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禅したり、しなかったり。

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コーヒーの手挽きは禅や瞑想の入り口になりそう。

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コーヒーを手で挽いています。

おしゃれな響きです。

 

しかし、このおしゃれさの引き換えに生じる地味な作業に心折れた人も多いのではないでしょうか。

 

かく言う私も挫折を経験しました。

最初のころは何か特別な感じもして楽しかったのですが、段々と億劫に感じられてきました。堅い豆にあたると引っかかりますし、時間もかかります。電動のものであれば放置してそれでおしまいなのに。

 

「早くコーヒー飲みたいの!」

煩悩ばかりが駆り立てられます。

  

そもそも100円出せば美味しいコーヒーがコンビニで買えますし、ドリップタイプのコーヒーも美味しいのがたくさん出ています。

 

わざわざ手挽きをしなくて良い。

そう思ってしばらく手挽きのミルは放置していました。

 

手挽きに再チャレンジ

再び手挽きでコーヒー豆を挽くきっかけになったのは近所のコーヒー屋さんです。

 

そこのコーヒーは1杯500円と少しぐらいの金額なのですが、美味しい!

美味しいけれど頻繁には来れないなーと思っていたところ、コーヒー豆も売ってくれていたのです。

 

お店で飲めば500円以上するコーヒーが家でこの豆を挽けば一杯100円もしない。

これは買うしかない。そう思って買って帰ります。

 

手元にあるのは手挽きのコーヒーミル。

もちろん電動のものを買おうとは思いません。

 

そもそも安く美味しいコーヒーを飲むというのが目的なのに、高級な電動コーヒーミルを買っては本末転倒です。

ちなみに使っているのはこれです。

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手挽きのコーヒーミルへの再挑戦。

今度は以前とはちょっと違う心持ちで試してみました。それは、「早く終わらせようとしない」ことでした。

 

「早くコーヒーを飲みたい」「早く挽き終わりたい」

 

こういう思いは手挽きの力を強めてくれる側面があるのかもしれませんが、ネガティブな面もあります。それは冒頭で触れた、コーヒー豆が引っかかる瞬間です。早く終わらせようとすればするほど、この瞬間がストレスになるのです。

 

豆を挽く早さにこだわらない。

とにかく豆を挽くことに意識を向ける。

 

そんな心持ちで最近は取り組んでいます。

すると、不思議なことに以前感じていたストレスがほとんど無くなっていました。むしろ豆を挽くことの楽しさも感じられるようになったのです。

 

墨を磨るのに似ている?

これは書道で墨を磨る感覚とも近いのかもしれません。

墨も「早く書かせろー!」という急いた気持ちで磨っていってもなかなか色が出ないことにイライラを募らせるばかりになります。

そうではなく、ただ磨っていくことによって気づいたら十分に墨が磨られている状態になる。そして、磨っている時間は単に墨を磨るための手段ではなくて、磨っている時間そのものも味わい深いものになる。

 

コーヒーの豆を挽いている時間は、墨を磨る時間と共通しているところがありそうです。両者に共通して大事なことは「目的にとらわれないこと」。

 

禅や瞑想でも目的にとらわれない

この考えは禅や瞑想においても非常に大事なものです。

坐禅や瞑想をすると集中力が高まるとか、レジリエンスが高まるといった効果が宣伝されていますが、そうしたものをゲットしようとしてもなかなか上手くいきません。

 

思った通りにならない自分に対しても否定的な思いを抱いていくことにもなりますし、何よりも坐禅や瞑想を楽しむことができない。味わうことができない。

 

これも豆を挽いたり墨を磨るのと同じ問題です。

最終的な目標を意識すればするほど、小さなつまづきが大きなストレスになってしまいます。

 

まずは自分の姿勢だったり、呼吸のあり方に目を向けてみる。

新鮮な発見だったり、なんとも言えない心地よさを感じる。

 

それを繰り返していくことによって、知らず知らずの内に自分が変わっていく。

 

 

もちろん、いきなり坐禅や瞑想をするというのは難しいという人も多いですし、それが普通なのかもしれません。目的にとらわれず、ただ豆を挽くというのはその導入になりうるのではないかな、なんていうことを考えたお話でした。

 

ここまで読んでいただきありがとうございました。

坐禅についてはこんな記事も書いていますので、よろしければご覧ください。

坐禅(座禅)を毎日習慣にしたい人は5分から始めよう - ぷらっと禅

お別れ会は葬儀の代わりになるか?

お別れ会とは

1年以上前の記事ですが、こんな記事を見つけました。

 

toyokeizai.net

 

この記事の中では「お別れ会」が紹介されていました。

 

お別れ会とは、「普段はなかなか顔を合わせない親戚が集まり、故人の思い出話をする」といった「カウンセリング的な機能」を「葬儀が充分に果たせなくなったことから誕生した」とされています。

 

最初のお別れ会は1994年にホテルオークラ東京が開いた「故人を送る会」だそうです。

 

「『お別れ会』は『故人や家族が何がしたいか』『故人はどんな人だったか』がベースにあり、宗教やしきたりにとらわれず、主催者の希望を優先した形で行われ、最初の相談から会当日まで、数週間〜数カ月間準備に費やす」もので、葬儀のような慌ただしいものではなく、ゆっくり準備を進め、形式にもとらわれないのがその特徴だと言えそうです。

 

友人との死別とお別れ会

私自身、一度お別れ会に参加経験したことがありました。それは大学時代、友人を亡くした時のことです。

 

友人が重い病気にかかっており、余命も長くないと聞かされた時、心臓が一度大きく鳴り、冷や汗のようなものが吹き出ました。友人の病状が悪化し、実際に入院することになってから、一層のショックを受けました。

 

悪い病気、治らない病気だと聞いても、心の内では「なんとかなるはず」

 

そんな思いがやはりありました。けれど、この甘い希望は「入院」という事実によって打ち砕かれます。お見舞いに行き、体調が悪化していく友人を目にし、その死が本当に間近に迫っていることを受け入れざるを得ませんでした。

 

大学生の、夏休みの時だったと思います。ご両親から連絡が入り、友人が帰らぬ人となったということを聞きました。お見舞いの際に連絡先を伝えていたのです。連絡を受け、世の理不尽さにあてられた私はソファに横になり、しばらく天井を見つめていました。

 

葬儀に伺おうと思ったのですが、それはかないませんでした。身内だけで済ませ、後日お別れ会を開催するので出席してほしいという連絡をご両親から受けました。

 

1ヶ月半か、2ヶ月ほど空けてからそのお別れ会は開催されました。繁華街からしばらく歩いて行ったその会場は普通の飲食店も入っている普通のビル。いわゆる葬儀会館などではなく、パーティーにも使われるような場所です。お別れ会というのですから、当然なのかもしれません。

 

スピーチがあり、思い出の音楽や、友人の生涯についての映像が流れ、まさにお別れ会という名前にふさわしい内容でした。

 

その後は友人と飲み屋に行き、ちょっとした後席に。

 

その時は、こういう別れもありなのかもしれない。

そう思っていました。

 

ただ、振り返ってみるとやはり何か足りないものがありました。

 

お別れ会に無かったもの

水面と右手(身体)

お別れ会には「身体」がないのです。遺体がない。

お別れ会を通しても、何か友人の死が漠然としたもので終わっているのです。

 

私は友人の最期を看取った訳ではありません。

最後に見たのは体調がだいぶ悪くなっていた時ではありますが、意識はあった。生きていた。

お別れ会では友人は亡くなり、埋葬も終わっていました。

 

死はご両親からのメールはただの情報です。そしてお別れ会ではその死を確認する、その情報の確からしさは得られました。

 

それでも友人が「もういない」というのは情報でしかなく、実感にはなりえません。そこに「死」という現前とした事実を身体レベルで感じることはできませんでした。

 

大学の恩師が亡くなった時の葬儀も遠くから焼香しただけでしたが、奥には棺がありました。ご遺体を間近で見ることはできなくとも、「もういない」ということを実感することはできたのです。

 

友人との別れは、未だにきちんと済んでいないような、そんな気がしています。

 

仏教式ないし宗教的な葬儀が必ずしも必要だとは思いませんが、遺体がそこにある。親しい人が故人となってもう帰ってこない。それを身体レベルで実感できるような場はやはり必要なのでしょう。

 

 

仏教僧侶という身として

最後に、ここまで書いて考えたことを少しだけ。

友人との死別から約10年。

今私は仏教僧侶という立場で葬儀の場で読経をしています。

棺に向かってお経を唱えています。

 

グリーフケアという言葉が流行り、ご遺族へのケアの重要性が繰り返し語られています。

私はそのケアが十分にできているとは思えません。ご遺族になんて声をかけたら良いんだろう。悩みはつきません。

 

それでも、棺に向かって懸命にお経を唱えるということは、もしかしたら周りにいるご家族や友人、親しい方々に対して「親しいあの人は逝ってしまった。故人となった」という事実を受け入れてもらえる、一つの契機になりうるのかもしれない。

 

そんなことを考えました。

 

 

もちろん自己正当化だと言われるかもしれません。

ご遺族に安らぎを与えられるような言葉をかけられるようでなくてはダメだ、という人もいるでしょう。

 

それでも、まずは今自分にできることをやっていく。

やるべきことをやっていく。

これが結果的にグリーフケアにつながっていくのでは、とも思っています。

 

 

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

感想・ご意見・ご批判などありましたらどうぞよろしくお願いします。

 

 

お坊さんって社会人なのだろうか

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最近こんなことがありました。

「社会人の結婚観」について調べているという女性に話しかけられ、「お兄さん社会人ですか?」と聞かれたのです。

ちなみにその時は私服でしたので、外見から坊さんということは分からないようでした。

聞かれた瞬間に色々なことが頭をよぎります。

「お坊さんって社会人?」

「給料はお寺からもらっているけど」

「でもいわゆる社会人的な働き方はしていないしな」

 

その結果出てきた言葉が

「なんとも言えないですね」

でした。

 社会人は収入がある人?

社会人であるというのはどういうことなのでしょうか。

 

weblio辞書にはこの様に出ていました。

「社会人」に明確な範囲、定義はないが、本業をどこに置いているかという点で区別されることが多い。

例えば、高校生がアルバイトをしている場合、その本分は「学生」であるため、収入は得ているが社会人とは呼ばない。

卒業してからもずっと職を得ず、保護者の庇護の下で生活している場合もやはり、社会人と呼ばないことが一般的である。

就職をしていたが退職をしたような、一時的な無職の場合は社会人として考えられる。

 

本業が何か、というのが大事なようですね。

収入を稼いでいれば社会人ということになるのでしょうか。

 

私は半ば家業としてお寺を継ぐ状態になっていて、給料はお寺からいただいています。

もちろん、一般のサラリーマンの方々よりは全然少ない額です。

そのため、収入・給料というよりは「小遣いを多めにもらっている」というような感覚なんですよね。

 

これで社会人と言えるのか。

上で引用した部分の一部が胸にグサッと刺さります。

卒業してからもずっと職を得ず、保護者の庇護の下で生活している場合もやはり、社会人と呼ばないことが一般的である。

 保護者の庇護下。

いや給料は親の収入からもらっているわけではなくて、お寺からいただいている状態なので、厳密に言えば違うのでしょうけれど、庇護下にあるという意識は正直拭えませんね・・・。

 

かといって無職という状態でもない。

どういう身の振りをすれば良いのでしょう。

 

みんな社会人?

weblioの辞書の定義には、もっと広い定義もあります。

「社会人=労働をしている人」という考え方はいささか強引で、例えば、近所の掃除をする、買い物などの日常的な消費活動を行う、PTA活動を行うなどといった行為も、社会を構成している1人ひとりの行動として考えることができる。

つまり、社会への関わりをもっているという点においては、やはり専業主婦も社会人に含まれるものとして考えるのが通例である。

なるほど。

社会に関わっていれば社会人ということになりますね。

これを直接当てはめれば、坊さんも社会人と言って良いことになりそうです。

社会の中で一個人として活動しているわけですから。

 

ただ、この定義にはいささか問題があるように思われます。

それは、子供も学生もみんな社会人になってしまうということです。

 

曖昧な社会人とそれ以外との線引き

いや、でもそれで良いのかもしれませんね。

そもそもどうして子供や学生と社会人を分けなくてはならないのでしょうか。

 

関わっている社会が学校から会社に変わるだけですよね。

個人事業主も増えている昨今では会社にすら属さない人も出てきます。

 

それに、収入の多い / 少ないもまた意味が無さそうです。

社会人として活動をしていても、一時休職して学問に励む人もいるでしょうし、高校生や大学生の内から企業をして収入を得る人もいます

インターネットを使って収入を得て、高校生で年収1000万という人も出てきそう、というよりもすでにいそうです。

逆にサラリーマンに疲れ、収入を限りなく減らしてゆったりと暮らしているという人もいます。 

この様な人は現代でどんどん増えてきていますし、これからもっと増えていくでしょう。

 収入の多い少ないというのは社会人かどうかの線引きとしては使えなくなってきているようです。

 

「会社人ですか?」という問いならまだしも、「社会人ですか?」という問いは意味をなさなくなっていきそうです。

 

結局、坊さんは社会人か

さて、「坊さんは社会人なのか」という問いから「社会人は意味をなさない」という話になってきました。

 

そうは言っても、素朴に「社会人」という言葉は使われますし、これからも 使われていくでしょう。

 

「社会人ですか?」

そう聞かれた時の答えは、まず社会人をどういう意味で使っているのかを聞いていかなくてはなりません。

答えはふた通りです。 

  • 「会社に属しているか」だったら、ノー。
  • 「社会に関わっているか」だったらもちろんイエス

 

 そして収入面だったら、それは社会人かどうかを示す基準として不適切なので回答不可能ということになります。 

 

でも、いちいち「社会人をどういう意味で言ってますか?」

と聞かれたらうっとおしいと思われるかもしれないですね。

 

ひとまず「会社には属していませんが、社会人です」という答えを使っていこうかな、と思います。

 

社会人あきしょーを、今後ともよろしくお願いします。

 

ブログの文章をレポートみたいに書いたら誰も読んでくれないと悟った

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文章はこうあらねばならない!
そんな風に思っていた私が最初に書いてきた文章の問題と、そこに欠けていた意識について書いていこうと思います。
特に大学でかっちりしたレポートや論文をたくさん書いてきたという人に読んでもらえれば嬉しいです。
 

ブログの文体が嫌いだった

ブログやnoteに文章を書くようになりしばらく経ちました。
正直ブログの文体が気に入らず、普通の紙媒体の本のような体裁でしばらく書き続けていました。
 
ここで私が言っている「ブログの文体」というのは
・「。」の度に改行する
・段落は作らない
・文字装飾が多い。
 
というものを指しています。
もちろんそのような形で書かれていないブログもたくさんありますが、ひとまず便宜的にこう言わせてください。
 
それに対して、「普通の紙媒体の本のような体裁」はこれと逆です。
・段落を意識して文章を構成する
・段落の中でも論理展開がある
・余計な繰り返しは行わず、無駄な表現は削る
 
 
私は大学院に入りレポートや論文の執筆などもあり、この段落を意識した、無駄のない文章こそが正しいと思い、ブログに使われているような文体は美しくないと思っていました。
 
一行ずつ改行するのは気持ちが悪かったですし、章や節が変わる訳でもないのに余白を作るということにも釈然としていませんでした。

 

足りなかったのは「読者目線」

こうした思いが変わるきっかけになった本があります。
それはDAIGOさんの『人を操る禁断の文章術』です。
見るからに胡散臭いタイトルですよね。
しばらく敬遠していたのですが、親しい友人もまた薦めてくれたこと、またkindleの読み放題サービスで読める本だったこともあり、実際に読んでみました。
 
この本で書かれていることで、私がしていた根本的な勘違いに気づくことになったのは、「読者目線で書く」ということでした。
 
「当たり前だろ」
 
そう言われてしまうかもしれません。
ただ、私にとってはこの「読者目線で書く」ことが全く当たり前ではなかったのです。
 
多くの人は自分が読ませたいことを考えて書こうとするばかりで、読み手のことについてあまり意識していません。
 
耳が痛い言葉でした。
誰が読む、ということはほとんど考えて来ていなかったのですから。
文章はこのように続きます。
それどころか、「書いたら読んでくれるもの」と考えている人も大勢います。
でも、現実はそんなに甘いものではありません
このように「書いたら読んでくれるもの」と思っていたら、まだマシだと思います。
私は「読みたい人間が読めば良い」ぐらい不遜な気持ちを抱いていました。
お恥ずかしいことです…。
 
読者のことを考えてみる。
今までやってこなかったことでしたが、初めて考えてみることにしました。

 

レポート・論文の読者

そもそも、私が書いていたレポートや論文の読者は誰だったのだろう。
これは採点する講師や教授陣です。
そもそもレポートや論文を読むこれらの人は、前提知識が違います
レポートに書かれていること、論文で言及されている先行研究などにもある程度の知識のある人たちなんですよね。
こうした人に向けて書くからこそ、レポートや論文の体裁は許されているとも言えます。
段落に分けたり、繰り返しや冗長な文を避けることでも、十分に読んでもらうことができます。
 
ただ、このレポートや論文の教育を熱心に受けすぎると、「文章はかくあらねばならない」という凝り固まった頭が出来上がります。
私のように。
 
 

ブログの読者

それに対して、このページを読んでくれる人はどんなひとなのだろうか。
「インターネットで情報収拾は行わず、もっぱら本だけ読みます」という人は来ないでしょう。
ここに来てくれる人はむしろ、普段からブログやウェブニュースなどに触れることが多い人でしょうし、パソコンではなくスマホを使う人も少なくないはずです。
文章にあまり親しんでこなかった人、また年齢が若い人、そうした色々な人が私の書いたブログを見に来てくれています。
 

ウェブの文章はスクロールしてなんぼ

ウェブの文章は特にスクロール感が大事ですよね。
一定速度でスクロールしていく感覚がないと文章がつまらなく、窮屈なものに感じられます。
改行を重ねることでそうした窮屈さを防ぐことができます。
文字に修飾をつけるのも間に余白を作るのも、ページ全体にメリハリを持たせるという意味では大事な役割をしているようです。
 
これはもちろん文章読解能力の問題ではなく、ウェブという媒体の特質だと思います。
 
こうした人や媒体の特徴を無視して、堅い文章を作ったところで、誰にも喜ばれません。
エゴの発露でしかないですよね。
 
 

 おわりに

レポートや論文のような堅い文章も、もちろん教育の現場では大事ですが、ウェブにはウェブに適した文体があります。

私はとにかく「読みづらい」と言われてしまうのですが、この文章はどうだったでしょうか。

内容の充実はもちろんですが、「読みやすいよね」と言ってもらえるような文章をこれからも目指していきたいと思います。

 

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

坐禅(座禅)を毎日習慣にしたい人は5分から始めよう

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坐禅・瞑想・マインドフルネスを毎日家でやりたい。

けれど、なかなか続かない。

そういう人は多いのではないでしょうか。

 

伝統的な禅の修行を経て、日常の中で長い時間の坐禅をすることに困難を感じていた私が、坐禅を日々継続させていくために「ハードルを下げる」ことの必要性をお伝えしていきます。

 

30分坐禅の時間を作るのはしんどい。

私は坐禅をしているのですが、伝統的な修行の中では1回の時間は比較的長く設定されています。

坐禅の標準的な時間は曹洞宗では40分、また臨済宗では25分ほどになりますが、30分前後の時間を一日に盛り込むのは結構大変ですよね。

 

坐禅会でこうした長い坐禅を経験して、よし家でも毎日やろう!と決意したとしても、なかなか続きません。

何日間は朝早い時間に起きて、30分ほどの時間をとることができても、それは長続きしづらいです。

真面目な人であればあるほど、「ああ、今日も30分やれなかった。自分はダメな人間だ」と思ってしまうでしょう。

 

私は真面目、というよりも執われが強い人間でして、結構自分のことを責めてしまっていました。

私が修行していた道場での坐禅は1回40分が基本だったのですが、「40分やらなければ坐禅ではない」という思い込みがあったのですね。

それに加えて変なプライドもあり、これより短い時間で坐禅をすることに抵抗感がありました。

 

確かに、時間に余裕があるのなら毎日40分坐禅をしても良いですが、普通の人はそうはいきません。

家庭の生活もあり、またお仕事もあるでしょう。

 

長い時間坐禅できないことを責めてしまう

私は修行から帰ってきてすぐに大学院に通い、それが終わってからはサラリーマンのように出勤する日々を送っていたので、毎朝40分の時間を作ることがなかなかできていませんでした。

 

朝に40分坐禅をしよう!と思っていても、朝起きたらもうどう頑張っても40分捻出できない時間になっている…

そんな日は、朝一からその日が台無しになってしまうような感じがありました。

不健康ですよね(笑

 

坐禅は心の安らぎにつながるはずのものなのに、かえって坐禅に苦しめられていた日々でした。

意志薄弱と言われてしまうとそれまでなのですが、どうなのでしょう。

一度決めてずーっと続けられる人はなかなかいないと思います。

 

もちろん、なかにはそうした人もいます。私がお世話になっている方も、20代の終わりから毎朝欠かさずに40分の坐禅に励んでおられ、本当に頭が下がるばかりです。

 

ただ、やはり私のような凡人にとって、毎朝40分の坐禅は厳しいです。

一回はできても、それを継続するのにとても困難に感じられました。

 

40分の坐禅ができない→自分をダメな人間だと思う

坐禅に前向きにならない→坐禅自体しなくなる

 

そんなネガティブスパイラルに陥ってしまったのです。

 

『小さな習慣』との出会い

そうした中で出会った一冊の本が『小さな習慣』でした。

 

この本で書かれていることは「何かを習慣づけたいのなら、そのハードルを下げられるところまで下げなさい」ということでした。

 

この本の著者は腕立て伏せを例に挙げていたかと思いますが、習慣化するには「毎日20回やろう」ではハードルが高すぎるので、「毎日1回やろう」という形で設定していくということが言われていました。

 

1回では何にもならないだろうと思われるかもしれませんが、もちろん1回しかしてはいけない、ということではありません。

1回腕立て伏せをしたら、その後に何回して自由。

ただ、それに伴って仮に毎日、結果的に20回やれるようになっても、そのハードルを上げてはいけないということが言われています。

 

坐禅もハードルを下げよう

この内容を読んだ時、坐禅を習慣的に、毎日やることから遠ざけているのは自分自身のハードルだったことに気づかされました。

毎日40分やることがあまりにもハードルが高く、継続できず、自己肯定感も下がっていく。

 

ここから抜け出すために、私も坐禅の時間のハードルをぐっと下げることにしました。

 

毎日5分坐禅をすれば良い。

それが私の出したやり方でした。

 

毎日たったの5分ですが、続けられます。

朝やれなくても、寝る前にやれれば良いのです。

なる直前に「今から40分」というのは厳しいですが、5分なら簡単にできます。

どんなに忙しくても。

朝寝坊したとしても、5分ぐらいなら何とかなっています。

 

そして、5分経ってから「もう少し坐禅していたいな」と思ったら、そのまま続けていれば良い。

もちろん仕事なり予定がある場合はアラームの設定ぐらいはした方が良いかもしれませんが(笑

 

ただ、5分の坐禅をするにはタイマーでは都合が悪いです。

1分以上なり続けますからね…。

私は「雲堂classic」というアプリを使っています。

雲堂 classic

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これはiPhone版しかないのですが、普通の「雲堂」はandroidでも使用可能です。

機能的にはほぼ変わりません。

雲堂

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鐘の音も選べて、坐禅にはピッタリです。

終わりの合図は鐘の音が1回鳴るだけなので、もう少し坐禅を続けたい場合は、そのまま坐っていきましょう!

 

ハードルを下げると、逆に日々が充実してくる

このおかげで毎日の坐禅が厳しいものから、充実感を持って取り組めるものになりました。

 

余裕のない日は5分で切り上げてしまいますし、場合によっては40分、1時間と続ける場合もあります。

これの良いところは、少しでも長くやればそれはプラスαになっていくということです。

「決められた時間以下しかできなかった」というよりは「設定している時間よりもこれぐらい長くやった」という方が長続きしそうですよね。

 

もちろん長くやることに執われてしまうと、最初の「40分問題」がぶり返してしまうので良くありません。

いつでも大事にするのは坐禅を5分なり10分なりを継続してやっていくことです。

 

「30分!40分!」そんな風に 追い立てるような坐禅から、「とりあえず5分坐ろうか」という、ゆったりとした心持ちの坐禅に。

 

これぐらいやらなきゃ!と自分を追い立てる日々よりも、ハードルをぐんと下げて「最低限これだけやっていこう」と頑張る方が、よほど毎日が生き生きしてきているのを実感しています。

 

 おわりに

坐禅を習慣にしたい!

そう思っている方、瞑想やマインドフルネスも同じかと思いますが、ぜひ一度ハードルを下げて取り組んでみてはいかがでしょうか。

日々の充実感が変わってくるはずです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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幸せの鍵は「死を想う」ことかもしれない。

 死を想ってパフォーマンス向上

死ぬ気でやれ!

という精神論はもはや廃れつつありますが、「死を想う」ことがパフォーマンスを上げるという研究結果が出たようです。

wired.jp

 

バスケットボールの試合前に、「いずれは誰もが死を迎えること」をほのめかされた選手は、そうでない選手よりもシュートの成功率が高く、より多くの得点を稼いだ

 

具体的にとった手法はというと、2回試合が行われ、1回目の試合の後に選手の半分は試合の感想についてのアンケートに答え、もう半分の選手は自分の死についてのアンケートに答えたそうです(もう一つの実験もあるのですが、そちらは記事を読んでみてください)。

 

死について考えるだけでパフォーマンスが上がるというのはすごいですよね!

 

もっとも、この記事の最後で「死を考えさせるテクニック (?)」が一層研究されるというのはちょっとやりすぎではないかな…と思わざるを得ませんでしたが。

 

研究者たちは、スポーツのコーチのなかにはこのような方法で選手のやる気を喚起している者がすでにいるかもしれないと語り、さらなる研究によって、人々が抱く「死に対する恐怖」を活用する新たな方法が開拓されるかもしれないと示唆している。そして、そうした手法はスポーツに限らず、仕事などにも応用できる可能性があるとも述べている 

 

「死に対する恐怖を活用する」というのは、下手をしたら人権問題などにも発展しかねないものです。 健全な手法においてなされるのなら良いですが、戦時中の国のようになってはならないでしょう。

 

 

死を想うことは恐怖だけを高めるか

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死を考えることによって死に対する恐怖が増す。それがパフォーマンス向上の理由であると言われています。死を考えることによって恐怖に対処する必要性が高まるということは今までの研究でも分かっていることのようですね。

 

 

ただ、自分の死について考えることが単に恐怖につながるということに関しては疑問が残ります。

確かに、自分が死ぬことに全く恐怖を感じないといったら嘘になります。

死の先がずーっと虚無の世界になるのか、感じる私すら消えるのか、死後世界で罰が待っているのかなど、妄想し始めると止まらなくなる経験は多くの人が経験していることです。

 

しかし、死について考えることは、自分の人生がいつか終わってしまうということだけではなくて、今のこの瞬間の貴重さというものに対するフォーカスにもつながるのだと思います。

 

何気なく行っている日々のトレーニング、親しい人との会話、自分の仕事や勉強への取り組みは、それがずっと続いていくような感じを持ってしまいますよね。

 

今日はちょっと手を抜いても良いかな

これぐらいにして、あとは明日か明後日らへんに片付ければいいや

 

そんな風に今日をないがしろにしてしまいます。

 

 

もし、自分が遠くない未来、もしかしたら来週、いや数日後、明日に自分の命が消えてしまうとしたらどうなるでしょうか。

 

この一瞬一瞬が今までに無いぐらい大事なものに思えてくるはずです。

 

こうした一瞬一瞬にフォーカスしていくことを、一回性と呼ぶのでしょう。

気にしなければなんとなく過ごしてしまう、なんとなくこなしてしまうようなことに対し、緊張感と高い集中をもって臨んでいくこと。これが一回性です。

 

 

「 死を想う」ことと禅

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死を想って生きるということは、禅の世界でも繰り返し説かれていることです。

それは「無常」という言葉によっても表されていますし、また「頭燃(ずねん)を救う」という表現もされます。

 

無常というのは日本人であれば馴染み深い言葉でしょう。

平家物語』の冒頭には「諸行無常の響きあり」という一節が登場してきます。

物事は常に移り変わる。

栄華を極めた人もいずれは没落し、どんなに肉体美を誇ろうとも、その人もやがては死を迎えます。

 

「頭燃を救う」という言葉は、あまり聞き覚えがない言葉かもしれません。

頭燃というのは文字通り、頭に燃えさかる火のことです。

物事の期限が迫って追いまくられることを「尻に火がつく」という表現をするのですが、ここでは「頭に火がつく」状態になります。

 

・・・尻よりも頭に火がつく方が恐ろしい感じがしますね。

 

これらの言葉には「ぼーっとしていたらすぐに死を迎えてしまうほど、時間が過ぎ去るのは早いのだ」という戒めの意味が込められています。

 

ぼーっとしていたらすぐに死んでしまう。

 

もっとも、ぼーっとしていようがぼーっとしていなかろうが、いずれ人間は死んでしまいます。養老孟司先生の言葉で言えば、「人間の死亡率は100%」なのですから。

 

ただ、この死が刻々と迫ってきているという感覚は、今の自分を奮い立たせてくれるものになります。

 

今の自分が呆けていて良いのか。

無駄なことをしていないか。

 

どんなに頑張っても死を避けることはもちろんできません。

それでも、命は限りあるものであるという自覚が、命を精一杯生きていこうという意思につながっていくのです。

 

「死を想う 」ことと人間関係

「死を想う」のはこれは自分自身との向き合い方だけではなく、他者との向き合い方にも関わってきます。

 

小川洋子さんは河合隼雄さんとの対談本『生きるとは、自分の物語をつくること』の中で次のように語っています。

 

「あなたも死ぬ、私も死ぬ、ということを日々共有していられれば、お互いが尊重しあえる」

 

些細なことで互いを責め立て、どちらが正しい、正しくないという言い争いをついしてしまいます。互いに死ぬ存在である。それを想うだけで、ほんの少しで相手に優しくなれます。

 

 多くの場合は、大切な人を失ってから、ようやくその価値に気づくことができます。いや、失わなければその価値に気づくことができないと言った方が正確かもしれません。

 

「死を想う」ことで、失った時の感情そのものを得ることはたしかに難しいかもしれませんが、それでも限りなく実体験に近い形で想像していくことはできます。

 

それを繰り返していくことで、反射的な、感情的な反応ではなく、穏やかで、建設的な関係を築いていくことができるのではないでしょうか。

 

  

「死を想う」ことはその響きとは逆に、私を丁寧に生き、周りとの関係も豊かにしてくれる処方箋なのかもしれません。

体調不良は生命の進化のせいかもしれない。

誰にでも訪れる「体調不良」

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体調が悪い時、色々な要因がありますよね。

 

自己責任的に言えば不摂生、飲み過ぎ、食べ過ぎ、食べなさすぎ。

それに運動不足や睡眠不足などといったことがよく挙げられます。

環境的なものとしては、気圧だったり、季節の移り変わりが代表的なものでしょう。

特に気圧はよく槍玉に挙げられ、何かと気圧のせいにすることは日常で多いように思われます。

ついつい自分の生活習慣のせいで体調不良になったと自分を責めてしまいがちになりますが、環境の影響もまた、とても大きなものだと思います。

 

『生命とリズム』という本を読んだのですが、体調不良の原因はこういった自分の生活習慣や環境だけが原因ではないのではないか、と考えさせられました。

 

自分でも、環境でもない原因とは何か。

 

それは「生命の進化」です。

 

25時間周期で生きている人間。

この本で紹介されている、ある実験があります。

それは昼も夜もわからない状態で被験者に過ごしてもらうというものです。

 

こうした昼夜が不明な状況に置かれると、人間は約25時間周期での生活スタイルになるようなのです。

地球の自転周期、つまり地球から見る太陽の周期とも約1時間ズレていくことになりますね。

これは月の公転周期(?)に当たるのですが、もちろん地球の生命が月由来というわけではありません。

  

(ちなみに月人類起源説が好きな方は、J.P.ホーガンの『星を継ぐもの』がオススメです)

25時間というのは月の公転周期であることは間違いないのですが、これは地球の潮の満ち引きの周期とも関連している数字になっているようです。

 

生命の誕生と進化〜海から陸へ〜

地球は約46億年の歴史を持っていますが、生命が誕生したのは38億年前、そして陸上に動物が暮らし始めたのは約5億年ほど前だと言われています。

つまり、33億年ほどは海で生活をしており、それに比べると現在陸上で生活している生物も、陸上での歴史は5億年で、海での生活よりよりもはるかに短いことになるんですね。

 

5億年もあれば十分に陸上だけの生物になるのかと思うのですが、生命に刻まれたDNAを打ち消すには足りていないようです。

 

人間の赤ちゃんの最初は魚?

著者である三木さんは、人間の生命が海での記憶を残していることの根拠として、胎児の成長段階に注目しています。

三木成夫『生命とリズム』p49胎児の図

(出典: 三木茂夫『生命とリズム』p49)

これは27日目の胎児の様子なのですが、どことなく稚魚のような感じもします。

本文中では「エラがまるで魚のようにはっきり見えています」(p48)と語られているのですが、頭側にあるヒダのようなものがエラなのでしょうか・・・?

 

 

何にせよ、私たちは海での生活の記憶を、DNAレベルで持っているということなのでしょう。

潮の満ち引きに合わせた生活をしていたのが、陸上で太陽に合わせた生活様式に変わった。

それから何億年も経っていても、遺伝子にはまだ海の記憶が残っているようです。

 

胎児の姿は次々と形を変え、爬虫類的な相貌だったり、哺乳類の姿、そして人型へと、一つの個体の中で進化の軌跡を描いていきます。

 

こうした胎児の語りかけからもうかがわれるように、私たちのからだは、常に過去を引きずって今日に至っている。言いかえれば、からだの中には顔のおもかげが、一種の年輪構造として深く刻み込まれているのである(p188)

 

では、普通の生物はどうやってこの帳尻を合わせているのでしょうか。

 

三木さんはこの問題について、夜型人間についてしか語っていません。

 

夜型人間のすべきことは〜(中略)〜体内で働き続ける“遅れがち”の時計の針を、朝夕きちんと合わせることによって、虚弱な「昼夜リズム」を常に鍛え上げることでは無いかと思う(p189)

 

要するに、太陽の動きに従って生きられるように、頑張れ。ということになりそうです。

実際、それができれば苦労はしないですよね。

 

体調不良は必ずしも「自分」のせいじゃない

どこかで人間は25時間周期の要素を持っていて、でも実際に太陽の下で生きていくと、その周期が24時間だったら、どこかで体に不調が起きても仕方のないことだと思います。

健康な生活を送っている人でも、1年の内に体調が悪いと感じる日は1日や2日では済まないはずです。

太陽の下で暮らすということそのものが、生命として少しムリをしている状態なのではないでしょうか。

 

現代では自己管理がもてはやされ、栄養ドリンクで辛い日も乗り切るという考えが 蔓延していますが、もっと広い目で体調不良を見ても良いと思います。

もちろん、女性であれば生理に伴う不調がありますし、最近では気圧に伴う不調も多少は認められることもあるようです。

ただ、それ以外にも生きている上で自然発生的に起こる体調不良というものもあるはずです。

それは自分の体調管理だけで済む問題ではありません

 

責任感の強い人であれば、健康の問題を自分の行動を責めてしまうこともあるかもしれませんが、きっと私たちの体は、コントロールしきれない部分というのが少なくないのです。

無力な感じになってしまうかもしれませんが、これはある意味では救いになります。

体調不良になるのは自分のせいだけではないのですから。

 

 

地球と月との関係に従って生きてきた海の生命体としての時間と、地球と太陽との関係に育まれてた陸の生物としての時間、そこに横たわる、連綿として続いてきた生命の歴史の中に私たち人間というのは存在しています。

 

「長い目」で自分を観てみる 

ちょっとした体調不良は、仕方がありません。

「今はちょっと海のリズムと陸のリズムが不調になっているのかな」

そう思うだけでちょっと気が楽になる気がしませんか?

 

 

単に親から生まれて自我意識を持ってからが「私」ではなく、長い長い生命の歴史と「今」の結節点にある、そんな長い目で(ちょっと意味はちがうけど)自分を見ることができたら、人生そのものの見え方も変わってくる気がします。

 

・・・なんだかちょっとスピリチュアルな内容になってしまったかもしれませんね。

 

ただ、別に普段の健康管理をないがしろにして良い、というつもりは無いのです。

適度な運動、十分な睡眠時間の確保、暴飲暴食をしない、消化に良いものを食べるといったことは心がけるべきだと思います。

 

それでも体調を崩す時はあります。

「そんな日もあるさ。人間は海と陸の二つのリズムに挟まれて生きているんだから」

もし体調の悪い人がいたら、こう言ってあげたいものです。

 

その人からは「この人、頭大丈夫かな」と思われるかもしれませんが。