大丈夫、明けない夜はないのだ。

 ある夜、やりきれない気持ちで公園のベンチで一人コンビニの缶チューハイを飲んでいると、足元に茎の折れた花が咲いているのを見付けた。

 誰かに踏まれたのだろうか。植物には詳しくない。紫色の花の名前を検索したけれど、よくわからなかった。

 その花を根元から抜いて持ち帰り、缶を洗って水を差して活けると、缶に描かれた花火の模様が映えそれはそれなりに風流な姿だと思った。独り暮らしの男の部屋には、数少ない彩りだった。

 あのまま公園に放置されているよりも、死を迎えるまでの間ここにいるのは悪くないのではないかとも思った。

 そうしてじきに花は枯れてしまった。そして缶ごとゴミ袋に入れるとき、心に何か形容し難い感情が生まれた。

 私は花を救ったのだろうか。茎の折れたまま生き延びることで悪戯に苦しませたのではないか、或いは私が拾い上げたことで死期を早めてしまったのではないか。どちらにも自信が持てず底冷えするのを感じた。

 

 

 小暑に差し掛かる頃、町にはいつも雨が降っていた。

 強烈な日差しに照らされて熱くなった住宅街のアスファルトにスコールが叩きつけ、茹るように霧が立ち込めるその奥に、私は死んだ親友の姿を投影した。

 

 自宅と職場の往復、その1時間足らずの道程に、私たちの「思い出の無い場所」がなかった。

 

 深夜警笛の鳴り響くメトロのホームで別れた日のこと、池袋のドンキホーテで待ち合わせたこと、有楽町の駅前広場でインタビューを受けたこと、東京駅からKITTEの明かりを見上げたこと、新宿の妖しい裏路地を探検したこと、渋谷のロクシタンで後ろから驚かされたこと、新百合ヶ丘にある「くぐると願いが叶う扉」に祈りながら入ったこと。

 そこここに私たちの過ごした時間の痕跡があり、私たちの望んだ未来があった。けれど、どんな祈りも叶わなかった。

 

 一分一秒が事あるごとに立ち現われて、その度に私は立ち尽くした。

 彼女の優しい影が私を責めるようなことはなかった。ただいたたまれず、「東京には、もういられないかもしれない。」と思っていた。ここではない何処かへ行きたかった。東京ではない何処か。それはこの世の外でも構わない。

 

 

 ある日いつもの電車の車窓に映る景色の中に、大学の校舎が建っているのを見付けた。

 それは彼女が通っていた大学だった。そういえば、よく学生時代のエピソードを聞かされた。

 当時やっていたアルバイトや資格の勉強、モデルの写真撮影、上京して初めてナンパされたこと、理系なのに動物の解剖が恐ろしくて出来なかったこと等々。

 けれどその多くを今はもう覚えていない。

 ずっと一緒にいられると思っていたから、同じ話を彼女の口から聞いて、何度だって飽きもせずに笑いたかったから、また聞いたら良いんだと思っていた。

 だから、全部忘れてしまった。

 

 

 各駅停車に乗換え、大学の最寄り駅で下車することにした。

 彼女の通っていたキャンパスは小山の上にあった。傘を片手に長い坂道を歩いてゆくと小さな神社があったので手を合わせた。

 彼女は神社が好きだった。きっと何度かこうしただろう。

 

 しばらく歩いてゆくと、いかにも大学然としたテニスコート学生寮、研究棟やサークル棟が見えてきた。どの窓にも電気は灯っていなかった。

 小山の上から、学生街を一望することができた。

 各駅停車しか停まらない小さい駅舎、団地の間にある狭い公園やスーパー、個人経営の流行らない居酒屋、遠くの方に学生ローンの看板が見えた。

 

 そこに在るモノのひとつひとつが、私の目には不思議に映った。この町で彼女が過ごすには似つかわしくないような気がした。この景色の中に、彼女がいる姿を想像できなかった。

 日々一体どんな気持ちでこの長い坂を登ったのだろう。

 

 大学生の時分、彼女は好きな男と結ばれていた。田舎で彼女の個性は歓迎されなかったけれど、東京で初めて自分の価値を知った。この世が報われないものであることも知らないままで、きっと彼女にとって最良の4年間だったのだろう。

 考えてみれば、私は彼女にとって最悪の時代しか知らない。そんな私が痕跡を辿っても、彼女に会うことができるはずもなかった。

 

 

 その日の帰り道、小さいバイク屋を見付けた。中古のバイクが何台か雑然と雨曝しにされていた。適当に見ていると、その中の一台に目が留まった。

 「ホンダカブ・110cc128,000円」と貼紙がしてあった。それは格安の部類だった。

 そういえば学生の頃、カブで日本一周してみたいと思っていたことを思い出した。そのときは結局、時間と金がなくて断念したのだけれど、ずっとカブに乗ってみたいと思っていたのだった。

 

 2012年式・中華製の不人気車だそうで、長いこと外に放置されていたと思しき車体は雨染みだらけでお世辞にも綺麗とはいえない代物だった。けれど思うところがあり、結局買うことにした。

 

 公園の茎が折れたあだ花も、人間に棄てられた保護猫も、風雨に曝され叩き売られている中古のバイクも、そういう誰にも見向きされないモノを拾い手元に置こうとするのは、私もまたガラクタのまま誰かに手を差し伸べられることを望んでいるからに相違ないのだと思った。

 所詮モノに自分の何かを投影することそのものが無為なことだが、由来生きることは無為なことだった。

 

 しかし、納車されたカブは不良品も良いところだった。

 計器は壊れ、変速機は歪み、車体はエンジンの振動でガタガタ鳴り、ミラーは取れ、チェーンは走っているときに切れてしまった。バイク屋は応対してくれなかった。掴まされてしまった。

 何処かへ行こうとする度に故障し、押し駆けしたのも10kmは下らない。その度に自分の運の悪さを呪いながら、イラつきながら何とか修理をした。

 

 そうしてようやく調子が安定して来た頃になって、カブに乗って旅に出かけようと思った。

 

 初めての長距離なので、黒部ダムくらいが無理のない範囲で良かろうと思った。

 朝4時に町田を出て高尾山、相模湖を抜けて大月、山梨は甲府を抜けて諏訪湖をとおった。途中、何度も山を越えた。

 天気予報は晴れだったけれど、スコールに見舞われズブ濡れになった。体温を奪われ風が冷たくて身体が震えた。

 

 黒部ダムの入り口がある信州高原に辿り着く頃には、既に7時間以上がかかっていた。それでも先ほどのスコールは嘘のように晴れ、雨上がりの気持ちの良い空が迎えてくれた。

 

 ボロボロのカブが高原沿いの真っすぐな道をひたすら進んでゆく。目線の先には飛騨の稜線が大きく広がり、真っ青な空に浮かんだ入道雲が麓の町に大きな影を落としていた。その影が風に流され動く様子が絵になるようだった。

 

 あの山々の先に目的地があるのだと思うと心が踊った。後少しだ。

 畑の間を走っていると時折、甘くて良い草の匂いが鼻をついた。これは何だろう、よもぎかな。

 

 何度も一緒に旅をした、もうこの世にはいない彼女の優しい声がして、私は路肩にカブを停め日差しで身体を暖めた。

 

 田舎って全然コンビニがなくてトイレ不安だよね。

 さっきまで雨降っていて不安だったけど、こんなに晴れて良かったね。

 一緒にモンサンミッシェルに行ったときのこと覚えてる?何か、あのときの日差しに似てない?

似てないかな。そうだよね。

 

 彼女に語り掛けたい言葉が、彼女に見せたい景色が、分け合いたい気持ちがいくらでもあった。それが一人芝居のように溢れてくる。一人では、人生の悦びだって持て余してしまう。

 

 きっと、もっとこの世には美しいものが沢山あるんだと思う。楽しいことも、嬉しいことも、彼女と分け合いたかった。

 けれど彼女はそんなことは全部分っていて、それでもなお、この世の外にゆくことを選んだ。

 

 ずっと、傍に居て欲しかった。

 私がもっと魅力的な男性だったらよかったのだろうか。もっとカッコよくて、高年収で、ステータスがあって。子どもなんて嫌いだったら良かったんだろうか。

 あのときああしていれば、こうしていれば......。下らない、取り留めのない思考の嵐がやって来る。

 

 逃げるようにカブを走らせた。

 けれどアクセルを全開にしても、非力なカブで振り切ることは出来なかった。

 

 

 先日実家に帰ると、数年前彼女が旅先から私に宛てた手紙が出てきた。悩みがちな私に向けて、

 

「大丈夫、明けない夜はないのだ。」

 

 と私を励ます言葉が書かれていた。

 けれど彼女自身の夜が明けることは遂になかった。それが答えだろう、判り切っていたことだ。結婚しても、引っ越しても、旅行をしても、抱え込んだものは全部背負っていくしかない。

 私はずっと東京ではない何処かへ行って、彼女のことを忘れたいと思っていた。けれど、何もかも忘れるには私たちは深く理解し合い過ぎてしまった。忘れることなんて出来るはずはない。この世に逃げ場なんてあるはずはなかった。

 

 黒部ダムに辿り着き、手すりを掴んで放水を覗き込むと迷いそうになる。ここから飛んだら楽になれる。けれどまだ死ねない。この手すりを放せない。

 自殺した人間は地獄へ行くらしい。確かに彼女は死を望んだけれど、手にかけたのは私だ。だから彼女が地獄へ行くことは無い。

私が全部背負って生きてゆかなければいけない。生きて、生きて、生きて、そして最後は何もかも地獄に連れて行く。

 

 心に空いた穴が埋まらない。最深奥まで大きな洞穴がポッカリと口を開いていて、寒々しい風が吹きすさび私の名前を呼んでいる。だけど身を委ねることはまだできない。彼女の名前を叫び、辛うじてこの世の端にしがみついている。

 今夜も嵐がやって来る。