『有限性の後で(メイヤスー)』要旨・要約、感想とレビュー|事物それ自体の存在へ

『有限性の後で(メイヤスー)』要旨・要約、感想とレビュー|事物それ自体の存在へ

『有限性の後で』の基本情報

書籍名:有限性の後で——偶然性の必然性についての試論
著者名:カンタン=メイヤスー
翻訳者名:千葉雅也・大橋完太郎・星野太
発行:人文書院
発行年:2016年

『有限性の後で』のキーワード

カテゴリ:哲学、存在論
キーワード:相関主義、祖先以前、偶然性の必然性、世界の安定性

『有限性の後で』のレビュー:<私>なき存在はありうるか

この記事を書いている私の目の前にはパソコンがあり、本があり、メモ帳がある。仮に今私がこの世界から消え去ったとしても、この場にパソコン・本・メモ帳はあり続ける

たったこれだけの事実を、カント以来の哲学は説明できないでいた。というのも、あらゆる存在は常に「<私>にとっての存在」であると考えられてきたからである。

デカルトがその存在の真実性を明らかにした<私>に依拠することで、その他の存在は存在として認められる。これが、近代哲学の基本的な世界理解だった。

しかしどうウンチクを並べても、人間が生じる以前に世界は存在したはずである。であれば、人間が存在する以前の世界——<私>の存在しない世界——はどのようにして存在証明されるのか?

この問いに果敢に挑んだのが、パリ第一大学で教鞭をとっているカンタン=メイヤスーである。<私>とは関係ない、事物それ自体の存在__口で言うのは簡単なのに、思考するのは難しい目の前の事物たちの存在を、メイヤスーとともに分析していくことにしよう。

『有限性の後で』の要旨・要約

『有限性の後で』の要旨・要約①:相関主義の限界

本書『有限性の後で』は、カント以降の「相関主義」的な哲学——主体との関係から分離された対象それ自体(物自体)を知ることはできないとする考え方——を乗り越える挑戦の記録である。

長い間相関主義は哲学の前提として受け入れられてきたが、相関主義的思想は自然科学における「祖先以前的」命題(例:「地球は46億年前に誕生した」)を言葉の意味通りに受け取ることができないという限界を抱えている。

「地球は46億年前に誕生した」という命題は、人間の知性とは無関係に成立しているはずなのに(人間以前に地球は存在した)、相関主義的思考からすれば、この命題は「(私たちから見て)地球は46億年前に誕生した」という不自然に縮減された意味しか持ちえない。

したがって、「地球は46億年前に誕生した」のような祖先以前的命題を字義通り理解するためには、私たちは相関主義を乗り越えなければならないのである。

『有限性の後で』の要旨・要約②:弱い相関主義と強い相関主義

相関主義は「弱い相関主義」「強い相関主義」に分けられる。「弱い相関主義」は、物自体(私たちの認識の外部にある対象それ自体)は思考可能であると考えルのに対して、「強い相関主義」は物自体の思考可能性を否定する。

弱い相関主義の立場はすぐに棄却される。物自体は私たちの認識の外側にある以上、それはいかなる点でも思考不可能でなければならないからである。

強い相関主義はこの問題を克服しているが、物自体を思考不可能であると認めることで、逆に物自体についてのあらゆる言明を「否定できない」ものとして全て等価に認めることになってしまう。

強い相関主義は、世界の全てを相関によって汲み取る。ゆえに、「私にとって、物自体は……である」という形をとった任意の言明を肯定してしまう。

しかしこのような無限の言明可能性は、絶対的であるはずの物自体には不適切である。したがって、強い相関主義も、弱い相関主義と同様に棄却されなければならない。

『有限性の後で』の要旨・要約③:偶然性のみが必然である世界

私たちは今、物自体を思考可能性に還元することなく、かといって物自体についてのあらゆる言明を認めるでもない、新たな立場を創設する必要がある。

その新しい立場とは、物自体に関する認識可能な必然性を棄却し、「世界がただそこにある」という事実のみを認める立場である。

ライプニッツは、「世界がこのようであるのは必然である(確固たる理由がある)」と考えたが、弱い相関主義が否定される以上、もはやその立場は通らない。

世界がこのようであることには何の理由もない。つまり、世界は次の瞬間全く違う姿へ変化する可能性を残している

このような必然性を欠いた世界において、唯一の絶対性は偶然性だけである。ただ偶然性だけが、この世界の必然となる。

『有限性の後で』の要旨・要約④:なぜ世界は安定しているのか

偶然性だけが必然である以上、世界は次の瞬間全く別の姿へ変容する可能性を有している

にもかかわらず、世界は一見して安定している。物理法則が次の瞬間急に無効になることは(おそらく)ないと、私たちは経験的に信じている。

旧来の相関主義では、この世界の安定性から、世界に内在する普遍性・必然性を帰納的に推論していたが、相関主義から離れた私たちは彼らの理屈を否定せねばならない。

では、世界の安定性から世界の因果的必然性を認める立場は、一体どこに問題を含んでいるのだろうか。

世界の因果的必然性に関する相関主義の主張は以下の通りである。

「仮に世界に必然性がなく、世界が常に別様に変化する余地があるなら、世界が長い時間安定しているという事態はあり得ないほどの低確率でしか生じないはずである。しかし、世界は今も安定している。だとすれば、世界には必然性が必要になる」

この理屈の前提になっているのは、「世界の変化の場合の数」の上限がすでに決まっているということである。

n個ある世界変化のバリエーションの中で、ある特定の1つが常に選択されている。時間が経つにつれて、その特定の1つのバリエーションが選択される確率は限りなく0に近づくはずなのに、それでもそのバリエーションのみが選択されている。

したがって、この変化は単にランダムに起こっているのではなく、ある特定のシステム(必然性)に従って選ばれている__これが相関主義の理屈である。

しかし、実際には「世界の変化の場合の数」の上限はない(この理由については「感想」を参照のこと)。ゆえに、世界の変化可能性から特定の1つが選ばれる可能性を確率として求めることはできない。

以上から、相関主義の主張は前提が破綻していると結論づけられ、「偶然性の必然性」と「世界の安定性」は論理的に共存しうることになる。

『有限性の後で』への感想:世界の変化可能性を無限にするために

メイヤスーは世界に必然性がない場合の変化の可能性に上限がないことを認めているが、その理由を示してはいない。

そこで、ここではメイヤスーが半ば自明のように認めている「世界の変化の可能性の無限性」を証明しようと思う。

私の考える証明は非常にシンプルである。

世界の変化の可能性に上限があるとする。この世界に必然性はないので、上限は1つの値に定まってはならない。上限は定数であるのに、この上限は不定数として規定されてしまう。これは明確に矛盾である。よって背理法により、世界の変化の可能性には上限がない。

そもそも「上限」を考えた時点で、メイヤスーが否定する「必然性」の論理に巻き込まれることになり、そこで矛盾が発生してしまうのである。メイヤスーがこの議論を明確に述べていないのは、あまりにもシンプルな理屈だからなのではないかと推察される。

ところで、皆さんの中には「無限にある可能性はどのように表現できるのか?」と疑問に思った方がいるかもしれない。

この疑問に対して、メイヤスーは数学者カントールの無限集合論(冪集合)を使って答えている。

カントールの無限集合とは以下のような集合のことである。

まず集合Aをn個の要素からなる集合と定義する。

A = {1, 2, 3, ……, n}

次に、Aの要素から任意の部分集合(組み合わせ)を作る。例えば、{1}, {2}, {1,3,5}, {1, 2, 3,……, n-1}などが挙げられる。

Aの要素から作ることができる部分集合を全て要素として含む集合を、集合Bとして定義する。

B = { {1},{2},…….{n}, {1,2},{1,3},………, {1,2,3,……., n}}

集合Bの要素の数は、集合Aの要素の数より多い。従って、集合Aから集合Bを作る操作を延々と繰り返すと、無限の要素を持つ集合を規定できる

これらの各要素を、世界の変化の可能性として捉えれば、集合Aから集合Bを作る操作を無限回繰り返して得られた集合の要素が、この世界の変化の可能性であると表現できる。

ただし、メイヤスーの説明は「カントールの無限集合論を使うと、世界の変化の可能性をうまく捉えられる」というレベルに留まっており、「世界の変化の可能性を記述するためには、カントールの無限集合論を使わねばならない」という説明はされていない

メイヤスー解釈における次なる課題は、カントールの「集合」とメイヤスーの「世界」との間の結びつきの問題になるだろう。

『有限性の後で』と関連の深い書籍

  • ガブリエル著:清水一浩訳『なぜ世界は存在しないのか』、講談社、2018年。
  • ガブリエル・ジジェク著:大河内泰樹他5人訳『神話・狂気・哄笑——ドイツ観念論における主体性』、堀之内出版、2015年。
  • 千葉雅也著『思弁的実在論と現代について——千葉雅也対談集』、青土社、2018年。
  • ハーマン著:上野俊哉訳『非唯物論——オブジェクトと社会理論』、河出書房新社、2018年。
  • ハーマン著:岡嶋隆佑他4人訳『四方対象——オブジェクト指向存在論入門』、人文書院、2017年。
  • ハーマン著:上尾真道・森玄斎訳『思弁的実在論入門』、人文書院、2020年。
  • バディウ著:近藤和敬・松井久訳『推移的存在論』、水声社、2018年。
  • メイヤスー著:千葉雅也ほか4人訳『亡霊のジレンマ——思弁的唯物論の展開』、青土社、2018年。

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