今回のテーマはサタニズムとアブラハムの宗教について話します。

 

 

 

カニバリズムの秩序

ユダヤ系フランス人の思想家ジャック・アタリは、人類は古代から現在に至るまでカニバリズムの秩序によって成り立っていると考えています。カニバリズムというのは人間が人間を食することです。

 

私たちが暮らしている社会システムの多くが、つまり、聖職者のシステムも、権力者のシステムも、警察のシステムも、医療のシステムも、教育システムも、情報産業システムも、ほとんどすべてが直接的にも、間接的にもカニバリズムの秩序で成り立っているというわけです。

 

一般的常識、もう少し正確に言いますと、一般的な日本人の常識から考えると何を言っているのかわからないわけですが、このジャック・アタリという人物は、欧米社会では一定の評価を得ており、ヨーロッパ最大の知性とまで言われる存在となっています。

 

以前の記事でも紹介した通り、現在、このジャック・アタリは世界の主要な国家の元首よりも権力があると見なしてもよいほどに、世界でも非常に影響力がある人物です。

 

しかしながら、彼の言っていることは、ここ最近のアメリカの情勢やそれにまつわる情報から鑑みると、実際に的外れのことを言っていなかったということになるでしょう。

 

私たち日本人が知らないところで、密かに世界は人が人を食べるというカルチャーを共有している人たちが世界のルールを策定し、世界をコントロールしているという恐るべき情報がこの日本にも届けられるようになってきました。

 

多くの一般的な日本人はこれまで全く知らなかったことですが、日に日にこの事実は、少しずつですが、事実として認識されるようになってきました。

 

少し前の時代であれば、このようなことは、馬鹿げた都市伝説やカルト的にな陰謀論とし、嘲笑の対象にされてきたかもしれません。

 

しかし現在は、2016年の大統領選の頃にヒラリー・クリントン陣営からリークされたメールから明らかになったピザゲートを起点として、エプスタインの逮捕にはじまる一連の出来事がありました。

 

これらの話は、多くの人々にとってあながち嘘デタラメなどではないと感じられるようになりました。

 

こういった最新の情報とジャック・アタリのカニバリズム論を照らし合わせた場合、欧米社会を中心に、私たち日本人が知らない、そして想像だにしなかった、抽象的な、あるいは比喩的な意味ではない、具象的な意味でのカニバリズムの秩序が展開されていたと考えられるわけです。

 

ジャック・アタリは西欧を中心とした世界文明は、すべてがカニバリズムの秩序を前提として成立し、聖職者、政治家、警察官、軍人、医療従事者、教育者などが、この秩序の中で発展してきたと考えてきたわけです。

 

ジャック・アタリはユダヤ人は世界でも前衛的な存在と表現しています。それは恐らくカニバリズムの体現者として、このカニバリズムを乗り越えるべく、新しいカニバリズムによって世界の秩序を書き換えようと志してきたと考えているからにほかなりません。

 

ジャック・アタリは旧約聖書(タナハ)や新約聖書の中から多数のカニバリズムを匂わす表現を紹介します。

 

主なる神はこう言われる。人の子よ、諸種の鳥と野の獣とに言え、みな集まってこい。

 

わたしがおまえたちのために供えた犠牲、すなわち、イスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まり、その肉を食い、その血を飲め。おまえたちは勇士の肉を食い、地の君たちの血を飲め。

 

雄羊、子羊、雄山羊、雄牛などすべてバジャンの肥えた獣を食え。

 

わたしがおまえたちのために供えた犠牲は、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲め。

 

おまえたちはわが食卓について馬と、騎手と、勇士と、もろもろの戦士とを飽きるほど食べると、主なる神はこう言われる。

 

                ――エゼキエル書39章17-20

 

ジャック・アタリはユダヤ教およびキリスト教の中にカニバリズムが潜んでいることをはっきりと告白し、このように言っています。

 

われわれは、食人種となることをやめることによってしか、食人種であったことから逃れる術はない。

 

そして、わわれわが食人種となることをやめるには、今日まで凌駕されずにいる<カニバリズムの秩序>そのものを、<悪>として、そのように対処すべきものとして追いつめる以外にない。

 

ジャック・アタリに限らず、ユダヤ系フランス人の文化人類学者、レヴィ・ストロールが、現代社会にカニバリズムが残存しているということを密かに告白しています。

 

ジャック・アタリはユダヤ社会の中にあって、この<カニバリズムの秩序>を克服しようという意思があるかのような記述もこのように行っているわけです。

 

しかしながら、いずれにせよ、比喩的な意味での<カニバリズムの秩序>も含めて、このことを克服することが概ね不可能に近いということを感じているかのようでもあります。

さて、聖書に戻りましょう。旧約聖書および、新約聖書も含めて、ユダヤ教およびキリスト教の中には暗にカニバリズムを肯定的に論じているかのような記述があります。

 

私たちは彼らの行いを悪魔崇拝として表現するわけですが、悪魔と対義をなす、ヤハウェが、預言者の口を借りて、神の意志としての<カニバリズムの秩序>表明していると捉えることができます。

 

悪魔崇拝を論じるとき、多くの人たちが「神」であるヤハウェに歯向かうバアル、モレク、マンモン、バフォメット、ルシフェルに対する崇拝を否定的に論じますが、その、ヤハウェという神もまた、現在、悪魔崇拝を行っている人たちの所業を肯定するかのようなことを、預言者の口を借りて言っているというわけです。

 

従って、いわゆる悪魔崇拝者からの批判として、ヤハウェこそが悪魔ではないかという非難が投げかけられるわけです。実際に一部のユダヤ人からも、クリスチャンからもこの種の非難を行っています。

 

これがアブラハムの宗教の怖さなのです。実際にはアブラハムの宗教特有の現象とは言えません。宗教全般に絡んでくる非常に厄介な問題です。

バアルも、モレクも、マンモンも、バフォメットも、ルシフェルが生贄を否定するはずもありませんが、ユダヤ教においても生贄は当然のものとして行われます。

 

羊や鶏が掻っ捌かれる儀式など、様々な動画で目にすることができますが、世界の宗教は生贄の儀式と共に始まり、実際にそれと共に発展してきました。

 

そしてそれは今も社会のどこかで留まり続けており、それらの儀式は聖職者や権力者たちによって行われ続けています。

 

そしてまた、生贄の対象として必ずしも人間が除外されているわけでもなかったわけです。

 

ユダヤ教では人を生贄としてはいけないことになっていますが、いつしかゴイム(異教徒・異邦人)はよいという解釈が行われるようになっているとも言われています。タルムードなどにそういった記述がみられると言われています。

 

そして事実、ユダヤ人の中にはゴイムは決して人間ではないといって憚らない人間が山のように存在しているわけです。

 

もちろんユダヤ教の一宗派であるキリスト教においても、これらに類似した解釈は生じ得るわけです。キリスト教にとって、キリスト教以外はすべて悪魔崇拝であるという考え方があります。

 

そして同時に同じキリスト教であっても、同じように異なる宗派に対して悪魔崇拝者であるという認識で排斥する傾向を持っています。彼らにとって悪魔崇拝者に濃淡はありません。

 

自分たちと同じ信仰を持っていない人たちは、例外なく、悪魔崇拝者というカテゴリに入れられるわけです。

 

キリスト教の中には子供たちに対する虐待や体罰に対して肯定的な考えをもっている宗派は多数あります。それはもちろん、悪魔を近づけないためという理由なのでしょうけれど、これを見る限り、私はジャック・アタリではないですが、そこに聖職者によるカニバリズムを見るわけです。

 

私はジャック・アタリに対して肯定的な考えを持っていません。なぜなら、彼らはカニバリズムを超克するためには、新しいカニバリズムを想像する術しか編み出してこなかったからです。

 

これは大陸で生まれた文化ゆえにやむを得ない部分があるでしょう。弱みを見せたらすべて簒奪されるのが、大陸文化なわけです。どんなに高潔であっても、どんなに清廉潔白を目指そうとも、侵入してきた野蛮人にとって、彼らの高潔さには何の意味もないわけです。

 

長く島国で暮らしていた日本人にとって、まったく理解できない世界ですが、とはいえ、日本でも時折、国内で宗教や権力者が悪魔的なふるまいをすることがあったわけです。

 

しかし、日本ではそれが長続きすることがなかったわけです。理由はいくつか考えられますが、単純に文化圏が大陸と比較して小さく、更に基本的に同質的であるという点が挙げられると思います。

 

しかし、明治維新に伴い、欧米の文化が流入するとともに、日本にもカニバリズムの秩序が少しずつではありますが、浸透してきたと考えることもできるでしょう。

 

繰り返しますが、キリスト教はユダヤ教の一宗派です。いくつもの彼らの宗派が、排他的であり、かつ、すべての日本の宗教や文化にサタニズムを見るように、日本の文化に対して、一切の妥協を見せず攻撃的です。

 

もちろん、こういった性向はすでに、古代のカナーン地方において人々の想像によって生み出されたヤハウェにもみられるわけです。

 

はっきり言いますが、彼らにとって日本の伝統を引き継ぐ一切の物事が否定的要素として扱われます。神社・仏閣はこの島国から排除する対象ですし、日本の政治も基本的にはクリスチャンによって主導されるものとして、司祭や聖職者が権力をつかむことになります。

 

彼らははっきりとは言いませんが、自民党を排除した暁には、司祭や聖職者が日本の在り方を設計する社会が想定されています。彼らにとって神権政治は当たり前のことです。

 

アメリカについても現在はトランプを支持しているような記述を寄せていますが、最終的にはトランプも排除すべき存在となります。

 

保守派が宗教と向き合うとき

 

私は政治思想上、保守派に属します。もう少し正確に言いますと、イギリスの政治家エドマンド・バークを始祖とする近代保守思想から提示される思考形態に、多くの深慮や示唆を見出しているという立場です。

 

現在、アメリカでは共和党によって、サタニズムが攻撃されていますが、共和党は本来はアメリカの保守派の役割を担い、新自由主義や新保守主義の流入によって、少しずつユダヤ人による考え方が浸透してていきましたが、それ以前は、ラッセル・カークに見られるような伝統的な保守派が、小さくない程度の発言権を持っていました。

 

エドマンド・バークの話に移りますが、彼は宗教的には国教会に属していましたが、母親がカトリックであり、これによってしばしば批判にさらされました。イングランドとアイルランドにおける宗教対立にあっても彼は国教会とカトリックとの間での葛藤に苦しんでいた部分が見受けられます。

 

彼はキリスト教の強固な擁護者ではありましたが、基本的には政治的議論においてほとんど宗教的な言及を行っていないように、世俗主義的な側面があります。エドマンド・バークの最大の役割は、イギリスにフランス革命が流入してくることを防ぎ、フランス革命を痛烈に批判したところにあります。

 

フランス革命の乱痴気騒ぎがイギリスの伝統を破壊するとして、痛烈に彼らの理念的支柱である人権思想と民主主義を批判しました。現在のリベラル批判の原点と考えることもできます。

 

彼は必ずしもイギリス政府に対して肯定的だったわけでもなく、アメリカの独立戦争の時代にはアメリカの植民地側を擁護し、東インド会社によるインドにおける横暴を痛烈に非難したことでも有名です。

 

近代保守思想の歴史などについては別の記事に譲るとして、現在のアメリカにあって保守派であり、愛国者を名乗る人たちから、反ディープ・ステートの動きが起こりました。

 

日本でも実際に保守的な立場、あるいはこの日本という国土への愛着によってこういった勢力と向かい合うべきであり、私たちは神権政治にこの国を明け渡すべきではないのです。もちろん現在、保守を自称する政党である自由民主党には、敗戦以来、多くのディープ・ステートの工作・謀略によって、ほとんどディープ・ステートの傀儡政権といってよいほどです。

 

一方でそれ以外の政党を見てみると、それ以外のすべての政党もディープ・ステートの傀儡政党のようなものです。それは当たり前のことです。

 

戦後教育を墨守してきた彼らから、ディープ・ステートを打倒するというロジックが生まれるわけがないからです。

 

保守派にとって大事な要素と言われているものには、3つの要素があると言われています。それは、伝統主義、懐疑主義、有機体主義です。

 

伝統主義とは文字通りですが、保守派は自分たちの伝統すらも疑い、新しく登場したトリックスターのような改革論者に対しても疑うという、深慮を求めらえる立場です。もちろん伝統主義でありながら、自分たちの伝統や宗教に対しても一定の疑いを持つ必要が求められます。

 

また保守派は有機体というものを重視します。有機体というのは、社会全体を見る視点を持つことです。伝統主義的な保守派は、フランス革命に対して攻撃を加えたように、個人の権利、人間の権利に対して、強い疑いを持つわけです。

 

新しいものや、奇異なものに安易に飛びつかない。今まで社会が築き上げてきた考え方や、思考方法を重視しつつ、それでもなお、社会が悪しき方向に向かったならば、社会に対する考え方や、思考方法に問題が生まれたものと認識し、それまでの考え方の何が問題だったのかを考えるということになります。

 

保守派は歴史的文脈において全体主義的な権威を否定しながら、絶えず、過去というものと向き合う立場ということになります。

 

私はカニバリズムの秩序と向きあうとき、日本の伝統的なスタンスである、和の精神というものがある程度有効であろうと考えています。

 

悪魔崇拝に対抗する手段は神権政治でも、神への信仰でもなく、和の精神であると、私は信じて疑いません。私は現代の日本人が和の精神を重んじているとは必ずしも思っていません。

 

日本は戦後の教育やメディアの洗脳によって、和の精神をカニバリズムの秩序に挿げ替えられてきたと、私は考えています。ここでは誰がということに言及することについては避けますが、私たちは私たち自身の在り方を単に見失っているだけです。

 

もともと、私たちの元にあり、それを戦後一貫してかなぐり捨ててしまったのです。おそらく和の精神だけでは物足りない部分もあるかもしれませんが、その一つの支柱として私は「和の精神」というものの復古を唱えたいわけです。

 

欧米や日本に潜んでいる悪魔崇拝者に対するのに、この国にはキリスト教は必要ないと私は思っています。そこから生まれるのは恐らくカニバリズムの上書きでしょう。世俗主義的なトランプだからこそ、ディープ・ステートと対峙することができると私は敢えて付け加えたいわけです。

 

そういった意味で、私は保守論については一定程度亡くなられた西部先生を参考にしつつ、保守派にあってディープ・ステートの議論に先陣を切ってくださっている馬渕大使を応援したいという立場なのです。

 

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。

 

 

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