さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【宗教の劣化史観】

2020-07-31 19:08:54 | 仏教講座
これ、大切なんだけれど、お話しするの忘れてました。


簡単に言うと、
「宗教は時間と共に劣化する」
ということです。


世の中は、歴史と共に発展してきてますか?
こういうの、判断が難しいんけどね。
科学技術に限れば、進んでる、と、言えますかね?
何で考えるとわかり易いですかねえ・・・・。
まあ、いいや、例えば、自動車。
はじめてできた自動車と、今の自動車を比べると、性能的には比較にならないほど、今の自動車の方が優れてますよね?
いや、哲学の話はなしですよ。
純粋に、技術的な話。
時間と共に技術が発達して、進化しました。


老舗の重みと言うのも、そういうところですよね?
味や技術が維持されてきただけではなく、長い時間かけて、だんだん進歩してきてるから、重みがあるんですよね。
他の店には真似のできない良さがある、みたいなことになるわけです。


そんなことを、私たち、経験則で学んでいるものですから、なんか、歴史があると、古いものより新しいものが良いものだ、みたいに思い込んでること、ありませんか?


仏教も、二千五百年も歴史があるものですから、何となく、そう思われていそうな気がするんですよ。
「二千五百年かけて育てられてきた英知」
という、「中国四千年の歴史」みたいな話です。


小乗仏教が、ずーっと発展してきて、それで、大乗仏教になった。
だから、大乗仏教の方が優れている。
こんな、勘違いをしている人には、かなりの数お目にかかりました。


違いますからね。
学術的には、「小乗仏教」と「大乗仏教」との間に、「思想的接点は無い」とまで、言う専門家が多いくらい、まったくの別物です。
※「小乗」という呼び方には批判もありますが、部派とか上座部とか呼べとかね、ここでは、一番通りが良いので「小乗」を使いますね。※※


同じ仏教じゃないの?
と、言われるかもしれませんが、同じ仏教じゃないんです。
なんで、そんなことになるの?ということを説明するために必要なのが、
「宗教は時間と共に劣化する」
という、事実に即した歴史観なのです。


「宗教は生モノだから、腐る」
と、覚えておいていただいても、間違いではないかもしれません。
善玉発酵は稀です。
熟成もされません。
普通に、劣化、もしくは異化します。
腐るか、さもなければ、全く別物になってしまう、つまり、「異化」してしまうのです。
それはもう宗教の宿命と言う他ありません。


何も難しい話ではありません。
仏教で説明します。


お釈迦様の、「純粋な教え」を「ベスト」だとします。
それは、お釈迦様のお口から、「言葉」として外に伝えられます。
その時には、もうすでに、「ベスト」は「ベスト」でなくなり始めるのです。
なぜか?
それは、聞き手が、それぞれの能力に応じた理解しかできないからです。
聞き手が複数であれば、複数のお釈迦様の教えが、そこで誕生します。
つまりは、伝言ゲームのような事態が必ず起きるのです。
中には、お釈迦様の教えを正確に理解できた人もいたとは思いますが、お釈迦様が有能な方であればあるほど、その期待値は下がりますよね。


そんな伝言ゲームが繰り返されるだけでなく、そこに、個人間の競争原理や、経済問題が絡まってきます。
さらに、組織化されると、セクトの論理が働き始め、利権や覇権を求め、果てしなき抗争が幕を開けます。
「勝つためなら、何でもあり」
必要なのは、他セクトとの差別化、つまりは独自性です。
同じお釈迦様の教えを受け継ぐ人たちが、独自性を強調しはじめるのですから、それは、結局のところ、
「どれだけ、お釈迦様を忘れることができるか」
という競争になってしまいます。
「釈尊なき戦い」の勃発です。
そんな様相を呈するようになるのに、それほど時間はかかりません。
求めるべきは「覚り」ではなく「利得」。
得にならない思想など、どんな風にでも曲がります。


やがて、「仏弟子(お釈迦様の弟子)」を名乗る、「お釈迦様の教え」とは、似ても似つかぬ「教義」を持つ「仏教教団」が、雨後の筍のように林立することになります。


純粋なお釈迦様の教えが「ベスト」であるとすれば、紛れもなく「劣化」だし、それらに、何らかの価値を認めるのであれば、「異化」ということになります。


これ、本当に、どうしようもない、宗教の宿命だと思います。
特に、お釈迦様の教えは、世俗的価値を悉く否定しますから、世俗に阿りたい人には不向きですよね。


お釈迦様は「インド的価値観」を壊しました。
だから「仏教」というのは、
「インドで生まれた、脱インド(脱ヒンドゥイズム)な思想」
と言えるわけですよ。
なので、それが劣化すると、再インド化が始まります。
その現象を、私は「インドがえり」と呼んでおります。


「インドがえり」は、恐らく、お釈迦様御存命中から始まっていたのだと思います。
そんなこんなで、お釈迦様没後五百年もすると、どうなると思いますか?
「仏教は、すっかり、お釈迦様の教えとは違うものになっていた」
としても、不思議じゃありませんよね?
大きな声では言えませんが、そんな仏教が、「部派仏教」として大成を見た、所謂「小乗仏教」であると考えられるわけですよ。


この話、楽しくなってきたので、続けます・・・・。

(見真塾サルブツ通信Vol.0046より)

【「空」ってなんだ?】

2020-07-28 21:54:24 | 仏教講座
「般若心経」ですが、皆様、ご存じですね?
「般若心経」と言えば、「空」のお経です。
有名なフレーズがありますね。
「色即是空 空即是色」
「般若心経」は短いお経ですが、何なら、この二句で事足りるのではないかとも思います。


大乗仏教を象徴するような言葉ですね。
「空」
「そら」でも「から」でもありません。
「くう」ですね。
この「空」を、とある超有名な大先生様が英訳する際に
「emptiness(空っぽ、空虚)」
と、誤訳されました。
それが国内、海外問わず、広く伝わってしまったがために、以降、「空」と「無」が混同されてしまったのではないかと、私は睨んでいるのですが、おかしなことになっています。


「空とは無の境地なんだ」
みたいに語る人がいるわけです。
「心を空っぽにするんだ。それこそが空だ」
だとかね。
違いますからね。


「空」というのは、存在を表わす第三の概念です。
「有」は、存在する、ですね?
「無」は、存在しない、ですね?
「有無」は、存在するかしないか?ということですね?
準備は良いですか?
行きますよ。


「有」「空」「無」
「ある」「くう」「ない」
並び順としては、こうなると思います。
つまり、
「非有(あるのではない)」
「非無(ないのではない)」
そんな存在の在り様が「空」です。


わけわかりませんよね?
これ、前提があります。


「有」というのは、ずーっと「有る」ということです。
過去現在未来を通して、存在し続ける。
それが「有」「有る」ということだと解釈します。
「絶対有」と言っても良いかと思います。


「無」というのは、ずーっと「無い」ということです。
過去現在未来を通して、存在したことが無い。
それが「無」「無い」ということだと解釈します。
「絶対無」と言っても良いかと思います。


そうすると、「有」と「無」の真ん中は、
「有ったり無かったりする」
ってことになりそうな気がしませんか?


そうなんですね。
ここで、登場するのが、「縁起」ですね。
仏教だから仕方ありません。
「縁起」というシステム上、「ずーっと有り続ける(不生不滅である)もの」は存在しません。
すべての事象が、縁起によって生じ、また滅します。


「無」は?
「ずーっと無いもの」って説明できますか?
難しいですね。
「過去現在未来を通して無いもの」
何か思いつきますか?
思いつくわけないですよね、無いんだもの。
過去に「有った」ものが無くなるから、「無い」とわかるのであって、はじめから無いものは無くならないので、そもそもわからない・・・・・
何を言ってるんだか、ですね、私。


要するに、私たちは「絶対無」を認識できないし、認識できない「無」について、私たちが考えることもない。
で、わかっていただけますか?
自信ないなあ、これ。


ま、とにかく、そんなわけで、「有」であるものも、「無」であるものも存在しないわけです。
残るは「空」です。
私、第三のと申しましたが、実は、「空」しかないんですよ。
すべての事象は「有」るのでもなく、「無」いのでもなく、「空」というあり方で存在しているというのが、「空」の教えなのです。
「一切皆空」です。
だから、すべての事象は「生滅」します。
縁起によって「生じ」やがて「滅し」ます。
それを、それを「縁起仮生」と言います。
存在すると言っても「有」るのではなく、一時、仮に存在している、と考えるわけです。
仮に存在していると認識しているにすぎない。
と、言っても良いかもしれません。
言えば言うほど、難解になりますね。


つまり、「よどみに浮かぶ泡沫(うたかた)は」「諸行無常の響きあり」とか、そういうことですよ。
結局、「空」=「縁起」です。
それもそのはず、そもそも、龍樹という方が、お釈迦様の「縁起説」を「rehabilitation(復興)」したのが「空」という理論なのです。


その「空」の理論を人々に伝えるために、簡潔にまとめられたのが「般若心経」なのですよ。
阿弥陀様の脇侍(アシスタント)の観世音菩薩様が、「空」を教えて下さるんだよね?
え?逆?観音様が教えてもらうの?どっち?
すいませんねえ、どっちでも良いと思ってる上に、いまだに覚えていないんです「般若心経」。


「色即是空 空即是色」
「形あるものは、すべて縁起により仮に存在させられたものである。また、縁起は、すべての形あるものを仮に存在させる。」
翻訳すると、こんなところでしょうか?
仏教らしさを演出するために、あえて「縁起」を残してみました。


しかし、本当に「般若心経」で夜道の安全が確保できるんでしょうか?
「空」だと思えば、お化けも怖くない、ってことかなあ?

(見真塾サルブツ通信Vol.0041より)

【二種回向論 その3】

2020-07-26 20:44:39 | 仏教講座
懸案となっております「二種回向論」ですが、
「教えられて」「促されて」「命令されて」(還相)
「何かをする」(往相)
という、実は、ただの一般則にすぎないということに、お気付きいただけましたでしょうか?
何を難しいこと考えてるんですかねえ?


なのですが、一つだけ重大な注意点があります。
これを忘れたら、坊主やめろ!と、断言します。
それは、前回も申し上げましたが、
「還相の主体は仏様」
「往相の主体は人間」
「回向の主体は阿弥陀様」
ということです。
この分別を忘れないでね。
これは、忘れたら怒るからね。
この分別を曖昧にしてるところ見たら、マジ切れするからね。


というわけで、前回の結論は、


仏様「阿弥陀仏!」(還相)
人間「南無!」(往相)
「南無」(往相)「阿弥陀仏」(還相)と、往相還相が一つになった「南無阿弥陀仏」を、阿弥陀様が私たちに「回向」して下さっている。


ということなんですが、
「一つに納まるなら、二つに分けるんじゃねえ!」
とは、言えないわけです。
主体を勘違いする人が出てきますからね。


とりあえず、
「念仏しなさい」仏・還相
「念仏します」人・往相
という例でお話しします。


A君はBさんに「念仏しなさい」と教えられ、念仏するようになった。
と、します。
「念仏しなさい」Bさん・還相
「念仏します」A君・往相
とは、考えません。
絶対に考えてはなりません。
「念仏しなさい」仏・還相
「念仏します」A君、Bさん・往相
と、考えます。


仏・還相→Bさん・往相
というサンプルを通して、A君も仏と出会った。
それによって、
仏・還相→A君・往相
という阿弥陀様の「回向」がA君の上に成就した。
ということなんですが、わかりづらいですね。


Bさんが、A君に、「念仏しなさい」と教えたのは、Bさんの上で、「仏様の還相が働いた」からだと考えなければなりません。
Bさんの功績ではなく、仏様のご功績だということです。
あくまでも、Bさんは、仏様に導かれて念仏をしていただけです。
A君は、そんな「念仏する」Bさんを通して、Bさん同様に、仏様に導かれて「念仏する」ようになったのね。
「導く主体」=仏
「導かれる主体」=人
A君とBさんは、同じ仏弟子として、先輩後輩の関係ではあるけれども、そこに師弟関係は存在しないということです。
先生は仏様。


私も含めて、「先生」と呼ばれている人は特に気を付けてくださいね。
「人に仏教(仏教学じゃないよ)は教えられない」
「人には人を導くことはできない」
というのが、親鸞聖人ですからね。


他宗のことは存じ上げませんが、以前、浅草寺付近の真宗のお坊様方が、「先生」「先生」とお互いを呼び合うのを見て、心底、
「気持ち悪っ!」
と、思ったことがありました。
「こいつら頭悪いんじゃないの」
としか思えませんでした。


その後、色々と嫌なことがあって、切れちゃって・・・・。
「貴様ら、俺は先生なんだから、跪いて俺にひれ伏せ!」
という気分になってたことはありますが、病んでましたねえ、私、坊さんたちに。


実際、私も立場上「先生」と呼ばれることが多いわけですが、学校の先生として、仏教学者として、「先生」と呼ばれることは、我慢して受け入れています。
それが学びの場の秩序でもありますし、仏教学は教えられますからね。
プロ意識もありますし。


しかし、僧侶としての私、信仰者としての私は、間違っても「先生」などではありません。
だって、導けないもの、誰も。
教えられることなんて、何にもないし。
せっかく作った鶏皮煎餅、倅に全部食べられちゃったし。
当てにされても困りますからね。


いいですか?
「僧侶なんだから、人々を導かなければ」
なんて勘違いするんじゃありませんよ。
ましてや、僧侶として人々を導けているなんて、思い上がってはいけませんよ。


そういう、勘違い野郎のことを「自称・還相の菩薩様」と言います。
「浄土から戻って来て、皆を救ってやってんじゃ!」
と迄、言う人はあまりいませんが、思っていそうな人とは、たまに出会います。
「俺だけが善智識だ!」
とか言ってる、カルトの人とか。
私に正義感さえあれば、殺していると思います。
「菩薩は菩薩らしく、浄土に帰れ。俺が送ってやる。」
と、までは思いました。


僧侶であるなら、「念仏する」分際でしかないことを忘れないようにしましょう。
「念仏する身」でしかないことを、徹頭徹尾、自分に叩き込んで下さいね。


それを私たちに教えるために、親鸞聖人が「南無阿弥陀仏」を、わざわざ二つに分けて、「二種回向」として教えて下さったんですからね。
親鸞聖人は、今はもう仏様ですからね。
私たち、親鸞聖人の還相の御利益に与っておりますよ。
親鸞聖人にしっかりと導いていただきましょうね。

(見真塾サルブツ通信Vol.0040より)

【二種回向論 その2】

2020-07-23 15:15:18 | 仏教講座
まず、整理しておきましょう。


「(浄土へ)往く姿(相)」=「往相」
「(浄土から)還る姿(相)」=「還相」


で、「還る」のが先ですよ、というのが前回の結論でしたね。
「還る」のが先ということは、「還る」主体と、「往く」主体が別だということを表わします。
一つの主体が「往還」するわけじゃない、ということです。


結論から言うと、「往」も「還」も、単に方向性を示しているにすぎません。
この世(穢土)から、あの世(浄土)へと向かう矢印が「往」
あの世(浄土)から、この世(穢土)へと向かう矢印が「還」
ということです。


「穢土→浄土」=「往」主体は人
「穢土←浄土」=「還」主体は仏
となり、「往」「還」それぞれに姿(相)があります。
前にもお話ししていますが、
「主体」の見極め!
これだけですね、重要なのは。


「往」の姿、すなわち「往相」とは、
「人が浄土へ往くことを願い生きる姿」
つまり、人が「穢土」から「浄土」へと向かう姿ですね。
「還」の姿、すなわち「還相」とは、
「仏が人を浄土へと導く姿」
つまり、仏が「浄土」から「穢土」へと働きかける姿です。


なので、「還相」が先になるわけです。
わかりましたか?
要するに、人は、仏から働きかけられないと、成仏なんて願いもしない、ということです。


仏様が、
「お前も成仏できるんだよ」
「成仏するために浄土へ来なさい」
と、呼びかけて下さらなければ、人は、成仏できることも知らないばかりか、仏の存在にすら気が付くことができないのです。
仏様から働きかけられて、はじめて、
「浄土に生まれたい」
「成仏したい」
と、思えるようになるのです。


私たちがお参りする。
私たちが手を合わせる。
私たちが神仏を念ずる。


そんな信仰的営みが、学習無しにできると思いますか?
自然と・・・・・・。
そうですね。
知らないうちに学習していたから、できるんですね。
学習したという自覚がないまま、学習できてたんですね。
それが、阿弥陀様の「回向」です。


「神仏には手を合わせなさいよ」(還相)
と、仏様が教えて下さったから、
「私たちが神仏に手を合わせる」(往相)
これも、
「阿弥陀如来の「回向」が私たちの上に「成就」した」
という一つの証になるんですね。


誰に教わった覚えもないけれど、誰かに教えられて、誰かを見て、いつの間にかそうしてきたけれど、確かに身についている。
最高の教育じゃないですか?


それが、校長先生である阿弥陀様と、先生方である諸仏による、私たちへの教育(回向)です。
仏様方の、ひとかたならぬご苦労が「還相」です。
そんな教育をいただき、私たち劣等生が、やっと、ようやく、よちよちと歩き出す。
「浄土に往生して仏に成りたい。」
「成仏して、人のためになりたい」(これ、「菩提心」ですね)
と、覚束無い足取りで、歩み始める。
それが「往相」です。


仏様「仏道を歩みなさい」(還相)
人間「仏道を歩みます」(往相)


仏様「お念仏しなさい」(還相)
人間「お念仏します」(往相)


ここまで来ると、暴走しますよ、私。


天主様「神を信じなさい」(還相)
人間「はい、信じます」(往相)


アッラーフ様「神を称えなさい」(還相)
人間「はい、称えます」(往相)


ここまでは言える。


神様「生贄を捧げなさい」
人間「はい、捧げます」
こういうのは、違いますね。


神様「お賽銭入れなさい」
人間「は、入れます」
これは微妙だなあ。


坊主「お布施払え!」
人間「誰が払うか!」
それで良い。


教祖様「私を信じなさい」
信者「はい、信じます」
これ、最悪だね。


仏様「阿弥陀仏!」(還相)
人間「南無!」(往相)
これは、有りです。


「南無」(往相)「阿弥陀仏」(還相)と、往相還相が一つになった「南無阿弥陀仏」を、阿弥陀様が私たちに「回向」して下さっている。
と、煙に巻いて次回に続きます。


だからさあ、こういう問題は長くなるから・・・・・・。

(見真塾サルブツ通信Vol.0039より)

【二種回向論 その1】

2020-07-22 16:04:50 | 仏教講座
イヤな題ですねえ。
でも、なんか、このネタやれと、M本和尚に脅されてるような気がするので、嫌だけどお話ししてみようかと思います。


「回向(えこう)」って、聞いたことありますか?
仏教では、自分が積んだ功徳を、他の人に「振り向ける」ことを「回向」と言います。
お坊さんに読経してもらって、その功徳をご先祖様に振り向ける(回向する)と、「先祖供養」になります。
この世で積んだ功徳をあの世に振り向けて、地獄の御先祖様を救出したりするわけですよ。


ところが、親鸞聖人は、
「我々には、功徳など、ろくすっぽ積めやしない。」
と、仰っておられます。
ですから、親鸞浄土教では、阿弥陀様や、仏様方から、仏の功徳というか、仏力が、我々に振り向けられているということを、「回向」と考えます。
「回向」の主体は、というか、「回向」の主体も、やはり、仏様、阿弥陀様です。


私たちは、仏様には、助けていただくだけで、何のお返しもできない、ということですね。
それは、その通りです。
私が読経したって、誰に対しても、何の功徳にもなりません。
私の読経で、迷ってらっしゃるご先祖様に極楽へ行っていただける、なんてことは間違ってもありませんから。
まあ、そもそも、ご先祖様は、一人残らず成仏してらっしゃるので、私の功徳なんて、当てにされてはおられませんね。
賢明ですね、ご先祖様。
私なんかを当てにしてたら、永遠に成仏できませんからね。


それはそうとして、仏様から、私たちに振り向けられてくる働き、それを「回向」と考えます。
それは、主体が「仏」である「回向」なので、「他力回向」と言われます。


その「他力回向」は二つの姿(相)を持っている。
というのが、「二種回向」と言われる、親鸞聖人の「回向観」なのです。
ちょっと念のために確認だけしておきますが、「二種」というと、二種類の「回向」があると思い込む人が多いのですが、「回向」は「仏様から私たちに振り向けられているはたらき」があるだけなので、一つです。
あくまでも、その一つの働きに、二つの側面(相)を見ることができる、ということですからね。


二つの側面(相)とは、
「往く姿(相)」=「往相」
「還る姿(相)」=「還相」
という二つの姿(相)として説明されます。


何処に往くんでしょうねえ?
「浄土」ですねえ。
何処から行くんですか?
この世、つまりは「穢土」からですね。


何処から還ってくるんでしょうねえ?
「浄土」ですねえ。
何処に還ってくるのでしょうか?
「穢土」ですよね。


ここで再び注意です。
行くと還るで「往還」とか言うものだから、「往復」みたいに思うせっかちな人が多いんです。
誰かが往って、還ると。
なので、
人が死ぬ→浄土へ往く→成仏する→穢土に還る→人を救う
と、こう考えるわけです。
が、浄土に往復できますか?
浄土から還ってきた人と、会ったことありますか?


現実的に考えましょうよ。
仏教は理性の宗教です。
オカルトじゃないんですよ。
神秘主義でもありません。
現実主義です。


私、死んだ爺さんに、いきなり還ってこられたりしたら、びっくりして、しっこちびるか、殴るかしますからね。
「あ!そうか!還相回向だ‼爺さん、俺を救いに来てくれたんだ‼」
て、ことに気が付くのは、数十発殴った後ですよ、きっと。
気が動転してますからね。
血の海に沈んだ爺さんを見て、後悔しても遅いんです。


危険ですから、間違っても「二種回向」というのは、
「人が死ぬ→浄土へ往く→成仏する→穢土に還る→人を救う」
ってことなんだよ、なんて説明はしないでくださいよ。


そもそも、これだと「他力回向」になりません。
自分が仏に成って、還ってきて人を助けるんだから、自己完結できるでしょ?
仏様からの「回向」は必要ありません。
俺が「回向」です。


思い込みで順序を間違えるから、そうなるのです。
一人の人間の上で考えるなら、次第は「還相」が先です。
「往還」ではなく、「還往」です。


従って、還ってきて往く、というような話ではありません。
「おう、帰ったら行くわ!」
って時は、A点、B点、C点が必要だからね。
「あの世」と「この世」、「浄土」と「穢土」の二地点しかないんですから。


「浄土から還る姿(相)が先にある」
と、覚えておいてください。
次回に続きます。

(見真塾サルブツ通信Vol.0038より)