さるぶつGOO

宗派や宗教団体の壁をガン無視して、自由な「信仰のある生活」を楽しみたいと思います。

【勅命!悲泣せよ!】

2020-07-15 09:27:12 | 仏教講座
【勅命!悲泣せよ!】


「慈悲」という言葉があります。
誰でも知ってる言葉ですね。
仏・菩薩の「やさしさ」を表わす言葉です。


不思議じゃないですか?
「慈しむ」はわかります。
なんで「悲しい」の?


ここ、考えて使ってましたか?


これを言い出すと、荒川の土手を長髪のおっさんが歩いているところを思い出されるので嫌なんだけれど、他に言いようがないんだよね。
ま、いいか。


「悲しみ」や「痛み」は「やさしさ」の源なのです。


ほら、やっぱり思い出してる。
イントロが鳴り出してるでしょ?
歌うなってば。
♪人は♪悲しみが・・・・・・
やめろ!真似までするな!


でも、そうなんですね。


「悲しみ」と「やさしさ」はセットです。
だから、「慈悲」なのです。


仏様は、自分を痛む必要がないので、ただただ、私たち人間を憐れみ、慈しんで下さいます。
しかし、私たちは、まずもって、自分が痛い。
「こんな私に誰がした?」
と、思わずにはいられないほど、自分が悲しい。
人のことなど構ってはいられない程、恥ずかしい。


でも、それでいいのです。
そこが阿弥陀様の狙いです。
そんなあなたなら、人のありがたさが、身に染みてわかるはずですから。
人のありがたさがわかれば、人にやさしくもなれるますよね?


と、いうことで、気付いていただけましたでしょうか?


戒律というのは、道徳規範ではありますが、自分の身を律する規範です。
自分が○○しない。
自分が○○する。
基本的には、自分一人の問題として規範があるわけです。
さすが、出家の教えです。


例えば、「嘘をついてはならない」という規則を守りたいなら、誰とも話をしなければ守れます。
誰とも会わなければ、話をする必要もありません。
「出家」=「社会的存在でなくなること」
「戒律」=「出家者の修行」
という原則が、しっかりと生きているのです。


ところが、阿弥陀様は、そんなに甘くはないのです。
「出家しなくても良いよ」
というのは、実に、
「娑婆から逃げ出せないよ」
という、終身刑の宣告なのです。


浄土教では、この世のことを「穢土」と呼びます。
「汚れた世界」ということです。
それが「娑婆」です。
私たちが、毎日毎日、地獄を現出させている、この世界です。
「ここに、留まれ」
「ここで、生きろ」
それは、社会的存在であり続けろという、御命令です。


だから、阿弥陀様の倫理規範は、
「自分がどうするのか?」
という、個人的規範ではなく、
「自分が、他者と、どう向き合うのか?」
という、社会的存在としての課題を、私たちに突き付けるのです。


「仏が人と向き合うように、他人と向き合えているか?」
「仏に向かうような気持で、他人と向き合えているか?」


できるわけがありません。
すると、
「(そんなお前が)仏に成るべき身であることを、恥じろ」
「自分の不甲斐なさに、泣け!」
「その情けない姿が、本当のお前なんだ、痛め!恥じろ!泣き叫べ!」
阿弥陀様、ドドドドドドSです。


そして、
「その、ありのままの姿で外(社会・娑婆)へ出ろ!」
「飾るなクズ!守る価値のあるお前なんていない!」
「飾るから辛くなる。守ろうとするから敵ができる。」
「そのままで人と向き合え、裸で生きろ!」
と、尻を叩かれた挙句に、
「それでも、お前を見捨てない。成仏させてやるから、仏に成るべき身として生きろ!」
飴のようで、エンドレス。
ふりだしに戻る。
成仏(死ぬ)の時まで、ずーっと、これの繰り返し。


こんな、阿弥陀様の不条理とも思える深謀遠慮に気付いてしまった親鸞聖人は、朴訥に、こんな御生涯を送られました。
親鸞聖人に学ぶ者にとっては、歴史上実在した活きた規範が、そこにあるわけです。
「挑み」→「折られ」→「また挑み」→「また折られる」
「気付き」→「忘れ」→「また気付き」→「また忘れる」
その繰り返しです。
ただただ、その繰り返しなんだと思います。
でも、無駄に繰り返しているわけではない。
繰り返すたびに、「ちょっとはましになる」ような気がしませんか?


この「ちょっとまし」というのが、親鸞浄土教の救済のポイントだと思うんですよ。
イタイ自分を思い知らされるたびに、ほんの少しだけ、仏が近付いてくる。
遥かに遠いままではあるけれども、ちょっとだけ、仏に近付いている。


「願いが叶う」とか、「欲望が満たされる」とか、そんな目に見える変化はないけれど、ほんの少し、嫌いなことが減っていたり、食べるものが美味しく思えてきたり、裏切られても腹が立たなくなってきたり、人の話が聞けるようになっていたり、ね。
仏教的な言い方をすれば、気が付けば「苦が減り、楽が増えてる?」って、ことかな。
ささやかだけれども、微々たる進歩ではあるけれども、繰り返し繰り返し、骨の髄まで叩き込まれた、それは、後戻りしない進歩だと。
それを、仏教の言葉で「不退転」と言うのではないでしょうか?
劇的変化を遂げて後戻りしない、なんてことありますか?
そもそも、本質的に変われますか?変わったってわかるほど?


阿弥陀様に叱られ、心を折られるたびに、少しづつ成長させられてしまう、そんなシステムになってるんだと思うんですよ。
それが、親鸞聖人が理性で見出された、浄土教であり、仏教だと思うのです。


これ、阿弥陀様に折られるから大丈夫なんですよ。
阿弥陀様だから、最後に成仏という責任を取ってもらえるから、折られても成長できるんです。
人がやったら、質の悪いカルトでしかありませんからね。
「自らを省みろ!自省しろ!」
「自分がどれだけ悪い奴だか、わかったか!」
とかって、目クソ鼻クソな人間にやられたら、「洗脳」か「死」か、ですからね。
こういうことやってる人たち、結構な数知ってますけど、阿弥陀様の「勅命」だから耐えられるのであって、人間ごときに「命令」されたら、命令する奴は殺しても正当防衛ですからね。
違う?そう?


話がずれっ放しているので、まとめに入ります。
結局、阿弥陀様が「無戒」である代償として、私たちに下された「勅命」は、
「痛みを知り、痛みのわかる人間であれ」
って、ことで、よろしいですか?
「人の痛みがわからない人間は、人ではなく、阿修羅、餓鬼、畜生だ!」
と、いうことですね。


なんか、締められた気になれたので、今日はここまで。

(見真塾サルブツ通信Vol.0035より)


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