筑見区自治会10年の歩み

https://www.youtube.com/watch?v=VLtD_H14uAI

平成25年度地域づくり総務大臣表彰受賞団体

 

 

手元に「筑見区自治会10年の歩み」という本があります。筑見区自治会が結成された1976年(昭和51年)4月から10年経過した1986年(昭和61年)3月9日に、「結成10周年記念式典」の際に配布されたものです。図書館で偶然目にし一挙に読みました。

 

先日(11月24日)、行われた阿見町議会第24回全員協議会で、筑見地区の都市計画税課税の方針が説明されました。筑見地区は、市街化調整区域ではあるものの、道路、公園が維持されており、2021年(令和3年)度から2024年(令和6年)度にかけて公共下水道を整備する計画となり、市街化区域と同様の都市施設が設備されることになります。税負担の公平性から、これまで2003年(平成15年)に南平台地区に課税したと同様に、筑見地区へも都市計画税を課税することにしたということでした。

 

住民へのアンケートでは、居住、非居住を含めて90%の同意があったということで、今後の手続きとしては、区長、自治会長双方の同意を取るということです。

 

そうした経緯があったので、この本を読み出しました。この本に書かれている内容については、断片的にはお聞きしたこともありましたが、改めて読んでみて、団地造成から自治会(当初は実穀ハイランド自治会)設立、その後の10年の歴史を知りました。

 

 

当時は、町の支援も少ない状態でした。住民は、すべて手作り、手探りで、身の回りのことは自分解決してきたようです。助け合って自分たちが住む地域を整備し、住民にとっては第2の故郷に、子供たちにとっては「ここが故郷」にしてきた歴史を感じました。「誇り」を感じる内容の文章でした。

 

筑見団地は、富士商事株式会社によって、1970年(昭和45年)8月に着工され、1971年(昭和46年)3月には入居が開始されました。第1次開発は、投資物件として売り出されすぐさま完売したようです。すぐに第2次の開発が始まり、人が居住するのを想定して実際にモデルハウスを立てて、宅地分譲販売を行ったそうです。古関弘之さんはモデルハウスを購入したということですから、初期の入居者ということになります。記念誌の発行された10年目には、約200世帯が住んでいます。

 

 

入居者の大半は、東京など首都圏から移り住んだ人たちで、当時属していた寺子区のしきたりには違和感を覚えていたようです。その後、1976年(昭和51年)に実穀ハイランド自治会(1985年に筑見区自治会と変更)を結成することになります。

 

団地には、非常に多彩な職業の方が住んでいたようで、電気や土木、通信などそれぞれ得意分野で自治会運営に寄与したようです。いまでは、こんな団地を購入する人は誰もいないと思いますが、何から何まで、問題が生じれば自分たちで解決してきたことが、逆に団地住民の連帯を生むという結果だったそうです。

 

座談会で、

「入居当初は、なんでこんなへんぴな所へ来たんだろうと思いましたが、団地の運動会で、みなさんが力を合わせて準備し、盛り上がるのを見て、自治会に関心を持つようになりました。また、水道管のパンクの時の対応もそうですし、近所づきあいも含めて、今では自慢の種になりました。今後も、このような方向で進めていきたいですね。」

「この筑見団地は、自分達がやらないと何も進まない。言い換えると、みんなによる手作りの団地だと思います。この伝統、この基本方針を今後もずっと続けてほしいと思います。」

と語っていましたが、この言葉が団地の特徴を物語っているような気がします。

 

なお、古関弘之さんは、1976年(昭和51年)の自治会設立時の会計担当で、1981年(昭和56年)に老人会「つくみシルバークラブ」が結成された際の初代会長も務めていました。

 

寺子区から独立して行政区となったのは1980年(昭和55年)で、名称を「筑見区」と命名したのは、当時の野口三郎町長でした。