都々逸と作詩

都々逸の学びと創作を中心に作詩関連や雑記、散歩写真など。

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都々逸の誕生と神戸節

都々逸について学ぶつもりならば、その歴史についても調べるべきであろう。都々逸はどのようにして生まれ、どのような変遷を経て今に至っているのか。歴史を知ることは、都々逸とは何かという問題を明らかにするためにも役立つはずだ。 

実は、少し都々逸について調べ始めると、都々逸には色々な側面や種類のようなものがあって「これが都々逸である」と分かりやすく説明するのは、なかなか難しいことに気がつく。
なぜそんなことになっているのかについても、都々逸の歴史を紐解いていくことで、少しずつ明らかにできるのではないかと考えている。
 

 

都々逸坊扇歌と都々逸 

 

都々逸はどのようにして生まれたのであろうか。 

「都々逸は、江戸末期に流行し、都々逸坊扇歌によって大成された」と、いうようなことが辞書には書いてある。何をもって「大成させた」ということになるかは分からないが、都々逸坊扇歌によって都々逸が広められたのは間違いないようではある。 

 

ただし、都々逸坊扇歌は都々逸の創始者ではない。都々逸は「神戸節(ごうどぶし)」という音曲から生まれたというのが現在の通説のようである。その神戸節が生まれたのは享和の頃というから、江戸時代も後期に入ったあたりということになる。 

 

神戸節は、東海道五十三次の四十一番目の宿場である「宮宿(みやしゅく、みやじゅく)」にある「神戸(ごうど)」という花街で生まれ流行り出したようだ。誰が始めたのかは分からない。
分からないのが当時としては当たり前のことである。分からないというよりは、分かるようなものではなく、誰かが何となく始めたものが、様々な人に色々と改良されながらだんだんと成立していったのであろう。
 

 

宮宿は、宮の宿とも熱田宿と呼ばれた宿場町で、現在の愛知県名古屋市熱田区にあった。東海道の最大の宿場であり、古くから熱田神宮門前町としても、港町としても大いに栄えた。 

そうした宿場の花街であれば、人も金も多く集まり、客の心をつかむための芸も大いに競い合ったであろうから、新たな文化や音曲が生まれる素地は十分過ぎるほど整っていたに違いない。 

 

神戸節と呼ばれるのは、神戸という花街で生まれ流行り出したためであろうが、この音曲は「ドドイツドイドイ」といったような囃子言葉で唄われていたため「ドドイツ節」とも呼ばれるようになっていったようだ。また、江戸やその他の地域へは「名古屋節」と呼ばれて伝えられた場合もあるらしい。 

 

どの時期に、都々逸坊扇歌がドドイツ節と出会ったのかは不明である。しかし、神戸節がドドイツ節とも呼ばれるようになった後の、ある時期であることは間違いないだろう。 

そして、都々逸坊扇歌が、おそらく独自のアレンジを加えて流行らせたドドイツ節が、今の都々逸に繋がっているのではないかと推測する。つまり都々逸は、都々逸坊扇歌が創始したから都々逸なのではなく、都々逸坊と名乗って都々逸を広めたのが都々逸坊扇歌なのである。 

 

都々逸坊扇歌がどんな人物であったのかについては、あまりよく知られておらず、詳しく書こうとすると仮説だらけになってしまい分かりにくいため深掘りはしない。伝えられている略歴をごくごく簡単に記すだけとしておく。 

文化元年(1804年):常陸国久慈郡佐竹村磯部に、医師岡玄策の次男として生まれる。幼少期に疱瘡にかかり眼を患う。

長じて、流浪に出たとも門付をしていたとも言われるが不明。 

文政六年(1823年):二十歳の頃、江戸へ出て音曲噺で人気のあった船遊亭扇橋の弟子となる。 

その後、さまざまな芸を身につけ(都々逸もその一つ)て、芸人として人気を博す。 

天保十年(1839年):老中水野忠邦による天保の改革で、多くの寄席が廃業に追い込まれ、音曲も禁止。その煽りで扇歌も窮地に立つ。 

天保十四年(1843年):水野忠邦が失脚して天保の改革が終わると、扇歌は復活して、以前にも増して大いに人気を得た。 

嘉永五年(1852年):四十九歳で死去と伝えられる。墓所常陸国府中菩提山来高寺千手院。 

 

都々逸坊扇歌の主な活躍の場は江戸であり、江戸に都々逸を広めた功績は大きいのだと思う。 

 

ちなみに、都々逸坊扇歌の名の表記にも「都々逸」という漢字が使われており、「どどいつ」は「都々逸」と表記されることが多いが、これは「ドドイツ」という音へ当てているだけで特に意味があるわけではない。ひらがなで「どどいつ」と表記することもあり、[度々逸]や[百々一][都々一]など、別の字を当てることもあったようだ。音に当てたもので、意味があるわけではないため表記する文字に決まりはないのである。 

本ブログでは基本的に「都々逸」を使っているが、他のものより多く使用例を見かけるため、長いものに巻かれて多数に従って使っているだけで、それ以上の理由はない。
ただ、都々逸を世の中に普及させるためには表記を統一した方がいいと個人的には思う。
 

 

また、いずれその内に考察したいと思うが、この「どどいつ」表記の不統一問題に加え、呼称の不統一問題もある。明治から昭和の初期くらいにかけ、「都々逸」という呼称に代えて、「俚謡正調」や「情歌」や「街歌」など色々な呼称への変更が提唱され、実際に使われてきた。そのそれぞれには崇高な理念や高邁な理想があってのことであろうが、今日の都々逸の衰退をみると、呼称の不統一もその一因になっているようにも思えてならない。

 

神戸節と都々逸

さて、都々逸を生み出した神戸節はどんな音曲であったのだろうか。実は音声で復元されている。そして誠にありがたいことにYouTubeに上げられている。 

その復元の経緯や神戸節についての説明、復元された方々については、下記 YouTubeのリンク先に記載されているので見ていただきたい。

神戸節(ごうどぶし)/桃山晴衣 
youtu.be

このブログ『都々逸と作詩』は、主に都々逸の文句(歌詩)についての学びを目的としている。そこで、上記の動画から唄の文句を抜き書きし、解釈を試みたい。
都々逸の元になった神戸節がどのような内容を歌っているのか知ることで、都々逸とは何かを考える参考にもなると思うからである。
 

 

【以下、抜き書き】 

1)お亀買ふ奴天窓(あたま)で知れる油つけずの二つ折れ 

  其奴(そいつ)はどいつじゃ其奴はどいつじゃ 

 

2)華表(とりい)ふたつ越えて宮まで行けば尾のない狐に化かされた 

  其奴はどいつじゃ其奴はどいつじゃ 

 

3)宮の宿(シュク)から雨降る渡り濡れて行くぞえ名古屋まで 

ドドイツドイドイ浮き世はサクサク 

 

4)おやせなされた三日月さまよやみのあげくのはずじゃもの 

  ドドイツドイドイ浮き世はサクサク 

  

5)かわす枕がもの云うならばわたしゃはづかし床のうち 

其奴はどいつじゃ其奴はどいつじゃ 

ドドイツドイドイ浮き世はサクサク 

【以上、抜き書き】 

 

よく分からない部分もあるが、とりあえずわかる範囲で解釈に取り組んでみる。 

 

1)お亀買ふ奴 天窓(あたま)で知れる 油つけずの 二つ折れ 

其奴はどいつじゃ 其奴はどいつじゃ 

  

「お亀」とは、宮の宿(東海道の最大の宿場町)の飯盛女のこと、つまり宿場女郎のことである。 

「天窓」は、この場合は人間の頭のことのようだ。 

「油つけずの二つ折れ」は、そういうヘアースタイルのことであり、「油付けず」というのは整髪油をつけていないという意味であろう。「二つ折れ」というのは、髷を二つに折った髪型らしい。 

  

具体的にどういうヘアースタイルなのか、私には当時の風俗について知識がないので分からない。また、それが何を表しているのかという点についても、解釈は色々できるが、断定することはできない。 

「油つけずの二つ折れ」は、整髪油もつけないで二つに折っただけの「粗野な髪型」という意味なのか、逆にそれが当時流行の「お洒落な髪型」なのか、「遊び人の典型的な髪型」なのか、もっと別の意味なのか。残念ながら当時の風俗について知識がないのでわからない。 

  

髪型で何を言い表そうとしているのかで、この唄の解釈は違ってくるが、とりあえずわかる範囲でまとめると、 

「宿場女郎を買う奴は髪型でわかる。整髪油をつけずに髷を二つに折った髪型をしてるからだ」 

ということになるだろう。 

  

「其奴はどいつじゃ 其奴はどいつじゃ」は囃子言葉ではあるが、そのままの意味で解釈していいであろう。 

「そいつは誰だ、そいつは誰だ」 

  

  2)華表(とりい)ふたつ越えて 宮まで行けば 尾のない狐に 化かされた 

  

「華表」は「とりい」と読んでいるので鳥居のことだと思う。 

「宮まで行けば」の宮は、宿場女郎がたくさんいた宮の宿場のことであろうか。 

「尾のない狐」は、よく使われる表現だ。狐のように人(男)をだます女のこと。人間の女だから尾のない狐ということになる。 

  

つまり、 

「華表を二つ越えて宮の宿へ行ったら、あやしい宿場女郎にだまされ(て金品を巻き上げられ)た」 

という意味であろう。 

  

しかし、あるいは、「宮まで行けば」の宮は、神社のお宮と掛けているかもしれない。そうだとしたら「鳥居を二つ越えてお宮にお参りに行ったら、お狐様のニセモノにだまされた」というのを表向きの意味にして、暗に宿場女郎にだまされたことを表現しようとしているのかもしれない。 

 

3)宮の宿(シュク)から 雨降る渡り 濡れて行くぞえ 名古屋まで 

ドドイツドイドイ 浮き世はサクサク 

  

これは、 

「宮の宿を旅立とうとしたら雨が降ってきた。雨が降ると七里の渡し舟が出ないので、美濃路で名古屋を通って濡れながら歩いていこう」 

という意味になろうかと思われる。 

  

「七里の渡し」とは、宮の宿から桑名宿へ渡る舟の発着場、渡船場である。宮の宿から桑名宿へは舟で行くのが本筋のようだ。 

これに対して陸上で行く「美濃路」は、宮の宿から名古屋を経由して、中山道の垂井宿へ繋がる脇往還である。七里の渡しの海路を避け、陸路を選ぶ場合に利用された。 

  

ただし、それだけの意味だと面白くないようにも思うので、別の解釈があるのかもしれない。「濡れて行くぞえ」あたりに何か隠された意味があるのかもしれない。 

  

「ドドイツドイドイ」は囃子言葉であるが、「其奴はどいつじゃ 其奴はどいつじゃ」から派生したものかもしれない。 

「浮き世はサクサク」も囃子言葉であるが、「サクサク」は強いていえば「さっさと、さっさと」というような感じだろうか。「浮世の営み(人生)は、さっさと過ぎ去っていくよ」と、いった意味だろうか。 

  

  

4)おやせなされた 三日月さまよ やみのあげくの はずじゃもの 

  

「おやせなされた」というのは痩せるの意味他に、月の満ち欠けの欠けのことで、満月が欠けて三日月になったことを言っているのではないだろうか。 

「やみのあげくの」の「やみ」は、「闇」と「病み」を掛けていると思われる。 

  

つまり、 

「お月様が欠けて三日月に見えるのは、闇のずっと向こう(地球からずっと離れた所)にいらっしゃるはずだから」 

という意味と、 

お月様に誰かを掛けて「痩せてしまわれた、病をしていらしたはずだから」と歌っているのではないだろうか。 

  

ちなみに、この文句にかなり似た都々逸がある。 

 

やつれさんした 

三日月さんよ 

お前そのはず 

やみあがり 

 

この神戸節の文句と何か関係があるのかもしれないが不明である。

  

  

5)かわす枕が もの云うならば わたしゃはづかし 床のうち 

  

枕を交わした時(のことを見ていた)枕が、もし喋れるなら、床の中でしたことを吹聴されてしまいそうで、私は恥ずかしい。 

ということだろうか。 

あるいは、「かわす枕」というのは行為の相手のことかもしれない。 

いずれにしても、この神戸節を都々逸の源流として考えた時に、いかにもそれっぽい艶気のある歌だと思える。  

 

都々逸をさらに神戸節以前まで遡る

では、都々逸を生んだ「神戸節」はどのようにして成立したのであろうか。 

遡っていくと、神戸節は「よしこの節」の影響で生まれ、よしこの節は「潮来節」から生まれ、潮来節は「伊勢音頭」から生まれたようである。古い順に書けば、 

「伊勢音頭」→「潮来節」→「よしこの節」→「神戸節」→「ドドイツ節」→「都々逸」 

と、なる。 

このことについては、またいずれ書きたいと思う。 

  

いずれにしても、今日の言葉で言えば、それらは「民謡」である。 

  

民謡という言い方が適切なのかどうかはわからない。
民謡という言葉は「Folk Song」の訳語であり、明治以後に作られた言葉である。これらの歌が成立した時代には存在していなかった言葉だ。民謡というのは、どういったものからどういったものまでを指す言葉なのか非常に曖昧である。そんな曖昧な翻訳語を使うと、分かりにくくなってしまう恐れはあるが、今は適切な言葉は見つからないで、仮に「民謡」と呼んでおく。
 

  

そして、この小稿の最後で、私が明らかにしておきたいのは「都々逸の源流は民謡にある」ということだ。 

最初に、 

「少し都々逸について調べ始めると、都々逸には色々な側面や種類のようなものがあって『これが都々逸である』と分かりやすく説明するのは、なかなか難しいことに気がつく」 

と、書いたが、それは後の時代の都々逸のことであり、源が民謡にあるということは疑いはない。 

また、都々逸は必ずしも「伊勢音頭」→「潮来節」→「よしこの節」→「神戸節」→「ドドイツ節」という流れの先だけにあるわけではないようにも思えている。
これはまだ根拠がはっきりしない私の個人的な見解なのだが、いずれ説明を試みたいと希望している。

しかし、それでも都々逸の源流が民謡にあることには間違いがないと思う。