まさか日本でカルチャーショックを!

日本で技術者→中国広東省にて日本語教師→日本で技術者復帰→技術者+?
旧題名:まさか私が日本語教師に!(NO.3)

何が私を動かすのか

2020-09-22 18:44:33 | 行動計画 & 積極的思考
三連休の最終日。
母親の息抜きとして、無理やり「行きたい所はないか?」と訊いたところ、
野菜が豊富に売っているところということで、隣の市のいくつかの施設を回った。

世間は四連休の最終日であったせいか、人はそれほど多くなかった。
ただ、7月の雨降り三昧と8月の猛暑、新型コロナウイルスの影響のせいか、昨年に比べて野菜は少なかった。
期待外れとなってしまったのだが、それでも少々の野菜と安い花を買うことができた。

母親は「大変ではなかった」というか、この数年の父親の世話で大変であったに違いない。
特に昨年は。

私が帰国して数か月後に車を手に入れてからの1年ぐらいは父親もそれまでよりは歩けるようになった。
しかし、段々と車に乗るのも大変になったため、あまり遠くには行けなかった。
歩かせようにもお互いに大変であった。
後に介護認定を受けてからはあまり外に連れ出していない。
これこそリアルにお互いが大変であったので。

昨年の初夏の父親の入院の世話。
車の運転ができない母親は通うにも大変であったに違いない。
(幸い昨年は妹のひとりが時間を作ってあれこれ動いてくれたのだが、その妹も家庭があるわけであり、その調整も本当に大変であったことは間違いない。)
秋からまた入院したことにより、今年の正月は何年かぶりに親族での初詣に行くことができた。
おそらくこれが数年ぶりの娑婆の空気であったはず。

上手く記せないのだが、そんな母親は心豊かに暮らしていただきたい。
そして父親にできなかった親孝行の何割かを母親に返すことで父親の供養にもしたい。

そういう次第で、 (はたから見たらいい年をしたマザコン的に)母親を大切にしている。

そんな母親を車に乗せて通った道は自分にとっても思い出の道。
私が社会人となって1年目に自分の名前で仕事をしたのは隣の市であった。
また、最初の会社での仕事の4割は隣の市と関係があったと言っても過言ではない。

様々な思い出が蘇った。
それも今まで以上に。

現在親を養えるのは当時の仕事が下地となっている。
言い方は良くないと思うのだが、田舎での小さな仕事。
実際は当時もかなりのことをしていた。
しかし、今の自分からしたら、本当に小さな仕事であったと思える。

ただ、そこでみっちり基礎を身に着けたからこそ、今があるわけである。

そのように考えたら、このまま今の仕事を続けていくほうが、世の中のためになるのかもしれない。
自分でもそう思う。

「今の仕事の何がいけないのであろうか?」と質問されたら、私の答えの出だしは若干言いよどむかもしれない。

帰国後ずっと父親の体調を考えて、仕事を選んできた。
今は母親さえ養うことができるのであれば、何でも可能である。
ただ、あまり遠くの職場には異動できないし、あまり遅くまで残業ができないだけのこと。

そのように考えると、現在の仕事で勝負をすべきなのであろう。
生活もできるし、自分の将来の保証も多少は増える。

それなのに私が将来日本語教師に戻ることを踏まえて、新たな挑戦をするのは何故なのか。
私は馬鹿ではないのか。

一歩踏み出した今もそう感じる。

ただ・・・。
19歳で初めて自分の名前を出して行った仕事。
(今ではとても無理な話。)
よく聴いていたのが、マドンナの“La Isla Bonita”であった。
翌年シングルカットされて、大ヒットしたこの歌。
おそらくこれが違う私を操る原動力であるような気がする。

20歳のとき、私は日系南米人子弟の母語と日本語の問題を知り、かなりの憂いとなった。
これこそが教育、特に日本語の世界に興味を持つ下地となっている。

人の本来の生き方。
それをマドンナの歌で感じた私。
仕事の内容の一部に彼女が歌う内容とマッチした部分があったので。

ただ私はラテンの世界よりも、中華のほうが生まれついてのセンスや感覚を持っていた。

直接目に見え、直接聴こえるものが正解だということもない。
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