リモートと対面について思ったこと (ブログ) | 英語でほふくぜんしん 

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新型コロナ感染症が一気に蔓延し、国内では学習塾もお休みになったり、再開したりしている中で今日は特に 「リモートはサブの手法。メインはやっぱり対面」ということを実感しました。

 

パート先で学習中に癇癪をおこした(低学年の)こどもに教えられました。

 

「わからな~い。どういうこと?」と何度も大きな声でわめいている子どもがいたのですが、対面だったのでそばにいって、神経を集中させて様子をうかがいます。「さっきまでもっと難しいことしてたじゃない」と言葉がけしたり、「みてるからやってごらん」とその子のそばにいってみたり。

 

癇癪をおこしている本人も、「自分でやりたいけど何かがひっかかってできない」という状態みたいで、やる気はあるのがわたしにもわかります。見守っている大人にちょっとだけどうにかしてほしいというサインが癇癪なのでしょう。そんな空気をその場でお互いに感じ、やりとりする中で、最終的には落ち着いて勉強して帰っていきました。「さようなら~」の声がとても大きかったです。

 

これがリモートだとなかなかこのような状態に結びつくのは難しかったのではないかと思います。私もどのように手を差し伸べたらよいかわからないし、そもそも、子どもはリモート先にいる大人に癇癪をおこしてもしかたがない。とこどもなりに判断し、SOSをだすことをあきらめたのではないかと思うのです。

 

コロナがはじまってから、子どもたちがわたしたちにわがままを言う頻度も極端に減っているように感じます。しばらく塾がお休みをして、その後再開したときの子どもたちの様子が「とても良い子」なのです。私語を謹んでいる。そばにはくるけど、話しかけてこない。時間を守る。これはそれまでと逆の行動です。それまでは、私語は慎もうとしているけれど、慎みきれない。そばにくるし、どうでもいい話をしたがる。時間を守るのが難しい。(だらだら勉強する)

 

当初はコロナでしばらく学校が休みになり、足りなかった睡眠が十分満たされ、精神的に落ち着いたから急に成長したのかと思っていたのですが、そうではないかもしれません。

 

今日は癇癪を起した子どものおかげで、「そうだよね。子どもなんてそんなに急に理解力がまして、大人になったりしないよね。」ということを私は思い出しました。子どもたちは大人に遠慮して、いい子でいることに必死なんじゃないでしょうか?

 

それはなぜか?子どもは子どもなりに周りの大人が必死でやっているのを感じて、ここで自分がわがままを言うことで状況が好転するどころか悪い方にいくのではないか?と気づいているのではないかと思うのです。申し訳ないですよね。でも、大人の余裕がなくなっているのも事実ではないでしょうか?それをよくわかっているこどもたち。なんだか申し訳ないですね。

 

癇癪を起されることは光栄なことだと思って、これからはわがままを言い始める子どもがでてきたらこちらも一生懸命見守ることにします。

 

ただ、最近、体調がおかしくなってきて、首がまわらないことに加えて、腰までおかしくなってきました。 

(それも子どもたちは気づいていて私語を謹んでくれていたのでしょうか?)

 

今一番してみたいこと:  チェソンジンの生ピアノを聴く。(コロナで実現不可能なので、YouTubeを聴き自分のエネルギーは自分で補充したいと思います)

Piano Concerto in E minor, Op.11 (final stage for the Chopin Competition 2015) ←癒されます。


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