ふーやんのマレーシア移住日記

インドネシア駐在を中心に30年以上アジア業務に携わってきました。昨年よりマレーシアに移住しています。

インドネシア、知己の日本人大先輩の訃報に接する

にほんブログ村 海外生活ブログ マレーシア情報へ
にほんブログ村    👆ランキング応援ポチット宜しくお願いします。       人事のオンラインサロン【人事倶楽部】

ひとりの日本人としての生き様に尊敬の念に堪えません

 

昨日、夕方に偉大な先輩の訃報に接しました。バンドン日本人会会長を長く勤められました方です。。

日本では、広島で男性用ズボンの製造メーカーを経営されておりましたが、日本の厳しい繊維不況の時代に海外移転を計画、商社ルートによりインドネシアのバンドンに製造工場を設立されました。

バンドンは、インドネシアの中で、繊維産業が盛んで、移転先としての基盤があったのです。

1980年代、バンドンには、日本の大手繊維メーカーは、何社か進出しておりましたが、中堅中小企業の進出は、多分これが最初のケースだったでしょう。

最初は、地元ローカル系の繊維会社と合弁事業としてスタートされましたが、苦難の時代を経て、数年で独立を果たし、日本への輸出で成功されました。

その後、日本の兄弟の方が経営されていた本社は破産、生き残りをかけてバンドンの会社の経営改革を進め、自動車のシート縫製業へ進出して経営を確立されました。

 

インドネシア人の奥様と子供たちに恵まれ、完全にインドネシアに根を下ろし、インドネシアの土になることを、以前から誓っておられました。

また、根っからの広島の方で、誰と話をするときも広島弁丸出しでお話されていました。ローカルの人としゃべるときも広島弁なまりのインドネシア語で、とてもユーモラスだったことを覚えています。

また、人情味あふれる、面倒見のよい方でしたので、地元の日本人だけでなく、日本人とインドネシア人の橋渡し役として、多くの人から慕われておられました。

そのため、バンドン日本人会会長、バンドン日本人学校理事長の職を20年以上にわたって務められました。

普通、日本人会会長というと、クアラルンプールやジャカルタのように大手の商社や銀行の駐在者のトップが数年単位でつとめることが多いのですが、バンドンは、日本の繊維関連の中堅中小企業が中心ですので、まさに、この方のような地元にしっかりと根をおろした人がうってつけだった訳です。

 

私のように、20年以上インドネシアでの業務経験があっても、あくまでも、宮仕えでありサラリーマンにすぎませんので、仕事がなくなれば、インドネシアに居続けることはできません。

それに比べ、自分のお金で投資をし、事業を成功させたということは、何と素晴らしいことででしょうか、尊敬の念に堪えません。

華人や韓国人に比べ、日本人の場合、本当に自己リスクにより、海外で事業を成功させるケースは本当に少ないのです。私の知っている範囲では、数えるぐらいのケースしかありません。

私より一世代先輩の訃報に接し、これまでのその生き様に対し、心から畏怖の念を表し、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

インドネシア、バンドンの地で、安らかに、お眠りください。

 

ぽちっとランキング支援お願いします☞>にほんブログ村 海外生活ブログ インドネシア情報へ
にほんブログ村