現在進行形の「新型コロナ騒動」、あるいは「新型コロナ狂騒曲」。

 

 

世に蔓延る「とにかく不安」「ともあれ怖い」という声を、日本国政府はノラリクラリといなしつつ経済を回していく戦略を採っている、ように見える、ような気がする、と思っているのだけれども・・・

 

基本、様々な問題を抉り出し、時には創り出しさえして耳目を集める(見てもらう、読んでもらう、クリックしてもらう)ことを生業とする人々が煽り拡大する「声」とか、

 

そこに迎合して「やってますアピール」に御執心、どこか「親の心子知らず」にも似た地方自治体の首長とか、

 

・・・そういうのに抗しきれず、ちょっと腰が定まらない雰囲気もあったりして、またぞろ(ソレによる売上減、廃業、生活困窮、ひいては自殺、など負の側面そっちのけの)「強い対策」に走る気配もあります。

 

 

ワタクシなんぞは・・・

 

ウイルス対策としてあまり意味のない「何時でも何処でも誰でも(カタチだけでも)マスク」着用とか、時々刻々と文化を殺しつつある「3密」回避とか、人と人との繋がりや人として生きること自体を否定する「新しい生活様式」履行とか、

 

・・・ホントついていけなくて、感染予防のためではなく、そんな世の中と関わりたくないという理由で引きこもり、何なんなら鬱モードになりつつあります。

 

 

それでも希望を捨てず、自分にできることをしようとは思うのですが、もう、何処から手を付けたら良いのか分からないというか、何を言っても虚しいというか、そんな日々でございます。

 

 

そんなわけで、今回は本の紹介。別の名を「権威を借りてモノを言う」で行こうと思います。

 

 

症状の有無・軽重関係なしの「感染者数」とか、ソレが主因かどうか不明な「死亡者数」とか、種々諸々、人と人の世を狂わせているPCR検査、その生みの親であるキャリー・マリスさんによる自叙伝、あるいはエッセイ集です。

 

 

『マリス博士の奇想天外な人生』

キャリー・マリス 福岡伸一訳 早川書房(2004年)

 

 

DNAの断片を増幅するPCRを開発して、93年度のノーベル化学賞に輝いたマリス博士。この世紀の発見はなんと、ドライブ・デート中のひらめきから生まれたものだった!? 

 

幼少期から繰り返した危険な実験の数々、LSDのトリップ体験もユーモラスに赤裸々告白。毒グモとの死闘あり、宇宙人との遭遇あり…マリス博士が織りなすなんとも楽しい人生に、きっとあなたも魅了されるはず。

 

巻末に著者特別インタビュー掲載。

 

 

 

という内容。

 

その人となりが滲み出ている巻頭グラビア、「ポリメラーゼ連鎖反応(Polymerase Chain Reaction : PCR)」のアイディアをデート中に閃いたこと、我が国の国際科学技術財団による「日本国際賞」に選ばれ来日、当時の皇后陛下とも率直に話をし、宮内庁関係者を慌てさせたことなど、興味深いエピソードで始まります。

 

基本、一科学者の「奇想天外な人生」を面白がれば良いのでして、その意味では、大変読み易く、実際、楽しめました。

 

 

そんなわけで、あるいは、そんなわけではありますが、時節柄「ここだよね」というところを、以下、抜書きでお伝えします。

 

 

 それから私は話を進めた。科学とは楽しみながらやることだとずっと信じてきたこと。PCRの発明も、子供の頃、サウスカロライナの田舎町コロンビアで遊びでやっていたことのほんの延長線上にあること。PCRは、分子生物学に革命をもたらしてやろうと考えて発明されたわけではなかったこと。むしろ、自分の実験に必要な道具としてPCRは発明されたものにすぎなかった。事実、当時、自分はほとんど素人同然だった。もし自分がしようと思っていることについてもっといろいろな知識をもっていたら、それが邪魔になってPCRは決して発明されていなかっただろう。そう私は話した。(「ノーベル賞をとる」51~52頁)

 

「PCRを感染症の診断に用いてはならない」とマリス博士が遺言したとかしないとか。少なくとも、そういう利用の仕方を考えていたわけでないのは確かです。

 

 

 科学はプログラム化された計画となり、科学者はその管理者となる。20世紀における科学上のもっとも重要な展開は、科学研究の背後にある動機が、好奇心から経済的なものに変化したことだろう。大学でも、政府機関でも、企業の研究所でも研究者に払う金が必要となる。研究室のリーダー、技術員、博士研究員、大学院生、秘書などの手当である。研究室の建物、装置、出張費用、オーバーヘッドが必要となる。オーバーヘッドとは研究組織に支払う一種のショバ代であり、管理者の給料や経費、経理、事務員、建物や地所の管理経費、警備員、紀要の出版代、図書館司書、清掃員などの諸経費が賄われる。これらには膨大な費用を必要とし、自分の研究を維持し、発展させるため研究者には大きなプレッシャーがかかる。公的研究資金は全米科学基金、国立衛生研究所、国防総省、エネルギー省などの機関から分配される。もちろん資金をめぐってたいへんな競争となる。そこでわれわれはこう質問すべきなのである。「お前らは、オレたちの大切な税金を使って、いったい何をやっているんだ」と。(「科学をかたる人々」177頁)

 

ここのところ「マスク着用に効果あり」という結論を導くためのものに偏り、そもそも咳・くしゃみに含まれる飛沫がどの程度の量なのか、あるいは無症状者の発話飛沫もしくは呼気の微小飛沫に感染能力のあるウイルスが含まれるか否か、それ自体を問う実験がほとんど無いことを思うに、なるほど「経済的」な動機が主だからなんだろうなと・・・

 

 

 インターネットを使うのにそれほど知識はいらない。必要なのはデータベースにアクセスするやり方と、ちょっとした警戒心である。この地球上には人をかつごうとしているやつらも結構いる、という感覚が大切なのだ。ナンシーの買った本の巻末には、著者である女性が、参考文献の長いリストをのせていた。どうやらこれらが彼女の説をサポートする根拠のようだ。しかし、このリストは単なる文献の一覧表で、いったいどの文献がどの主張の根拠になっているのかは、まったく特定されていなかった。知識の客観性に対するこの手の無頓着さは、真の科学的態度とはまったく無縁のものといってよい。(「健康狂騒曲」234~235頁)

 

「とにかく怖い・不安」派であれ「ただの風邪・陰謀」派であれ「人をかつごうとしているやつら」は実際いるようで。自分の身(思考)は自分で守るしかありません。かく言うワタクシ自身、それができているのかどうか分かりませんが。

 

 

 人はたくさん食べれば太り、食べなければやせる。ダイエットに関してこれ以上の真実はない。物事の本質を見直すべきである。そうすればたわごとに惑わされずにすむ。きちんとした理論にもとづいたことだけを信用しよう。そうすれば、たとえ暗闇から栄養学者が著書を片手に遠吠えしようとも、安眠することができるのである。これが基本である。今すぐ本は捨ててしまおう。彼らの言うことなんて聞く耳をもたなくていい。そうすればぐっすり眠れるのだ。(同241~242頁)

 

同じウイルス量に晒された時、「感染」あるいは「発症」するかどうかは、人それぞれの免疫力によります。加えて同じ人でもその時々の体調で変化することだってあります。本質はソコです。

 

PCR検査陽性(ウイルス遺伝子の断片が見つかった、というだけ)でも、実際に感染しているのか、発症するのか、重症化するのか、死亡するのか、それは全く分かりません。感染症の診断としては限りなく役立たずの穀潰し、有害無益でしょう。

 

ついでに言うと、咳・発熱などの「症状」は、免疫作用がはたらいている証拠なんですから、それ自体を恐れる必要はありません。

 

 

 科学的記述の適切な根拠となるべきものは、通常、信頼できる科学雑誌上に掲載された論文である。近頃の科学雑誌はどれも光沢のある紙を使い、表紙にはきれいな写真が載せられ、多くの広告が掲載されている。専門記者による読み物のページがあり、女性の写真が、実験室で使う機器や試薬の宣伝をしている。雑誌に広告を掲載しているのは、科学者向けの機材を販売している会社か、医師向けに薬品を製造している薬品会社である。いまや広告のない主要雑誌はないのだ。つまり著名な科学雑誌はどれもなんらかの企業とつながりがある。(「エイズの真相」262~267頁)

 

こんな論文が、そんな研究が、あんな報告が、といった「新型コロナ怖い」系の溢れかえる報道も、つまりは「広告主の意に沿うもの」でしかないのかもしれませんね。

 

 

 1980年代、何がなされたか思い出してみよう。確かに、世界大戦のごとき暴力的な大混乱はなかった。しかし、戦争と同程度の多額の税金が浪費された。われわれ人間は実はアリ同然の無力な生き物であることを忘れてはいけない。たとえ信仰の言葉が力をもたなくなったとはいえ、人間が神になったわけではない。この地球の主は人間であり、諸般の事物を見守る使命があるというのは誤りだ。現在の気象は、たまたまこうなっているだけのことである。今後、それをずっと保全していこうと考えるのはあまりに傲慢である。人間が地球のすべてを支配し、すべての環境と生物は今後ずっと不滅である、そうして輝かしい21世紀を迎える、どんな生物も絶滅させてはならない。それは新しい生物を受け入れないと言っているに等しい。進化論の否定である。国立環境庁と国連気候変動調査委員会は一緒になって進化の終焉を唱えているとしか考えようがない。

 ある漫画にこうあった。洞窟生活をしている原始人が、洞窟の入り口で燃えている火を見つけて隣の原始人にこう言うのだ。「お前がこんなところで火をたくから、向こうの空が曇って雷が落ちてきそうになったじゃないか!」今もまったく同じ理屈がまかり通っている。(「不安症の時代に」309~310頁)

 

道徳的に聞こえる発言も実は傲慢の裏返し、というのはママあることで。同じように「人のため」が実は「自分のため」を美しく言い換えただけだったりするのも、これもまたよくある話で。「地球環境のため」とか「子供たちのため」とか・・・

 

 

 人類ができることと言えば、現在こうして生きていられることを幸運と感じ、地球上で生起している数限りない事象を前にして謙虚たること、そういった思いとともに缶ビールを空けることくらいである。リラックスしようではないか。地球上にいることをよしとしようではないか。最初は何事にも混乱があるだろう。でも、それゆえに何度も何度も学びなおす契機が訪れるのであり、自分にぴったりとした生き方を見つけられるようにもなるのである。(同315頁)

 

“with corona” を唱えるのであれば「感染者」が出たくらいで大騒ぎなどせず「お大事に」とでも声をかけ、家で大人しくしててもらえばそれで良いじゃないですか。何でこう「誰も感染してはならない」という勢いだったり、“without corona” を目指すかのような対策とかガイドラインとかが幅を利かせるのでしょうか。

 

そんなんだから「今日も明日もアナタに会えない」んですよ。

 

 

ふ〜。

 

ため息、いろんな意味で。

 

 

ちなみに「エキセントリック、奇行、不遜などいろいろな」形容をされるマリスさんですが、ご自身は「オネスト(正直)だね。私はオネスト・サイエンティストだよ」と巻末訳者インタビューで答えてます。

 

 

というわけで、ビール(もちろんワインでもジュースでもコーヒーでも良いんですが)片手に読んでみてください。

 

 

目次

 

  1 デートの途中でひらめいた!
  2 ノーベル賞をとる
  3 実験室は私の遊び場
  4 O・J・シンプソン裁判に巻きこまれる
  5 等身大の科学を
  6 テレパシーの使い方
  7 私のLSD体験
  8 私の超常体験
  9 アボガドロ数なんていらない
10 初の論文が「ネイチャー」に載る

11 科学をかたる人々

12 恐怖の毒グモとの戦い

13 未知との遭遇

14 一万日目の誕生日

15 私は山羊座

16 健康狂騒曲

17 クスリが開く明るい未来

18 エイズの真相

19 マリス博士の講演を阻止せよ

20 人間機械論

21 私はプロの科学者

22 不安症の時代に

 

 謝辞

 訳者による著者インタビュー

 訳者あとがき

 

 

 

 

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参考までに、こちら「貪欲な企業とエイズ」(1997/12/7 サンタモニカ)という講演(の質疑応答)の様子だと思われます。

 

 

 

にしても・・・

 

濃厚接触≒密閉空間で長時間だったはずが、いつの間にか屋外でも、短い間でも、そしてついに、食事中でもマスク、ということに。

 

・・・いくら何でもオカシイ。

 

 

こちら、今は昔、4月に書いたものです。

 

ずっと昔、まだ子供の頃のことで記憶も定かでないのですが、何かで見たのか読んだのか、とにかく地球の環境が悪くなり過ぎて、全ての人が宇宙服のようなものを着ないと生きていけなくなりました、みたいな話がありまして。

 

その時ワタクシ、幼心に「そんなことしてまで生きていたくないなあ」なんて思ったものです。

 

少し長じると、いわゆる環境問題(化学物質、細菌・ウイルス含む)で大多数の人が死んでしまっても、中には、新しい状況に生身で対応できるヒトが現れるんだろうし、何なら、それが人ならざるものであったとしても、地球は一つも困らないよね、なんて生意気なことを考えたりもしました。