にもならないというのと同じことですね。

それに対して、起きていれば自分にある智慧・才覚が邪魔されることなく使うことができるのだとされます。これは簡単には同意しかねるところではあります。起きていてもなかなか自分の能力を発揮できないところはいくらでもあるからです。面山さんの指摘する「起きる」というのは単純に起きているというよりは、本当の意味で「目覚めている」ことを指すのでしょう。

本具の菩提心を発しだにすれば、その功徳の働きにて六度万行の器量芸能にもあらわれ、三明六通の智慧才覚も用いられて一超直入如来地なり。

本具の菩提心、つまり元々備わっている清浄な心が働きさえすれば、その功徳が働いて六波羅蜜という行いが現れ、三明六通という智慧を使えるようになり、如来と立つところを同じくするというのです。

六度万行とは六波羅蜜のことです。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つですね。元々仏教で重視されていた行いに関する教えとしては八正道というものがありましたが、大乗仏教になると布施に代表されるように他者性を重視するようになりました。

三明六通についてですが、まずは六神通は以下のものになります。

① 神足通(じんそくつう)。欲する所に自由に現れることができる能力。
② 天眼通(てんげんつう)。人々の未来を予知する能力。
③ 天耳通(てんにつう)。世間一切の苦楽の言葉、遠近の一切の音を聞くことができる能力。
④ 他心通(たしんつう)。他人の考えていることを知る能力。
⑤ 宿命通(しゅくみょうつう)。自己や他人の過去のありさまを知る能力。
⑥ 漏尽通(ろじんつう)。煩悩ぼんのうを滅尽させる智慧。宿命通、天眼通、漏尽通

引用元は以下のページです。

浄土真宗の親鸞聖人に関するデータベースのようですが、手元にある辞書とも大差が無いようなので掲載しておきます。

これは六神通について、つまり三明六通の六通に当たる部分ですが、三明と言うのは天眼通、宿命通、漏尽通を別に取り上げたもののようです。

よく仏教は合理主義的な教えだ、宗教だと言われることが多いのですが、仏典の中では度々超能力のような出来事が取り上げられています。お釈迦様の十大弟子の中にも神通第一と言われた目連尊者がいます。この方は神通力を使った亡くなったお母様が今どこにいるのかを見たそうです。すると天でも人間界でもなく、餓鬼として苦しんでいたというのです。

お釈迦様も水の上を歩いたり、お釈迦様のいるところからはるか遠くのところから香を焚いてお釈迦様に教えを求めたところ、そこにすぐさま現れたといった逸話が仏典に残っています。こうしたものが神通力と言われるのですね。菩提心を発せばそうしたことが全て行えるようになるかというと、それはまた疑問が残るところではありますが。

一超直入如来地(いっちょうじきにゅうにょらいち)とは、本来は黄檗希運(おうばくきうん)という、唐代の禅僧が使っていた言葉です。悟りの境地はステップ・バイ・ステップではなく、場面が転換するようにガラッと変わることをここでは示されています。

今回はここまでと致します。
読み進めていくのも良いですが、もう少しテーマオリエンティッドなスタンスで書いていくのも良いかなと思い始めています。

それではまたお会いできますよう。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿