【エピソード0】死を身近に感じたあの日人生が始まった

Life

初めまして、まっさんです。

2020年6月現在、大手通信事業会社に勤めながら副業で月5万円程度の副収入を稼いでいます。

2019年までは、東南アジア某国で7年ほど現地社長を任せてもらいながら2億円近い額を動かし、最盛期には20名ほどの社員と共に貿易事業を営んでいました。

が、これからの時代の変化を感じ取り別の道に行くことを決めたのです。

主に取り組んでいる副業は個人メディアを活用した広告代理業

ブログアフィリエイトやアフィリという言葉で知っている人もいると思います。

※個人メディア=ブログ、Twitter、Facebook、Youtubeなど自分で情報を発信できるツール全てのこと。

正直まだまだ稼ぎは少ないですし、インターネット上を見渡したとき月100万円以上稼いでいるプレイヤーもいるなかでは、かすんでしまうような実績です。

しかし、100万円以上と大きく稼ぐ人達がいる一方で、稼ぎがない、あるいは稼ぎが1000円にも満たないプレイヤーの割合は45.3%。

そこを半歩進んだ位置にわたしはいます。

おいおい、以前までのポジション捨ててやることなの?

と思うかもしれませんね。

会社員としてはトップの役職である社長にまでなりながら、なぜ別分野で一から挑戦するのかと。

その理由は2011年3月11日にまで遡ります。

Contents

自分の無力さと自由を渇望したあの日

2011年3月11日といえばそう、東日本大震災が起こった日です。

日本の観測史上最大規模マグニチュード9.0の地震が起こった14時46分ごろ、わたしは神奈川県の家電店とある駅ビルの9階で働いていました。

ぐらぐらと突然大きく横揺れし棚から落ちる商品、きゃーという悲鳴、足場が崩れ落ちていくかのような錯覚に陥り、「自分は今から死ぬんだ」と猛烈な恐怖を感じたのを今でもはっきりと覚えています。

揺れは20秒近く続き、その間にようやく地震が起きているのだということを理解、なかなか収まらない揺れに建物が倒壊してはしまわないかとハラハラしっぱなしでした。

幸いにもビルが倒壊するようなことはなく、大きなけがをした人も出ず、商品を片付けながら持ち場に戻りその日は早期帰宅となりました。

帰路は大混乱。

時刻が不明な一部路線、運行休止のアナウンス、繋がらない携帯電話に焦りといら立ちから殺気立つ人々。

ようやくスマホが普及し始めたばかりの時代で、確かな情報を素早く得ることが難しい。

いら立ちごった返す人の中で家族友人の安否や電車の運行状況の把握に四苦八苦しながらも、平常時の3倍近い時間をかけ途中の駅から徒歩で東京の住まいへと辿り着いたのです。

当時住んでいたのは50部屋ほどのシェアハウス。

イギリス・フランス・スイスといったヨーロッパ、アメリカ、インドや中国・韓国といったアジア出身の外国人男女含む中で、共同生活を送っていました。

政府機関に勤めてる人もいれば、フリーランスの音楽関係の仕事をしている人、日本企業のサラリーマン・OL、留学生、何の仕事をしているのか謎の人。

多種多様な価値観と生活スタイルがありました。

地震発生時外出中の人も多く同じようにほうほうの体で帰ってきたメンバー達とお互いの無事を喜び合ったものです。

翌朝まで連絡がつかないメンバーもいて緊迫した状況は続いたものの、最終的に全員が無事だったのは、本当に幸運だったと思います。

しかし、衝撃的な出来事は大地震だけではありませんでした。

目に見えない脅威と身動きとれない恐怖

大地震が起きた後、徐々にニュースなどの情報を目にし始めるとさらなる災害が起きていることを知ります。

福島第一原子力発電所事故による災害です。

詳細は省きますが、一番の衝撃は放射性物質の放出でした。

ざわつく周囲、シェアハウスでも職場でもその話題で持ち切り

見えない放射性物質の脅威に人々の不安は掻き立てられ、少しでも発生現場より遠くへ逃げなきゃ、と行動を開始する人も。

目に見えない脅威という意味では、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)と似ています。

事実、シェアハウスのメンバーの一部(主に外国人)は知り合いを頼りに京都まで退避。

事態が落ち着き、安全が確認されるまで3週間ほど帰ってきませんでした。

その行動をわたしは羨ましく思いました。

放射性物質に対する知識もなく、ニュースで煽られる不安に怯え、ただただ「大丈夫なのか?将来的に発癌しないか?」という恐怖をかかえながら出勤し働くしかなかったからです。

この行動に賛否両論あるのは分かります。

外国人だからとれた行動だよという意見も分かります。

緊急時にも暴動がおきず、日本の社会秩序が守られているのは周囲に配慮し、自らの行動を律することができる日本国民の民度が高いからです。

しかしわたしは、自分が大事だと思うことのために決断し行動した彼らに一種の憧れを抱いたのです。

ああ、こんな風に自己決定できその行動に責任をとれるだけの経済的自由があれば自分も同じことができるのに。

心の声がそう叫んでいました。

仮初めの人生に気づく

それまでの人生、周囲に迷惑をかけないようなるべく自分のわがままを押し殺し調和をとることが大事だと、その他大勢でいることが社会的善だと国から組織から親から教育され

自分自身それが正しいことだと微塵も疑わず生きていました。

そうしていれば少しの不自由さと引き換えに生きていくだけの賃金が支払われ、たまにちょっと贅沢することも出来る。

くせのある上司、神経質な同僚、自己主張の激しいスタッフ

人より抜きんでた実績を上げても対して報われず、残業という自分の時間を切り売りすることでしか稼げない給料

少しの不満に目をつむり、そんなもんだと我慢していれば、人と同じだという安心感が得られ大過なく過ごせる。

そんな人生が当り前で、それが自分の人生なんだと思い込んでいました。

仮初めの人生を生きていたのです。

自分の人生のコントロール権を得る

やりたいことを我慢し、他人の目を気にしながらつつましく生きる。

そんな当たり前だと思っていた価値観を平気でぶち壊して行動していく友人達。

そんな彼らの行動を目の当りにして気づいたのは、自分の人生は自分で決めることができるのだということ。

今すぐに状況を変えることはできなくても、自分の行きたい方向に向かって行動を開始し継続していけば必ず道は開けるということでした。

その出来事ののち、英語留学、海外放浪、海外起業と繋がっていくのですが。

今また新たなことに挑戦するのは、自己決定できるということが人生の幸福度をあげることを知っているからです。

ネットビジネスの手法は多様になり、ブログアフィリエイトはオワコンなんて声もありますが、これからあげていく実績をコンテンツとして楽しんでいただければと思っています。

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