大地図帳(ヨアン・ブラウ)

               

インターネットの普及により利用する機会は減っているかもしれませんが、地図帳といえば目的地への道や周辺の地理を調べるための実用的なものという認識を持っている方がほとんどかと思います。

しかしかつて地図帳には、実用的な機能は求められておらず、むしろ装飾やステータスとしての意味合いを持っていた時代がありました。

今回はそんな時代の地図帳の極致とも言える、ヨアン・ブラウによる『大地図帳』を紹介します。
この記事を通して、製作の背景や600近くに登るという地図の内容(紹介できるのはごくごく一部に過ぎませんが…)、その製作意図などを見ていきましょう。

 

地図帳の概要

大地図帳の世界地図

名称(日本語)大地図帳
名称(英語)Atlas Maior
製作時期1662〜1672年(言語によって時期が異なる)
製作場所オランダ・アムステルダム
所蔵場所東洋文庫(日本・東京都)など
作者ヨアン・ブラウ
材質
大きさ縦57.6cm×横37.6cm

 

『大地図帳』は1662〜1672年にかけて、オランダの地図製作者ヨアン・ブラウによって刊行された地図帳です。

言語により異なりますが最大で12巻、4000ページ以上にも渡るボリュームで、600近い地図が収められており、17世紀にブームとなった地図帳製作の集大成とも言える地図帳となっています。

 

17世紀の地図製作ブーム

17世紀のヨーロッパは空前の地図製作ブームと言える時代でした。

その背景として、イギリスやオランダといった大国が東インド会社を設立するなど、国際交易が盛んになっていたという点が挙げられます。
交易によって海外の情報や経済の繁栄がもたらされ、また商人や航海者からの需要もあり、地図製作が盛んに行われるようになったのです。

地図と並行して地図帳も多数出版されており、そんな時代に数多く作られた地図帳の集大成とも言えるボリュームを誇るのが、ブラウによる『大地図帳』なのです。

 

 

ヨアン・ブラウ

ヨアン・ブラウ(1598頃〜1673年)は17世紀オランダの地図製作者です。

ヨアン・ブラウ

ヨアン・ブラウ

 

そして彼の父であるウィレム・ブラウ(1571〜1638年)も同じく地図製作者でした。
ウィレム・ブラウは1604年にアムステルダムに印刷工房を開き、地図を出版していました。

ウィレム・ブラウ

ウィレム・ブラウ

ウィレム・ブラウのヨーロッパ地図

ウィレム・ブラウのヨーロッパ地図(1630年)

 

父であるウィレム・ブラウが亡くなって以降、ヨアン・ブラウはオランダ東インド会社の公認地図製作者の座に就きました。

東インド会社公認の地図製作者であったことから会社の情報を自由に使うことができ、それによってこれ程までのボリュームを誇る地図帳の出版が可能となったのです。

 

 

ブラウとヤンソン

ブラウ一家の他に地図帳製作で繁栄したのがヨハネス・ヤンソニウス(ヤンソンとも、1588〜1664年)です。

両者は地図製作において互いに競い合い、1638年から1658年にかけて両者ともに『新地図帳』を刊行しました。
こうした競争の中で地図帳はますますボリュームを増していったのですが、その末にブラウが出したのがこの『大地図帳』なのです。

ヤンソン「新地図帳」

ヤンソン「新地図帳」表紙(1641年)

 

当初ブラウは、陸地・海・天空という3段階に分かれた包括的な地図帳を出版するプロジェクトを構想していましたが、その完成は叶わず、結局今回紹介する陸地に関する部分が出版されたのみでした。

 

 

地図帳の内容

『大地図帳』は出版された言語により異なりますが、10巻ほどのボリュームの中に600近い地図が掲載されています。

各言語ごとの出版年、巻数、地図数を以下まとめます。

言語出版年巻数地図数
ラテン語1662〜1665年11593
フランス語1663〜1667年12596
オランダ語1664〜1665年9600
ドイツ語1667年9612
スペイン語1659〜1672年10544

 

各巻違う地域を取り上げているのですが、ここでは最初に出版されたラテン語版の全11巻の内容を見てみましょう。

ラテン語版

第1巻北ヨーロッパ、ノルウェー、デンマーク、及びシュレースヴィヒ
第2巻スウェーデン、ロシア、ポーランド、東ヨーロッパ、及びギリシャ
第3巻ドイツ
第4巻ネーデルラント
第5巻イングランド
第6巻スコットランド、及びアイルランド
第7巻フランス、及びスイス
第8巻イタリア
第9巻スペイン、及びアフリカ
第10巻アジア
第11巻アメリカ

 

こちらの記事ではラテン語版・オランダ語版それぞれを閲覧できるサイトを紹介していますので、併せてご覧ください。

ヨアン・ブラウの「大地図帳」を閲覧できるサイトを紹介!
17世紀オランダでブームとなっていた地図製作の集大成とも言えるヨアン・ブラウの「大地図帳」。10巻ほどのボリュームに600近い地図が収められているのですが、それらをウェブ上で閲覧できるのをご存知でしょうか?今回は「大地図帳」を閲覧できるサイトを二つ紹介します!

 

各地図の情報源は様々ですが最新の地図が利用されることは稀で、自身が過去に出版した地図や他の地図出版者から入手した銅版を使ったものが多くありました。中には100年近く前のものもあったようです。
なお、他の出版者による地図は地図帳の体裁に合うように装飾などが改変されることがしばしばありました。

以下、各地域の地図をいくつか紹介していきます。

世界地図

大地図帳の世界地図

「新しく極めて正確な世界地図」と題された冒頭の世界地図は、必ずしも最新の情報を反映していなかった他の多くの地図よりは確かに新しいものでしたが、ヨアン・ブラウが1648年に出版した世界地図とほとんど同じものとなっています。

ヨアン・ブラウの世界地図 1648年

ヨアン・ブラウの世界地図(1648年)

地図投影法として東西2つの半球が並べられた平射図法が利用されていますが、これは当時の大衆に好まれていたのがこの投影法であったからと考えられます。

 

1648年の世界地図と大きく異なるのは地図の周辺の装飾です。
『大地図帳』内の世界地図では下部に寓話の化身が描かれているほか、左上にプトレマイオス、右上にコペルニクスが配置されています。そして2人の間にはそれぞれ木星・金星・太陽・水星・火星・土星を擬人化したジュピター、ヴィーナス、アポロ、マーキュリー、マーズ、サターンといった神々が描かれており、さらにアポロの下には月も見られます。

大地図帳 世界地図上部

こうした装飾の意図するところは、宇宙観を示すことにあるとされています。

天動説を唱えていたプトレマイオスと地動説を主張したコペルニクスが対比させられていますが、ブラウはコペルニクスの側を支持していたと考えられます。
それは擬人化された神々が、地動説で唱えられているのと同じように太陽(アポロ)から近い順に並べられているからです。

 

 

北ヨーロッパ

大地図帳 スカンディナヴィア

第1巻に掲載されている北ヨーロッパ(スカンジナビア)の地図です。

地図の使い回しが多かった大地図帳ですが、この地域の地図は新しく作られたものも比較的多く、例えば北極の地図はこの地図帳の出版のために新たに作られました。

大地図帳 北極

 

 

アフリカ

大地図帳 アフリカ

アフリカ大陸の地図です。

ヨーロッパのものと比べるとやや形がいびつですが、それでも中世以前のものと比較すると正確性が増しているのが分かります。

海上には帆船や海獣が描かれています。

 

 

アメリカ

 

大地図帳 アメリカ

「新大陸」アメリカの地図です。

1620年代から1630年代にブラウが出版した地図帳内の地図が流用されているほか、ブラジル部分の地図はカスパール・バルラエウス作でブラウが1647年に出版した地図帳に拠っています。

 

 

アジア

大地図帳 アジア

アジアの地図です。
東に行くに連れて、形が正確性を失っていきますが日本も確認できます。

ブラウはオランダ東インド会社の公認地図製作者ではありましたが、それらの地図は機密性が高かったため、地図帳には利用できませんでした。

代わりにブラウが情報源としていたのがイタリアのイエズス会士マルティノ・マルティニによる『中国新地図帳』でした。

『中国新地図帳』

『中国新地図帳』(1655年)のタイトルページ

 

 

日本

下の地図は日本単体のものです。

大地図帳 日本

蝦夷(北海道)が右上に少しだけ見えます。

 

朝鮮半島はアジア全図の方では島になっているのに対し、日本地図の方ではちゃんと半島として描かれています。

16世紀後半から17世紀にかけて、ヨーロッパ人の持つ情報が少なかったため朝鮮は島と認識されることがほとんどだったようです。
中には半島として描いていた地図もあるようなのですが、この大地図帳では同じ地図帳の中でも描写に揺れがあるのが興味深いですね。

オルテリウスの日本地図

朝鮮が島として描かれている地図の例(アブラハム・オルテリウス 1595年)

 

 

製作意図

これほどまでに豪華な『大地図帳』はなぜ作られたのでしょうか?

それは商業的な理由が大きいと考えられています。

この地図帳は、同業者であるヤンソンとの地図帳製作競争の末に作られたものであり、ボリュームや装飾こそ目を見張るものがありますが、地図として学術的な価値はほとんどないとされています。

むしろそうした豪華さが当時の上流階級の人々に受け入れられ、こうした地図帳を持っていることが一種のステータスとされていました。
このような状況もあり、ブラウの大地図帳は商業的に大成功を収めました。

 

 

地図帳の利用と終焉

購入された地図帳を所有者がオリジナルの地図帳に作り変えるという、少し変わった利用方法がなされた事例もありました。

例えばアムステルダムの法律家ローレン・ファン・デル・ヘムは、ラテン語版の大地図帳に新たな地図を加えて独自のものにしていました。
その中にはオランダ東インド会社が製作した海図も含まれていました。

ローレン・ファン・デル・ヘム マラッカ海峡

ローレン・ファン・デル・ヘムの『大地図帳』内の東インド会社製のマラッカ海峡の地図(ヨハネス・フィングボーンス作)

出典:Atlas Blaeu-Van der Hem: Secret Atlas of the VOC, around 1666 – Austrian National Library / オーストリア国立図書館

 

商業的に大成功を収めた『大地図帳』ですが、ブラウの地図製作はその後徐々に凋落の一途をたどることとなります。

そのきっかけとなったのが1672年の火事です。
ブラウの印刷所で発生したこの火事によって多くの在庫や印刷機、銅版が焼けてしまったのです。

そして1673年のヨアン・ブラウの死後、ブラウ一家の家業はさらに傾いていきます。
家業はヨアンの息子たちが継いだものの、市場の変化もあり地図帳の需要はなくなっていきました。

大地図帳に使われた残った銅版も転売され、1703年にはオランダ東インド会社との関係も終了してしまいました。

 

 

まとめ

今回はヨアン・ブラウによる『大地図帳』を紹介させていただきました。

POINT

  • 17世紀オランダでブームになっていた地図帳製作の集大成とも言える地図帳である。
  • 10巻前後のボリュームの中に600近い地図が収録されている。
  • その出版は商業的な意図が大きく、学術的な価値は高くない。
  • 豪華な装飾が上流階級の人々に受け入れられ、オリジナルの地図帳に作り替えられることもあった。

科学的な動機よりも金儲けに駆り立てられたこの地図帳の製作は、地図製作史における1つの大きな転換点と言えるでしょう。

 

 

参考文献


安藤万有子 (2016) 「東洋文庫所蔵ブラウ 『大地図帳』―地図における絵画的装飾―」, 『東洋文庫書報』

織田武雄 (2018) 『地図の歴史 世界篇・日本篇』講談社.

橘伸子 (2014) 「東洋文庫所蔵ブラウ『大地図帳』総目次 : J. Blaeu, Grooten Atlas, 1664-1665」, 『東洋文庫書報』

ブロトン, ジェリー (2015) 『世界地図が語る12の歴史物語』西澤正明訳, バジリコ株式会社.

ルーニー, アン (2016) 『地図の物語 人類は地図で何を伝えようとしてきたのか』井田仁康日本語版監修, 高作白子訳, 日経ナショナルジオグラフィック社.

ブルック=ヒッチング, エドワード (2017)『世界をまどわせた地図 伝説と誤解が生んだ冒険の物語』井田仁康日本語版監修, 関谷冬華訳, 日経ナショナルジオグラフィック社.

Cornelis, Koeman, Günter, Schilder, Marco, Van Egmond, and Peter, Van Der Krogt. ‘Commercial Cartography and Map Production in the Low Countries, 1500–ca. 1672.’ The History of Cartography, Volume 3 Cartography in the European Renaissance ed. by David Woodward, 1987.

17世紀なかばのヨーロッパ地図 | 世界の歴史まっぷ

地動説 – Wikipedia

ネーデルラント連邦共和国 – Wikipedia

マルティノ・マルティニ – Wikipedia

‘Atlas maior’ by Blaeu – Utrecht University Library Special Collections – Universiteit Utrecht

Blaeu Atlas Maior, 1662-5 – Maps – National Library of Scotland

Caspar Barlaeus – Wikipedia

Jan Janssonius – Wikipedia

Johannes Vingboons – Wikipedia

Laurens van der Hem – Wikipedia

Willem Blaeu – Wikipedia

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