こんばんはー、私です。
立皇嗣の礼、無事に終わったっすねぇ。
これで秋篠宮さまは皇太子ならぬ、皇太弟なられたわけですね。
現代ではそれほど心配ではありませんが、次の天皇が公的に決まるということは、
かつての政界にとっては重要なことで、次の天皇で自分の一族が実権を握れるかどうかという、
お家全体の問題となるレベルでした。
とはいえ現代でも、皇族がちゃんと次代を継ぐと公表することになるので、
永続的な皇族の繁栄に関わることです。
しかも今回はようつべで配信されていたとか。私は仕事で観れませんでしたけど・・・
さて気を取り直して、今回は摂津国島下郡にある三島鴨神社の論社2社をご紹介します。
郷社 三島鴨神社
鎮座地:大阪府高槻市三島江
御祭神:大山祇神、事代主神
旧社格:官幣小社(延喜式)→郷社(明治)
御朱印:あり
まずはこちら、高槻市にある三島鴨神社です。
なぜこの神社へ参拝しょうと思ったかといいますと、
単純に今の御朱印帳が下鴨神社の御朱印帳なので、式内社の賀茂系神社で埋めようと思ったからです。
まぁ、そしたらまさかの出会いがあったわけなんですが・・・
周辺は大阪とはいいますが郊外にあたるので田んぼの広がる田舎っぽい雰囲気です。
我々が想像するような大阪人のせっかちさも感じないゆるーい地域です(偏見)
むしろここも過疎化が進んでいるそうで・・・どこの地方にあったも同じようなものなんですね。
過疎化高齢化、まずこの影響を真正面から受けるのが神社界ですね。
二の鳥居です。社号碑もこちらにあります。
全国にある賀茂(鴨)神社は主に、京都の上賀茂・下鴨神社が全国に持つ神領地で、
かつて米が金の代わりだった頃は、資金をその神領地から取ることで、
葵祭などの催事や造替を行っていました。
これは春日大社にも見られる政策で、
祭りや造替の資金を集める際に、寄付してくれた土地に見返りで分社を置いたりしています。
こうして『延喜式』神名帳においても賀茂・鴨神社は山城、大和、伊勢、備前、上野、土佐、常陸、加賀、越前、淡路、讃岐そして摂津国に載っています。
※中でも山城国(岡田鴨神社)、大和国(高鴨神社、鴨都波神社)、摂津国(三島鴨神社)、伊勢国(賀毛神社)、常陸国(鴨大神御子神主玉神社)と、必ずしも同名というわけではありません。
《手水舎》
その中でも摂津国河辺郡にこの三島鴨神社が載っているわけなんですが、
御祭神を見てわかる通り、全く鴨神社に関連した神様が祀られていません。
それどころか元々は鴨神社ではなかったとされています。
表参道の先にあるのが外拝殿で、こちらは現在賽銭箱が閉鎖されていますが、後ろに回ると本殿前で参拝できます。
そしてこの神社、鴨神社という前に実は、
三大三島神社の一つに数えられます。
しかもそれだけじゃありません。
三島神社というとやはり総本宮とされているのは伊予国一宮でもある愛媛の大山祇神社とされていますが、
その元宮にあたるのが三島鴨神社とされています。
この件についてはまた後ほど書きます。
なんか電飾がたくさん付いてますね。お祭りの際にはライトアップされるんでしょうか。
背景には青空が綺麗に見えていますが、かつては広い社叢があったそうです。
社務所にて御朱印をいただき、お酒奉納させてもらったのですが、
そこで神主さんから興味深い話を聴かせてもらいました。
実は記紀の内容には間違いがある
ということです。
神主さんによると、神武天皇から始まる天照大御神の皇族は本来は、
インドから朝鮮半島を渡ってきた出雲族の子孫で、事代主命さまを祖神としていた、とのこと。
そして平安時代の有力豪族である物部氏も実は、
紀伊半島から入ってきた支那の民族なんだそうです。
そしてこの二つの勢力が出会ったのがこの鎮座地である摂津国島下郡なんだそうですよ奥さん!!!
んなアホな…と思わないでもないのですが、なんとなく納得がいく点がいくつかあります。
一つは物部氏が武器の製造を生業とした一族であることです。
もしこれが支那から持って入った金属加工技術であるならば、
当時の日本では技術が追いついておらず、物部氏が独占した技術になった可能性があります。
この龍も実は出雲族がインドが出自ということで、
本来であればコブラだったのではないかとされています。
インドまでの道中で中国を通るわけですから、そこで現在のの姿になったのかもしれません。
そしてもう一つ、記紀の大己貴命さまの段で、
因幡の白兎が島を渡るのに騙して利用した動物で
ワニ🐊が出てきます。日本にワニがいるわけがないので現代の見解ではサメとされていますが、
もしインドの説があるなら…!!!
さらにもう一つ、出雲大社の神使がウミヘビなのも本来ならコブラが由来になっている可能性がありますね。
そしてこの二つの勢力が協力関係を結ぶことになります。
それが出雲族と物部氏の婚約です。
それが伝わる神社が同じく島下郡に鎮座する式内社の溝咋神社で、事代主命さまと結婚された櫛玉媛命さまと、
その娘で神武天皇さまの妃となる媛蹈鞴五十鈴媛さまが祀られています。
今の話の流れ的に、櫛玉媛命さまを祀るのが本義でしょうか
リーフレットいただきましたけど、結構精力的にお祭りをやっている神社みたいで、
神主さんも常駐しています。
こちらは境内社の唐崎神社です。明治期に高槻市唐崎から遷座しました。
神社合祀政策でしょうか。その後昭和に旧鎮座地に遥拝所として拝殿が再建されました。
御祭神は写真から察せられる通り、菅原道真から始まり、大山祇神さま、天児屋命さまを祀ります。
こちらは八幡神社です。こちらも明治期に西面から遷座しました。
獅子狛犬さんの尻尾が柏餅の葉っぱみたいでかわいい
こちらの三社殿には、大将軍社、厳島神社、竈神社が祀られています。
こちらは國廣大明神で、稲荷大神さまを祀ります。
いつもおせわになっておr(🤛
そして三枚目の二の鳥居の写真を見ていただきたい。
注連縄が鳥居の柱にぐるぐる巻きにされていると思います。
これも実は出雲族のルーツであるインドから伝わったコブラ(蛇)が巻きつく様を表したものであり、
本来の注連縄は巻き付けるのが本来の意味合いを持つと神主さんは語られます。
それでは、もうひとつの論社の方もご紹介します。
村社 鴨神社
鎮座地:大阪府高槻市赤大路町
御祭神:大山祇神
旧社格:官幣小社(延喜式)→村社(明治)
御朱印:あり
はい、ということでこちらが同じく論社の鴨神社です。
先ほどの三島鴨神社と違って事代主命さまが祀られていません。
これは中世に三島鴨神社が社名を三島神社と名乗っていたことがあり、
「三島」と「鴨」が別の神社であったことが由来とされています。
鳥居の写真の通り、境内は住宅街の中、集合マンションが並び立つ間を縫うように広がります。
本来はもっと社叢はかなーり広かったらしいですが、
社勢の衰退や戦後の技術革新などで土地がどんどん取られていって今の状況になったとか。
やはり時代の流れの被害を真っ先に受けてしまうのですね…
いつもお世話にn(🤛
コンクリートジャングルに囲まれた社殿も近代的にコンクリート製になっています。
一度参拝したところ社務所が開いておらず、
お電話したら席をはずしているとのことだったので、
先ほどの三島鴨神社の方を優先しました。
その後連絡を取ると社務所にいるとのことだったので再度訪問。無事御朱印をいただけました。
先ほどとても信じられない話を聞いたのでこちらでもお話を伺ってみたところ、
やはりこちらも山城国の賀茂社の神領地だったわけではないらしいです。
しかし、近所に神領地はあったにはあったとのこと(管轄外)。
間接的に関係がありそうでした。
お話を伺ったところ、大山祇神さまはもともと百済からの渡来人が祖神として祀っていた神様で、
その渡来人がのちの三島氏で、百済(朝鮮半島)が海上の貿易でこの摂津国を利用しており、
航路のルートを整備するために瀬戸内海の島へ移動します。
これが大三島で大山祇神社が鎮座することとなります!
つまりこの土地にはインドから来た出雲族、紀伊半島を通ってきた支那の物部氏、
そして百済から来た三島氏の三系統の民族がいたわけですね。
今は見る影もないですが、もともとこの高槻市は平地で田畑が広がっており、
この二社も社叢が深かったことから現在地から互いに神社が視認できていたとされ、
三島鴨神社はこの二社のニコイチだったとする説があります。というか神主さんたちはこの説を推してます。
そのおかげか論争もなく各氏子も争ったりはしてないし、神主さんたちも年代が近く仲が良いんだとか
ということで今回三島鴨神社で記紀の真実(仮)を聞いて感動したので今回まとめてみたわけですが、
ちょっと真実(仮)を書いてると終いにならないので次回こっちにまとめを書いていこうと思います。
ちなみにこのときの神主さんからの一言
「どなたかと連れ立っては回られないんですか?」
…………………(;´д`)
違うんです…一人が好きなのもありますけど違うんです…
友人たち全く興味ないので付き合ってくれないんです…
最近薄々、感じていたことなんです。
神社で勤務していると御朱印を求めていらっしゃる方がいるわけです。
その方々は高い確率で2人以上のカップルだったり団体だったり…
………なぜ私は一人で神社巡りをしているんだろうと。
ああ…考えてはいけません悲しくなります…
かなしみのなみにおぼれる前に筆を置きたいと思います。
それではみなさんまた次回…