今回のテーマも映画とプロパガンダです。ここではパラマウント・ピクチャーズの歴史に触れていきましょう。

 

それでは見ていきましょう。

 

 

 

アドルフ・ズーカー

パラマウント・ピクチャーズの創設者のひとり、アドルフ・ズーカー(1873 - 1976)はハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人です。


アドルフ・ズーカー

1891年にニューヨークに移住し、室内装飾店で働きました。その後、毛皮屋の見習いとして働くことになります。20歳の時には熟練したデザイナーとなっていました。1893年に毛皮事業を始め、支店を開設するほどになります。

1903年にいとこのマックス・ゴールドスタインが劇場に興味をもって融資を求めてきたことをきっかけに、ズーカー自身も映画業界に関心を持つようになりました。その後、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、ニューアークに一種のアミューズメント施設であるペニー・アーケードを開きました。

1912年、ズーカーはフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーを設立しました。その後、1916年にはサミュエル・ゴールドウィンの義理の兄にあたるジェシー・ラスキーの会社と合併し、フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーを設立しました。

ズーカーのパートナー、ジェシー・ラスキー

ズーカーの成功はすさまじいもので、1918年にはニューヨークに東京ドーム25個分に相当する広大な土地を買い取っています。そこに巨大な家とゴルフコース、プールなどを建設しています。さらに2年後に施設を倍以上拡大し、ズコーの私有のパラマウント・カントリークラブを作っています。

その後、今日知られるフェイマス・プレイヤーズ・ラスキーはパラマウント・ピクチャーズと改めました。

 

パラマウントのロゴ

 

パラマウント・ピクチャーズ

1920年代半ばには、その収益はフォックスの2倍、ユニバーサルの3倍、ワーナーの5倍ほどにもなっていました。

パラマウントは1948年のパラマウント訴訟まで、ハリウッドに圧倒的な地位を築いていました。パラマウントからゲイリー・クーパーやマルクス兄弟など、多くのスター俳優が誕生し、また、デイヴィッド・グリフィスのような名監督も輩出しています。特に大きな成功を収めたと言われるのが、女優のメイ・ウェストです。1933年の彼女の作品、『She Done Him Wrong』、『I'm No Angel』では、当時のパラマウントに巨万の富をもたらしたと言われています。

メイ・ウェスト

1928年に、パラマウントは、ユダヤ系のアニメーター、フィッシャー兄弟のフィッシャー・スタジオが製作した無声アニメーション、『アウト・オブ・ザ・インクウェル』をリリースしています。当時、フィッシャー兄弟はウォルト・ディズニーに対抗しうる数少ないアニメーターでした。

その後彼らが製作した『ポパイ』は、当時、ミッキーマウスを凌ぐ人気を誇っていました。フィッシャー・スタジオはやがてパラマウントに買収され、フェイマス・スタジオと改めています。フィッシャー兄弟は、パラマウントの管理下に置かれることでその知名度を失い、歴史に大きく名前を刻むことができませんでした。

 

 

ポパイ(1933 - )

 

パラマウント訴訟

ここでは1948年に判決が下されたパラマウント訴訟について触れたいと思います。

当時のアメリカの映画会社は5大企業とそれに続く3大企業によって牛耳られていました。

映画業界は、映画を製作する製作部門、製作した作品を映画館に卸す配給部門、それを映画館で放映する興行部門の三部門から成り立っています。

当時の映画会社の大手企業は、まず映画館を営む興行部門からスタートし、その後、配給部門を抑え、最終的には映画製作にまで進出するという形を取ることで巨大な企業へと成長していきました。

特に抜きんでていた5大企業がズーカーのパラマウント・ピクチャーズ、ルイス・メイヤーとマーカス・ロウのMGM、ワーナー4兄弟のワーナー・ブラザース、デビッド・サーノのよって創設されたRKO、ウィリアム・フォックスの20世紀フォックスでした。

これに準ずるの3企業がユニバーサル・ピクチャーズコロンビア・ピクチャーズ、そしてユナイテッド・アーティスツでした。

当時のハリウッド8大企業

この8つの企業が、興行部門・配給部門・製作部門を自社で抑えることによって、製作した映画の優劣にかかわらず、安定的に映画を供給できる体制を築き上げていきました。

このため市場は寡占状態に陥り、特に5大企業によって、独立系の製作会社などは、製作した映画を映画館で放映できないという状態へと追いやられました。

このためアメリカの司法省が苦情や抗議にこたえて、この5社を相手に独占禁止法に触れているとして訴えることになりました。

裁判は長引き、1948年の地裁での敗訴を、RKOが、次いでパラマウントが合意しました。この結果、製作・配給・興行の三部門のネットワークは解体され、自社所有の映画館を手放すことになりました。

この判決と相まって、一般家庭にテレビが普及しだし、映画館の観客は徐々に減少傾向へと向かうようになりました。

この結果、かつては安定して供給できた低予算かつマイナーなB級映画が減少せざるをえなくなり、映画製作は大作主義へと移行していきました。1960年代から1970年代にかけて、映画の都ハリウッドは崩壊の危機に立つことになりました。

この一連の出来事をパラマウント訴訟といい、5大企業のなかでも最大手のパラマウントの名前をとって、以後このように呼ばれるようになりました。

ハリウッドと三大ネットワーク

訴訟の後、パラマウントは、長らく失速することになりましたが、70年代に『サタデーナイト・フィーバー』や『グリース』の世界的大ヒットを記録しました。また66年からパラマウント・テレビジョンから『スタートレック』シリーズが始まり、テレビシリーズのSFが開始されています。『スタートレック』は現在に至るまで断続的に数々の作品が生み出されています。

 

『サタデー・ナイト・フィーバー』


80年代以降、パラマウントは数々の映画が世界的大ヒットを遂げます。『13日の金曜日』(1980)、『インディー・ジョーンズ』シリーズ(1981 - )、『トップガン』(1986)、『クロコダイル・ダンディー』(1986)、『ゴースト』など挙げるときりがありません。

 

『トップガン』(1986)


1994年にバイアコムに買収され、現在はアメリカ三大ネットワークのCBSコーポレーションの傘下に置かれています。ユニバーサル・ピクチャーズがNBCグループであり、いかにハリウッドと三大ネットワークのつながりが強いのかということもわかります。

CBSのロゴ

アメリカを中心とした欧米のメディアは誰が握っているのかという手がかりを知る上でも、ハリウッドの歴史を覗き見る必要があると思います。

 

現在ささやかれているハリウッドのセレブリティに関する聞くに堪えないダークな噂も、今後、私たちが向かっている世界の実像を洞察するうえでも無視できない問題だと思われます。

 

 

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。

 

 

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