禅と茶の集い

みをただし いきをととのえ すわるとき そのみ そのまま みな ほとけなり

仏心の坐禅

円覚寺の11月のオンライン坐禅会は横田老師がかねがね伝えたかったと仰られていた「仏心の坐禅」でした。

宝樹院さんの写経会に参加しようか悩みながらも,ストリーム配信のみですので日曜説教のように後で見返すことができないとあって今朝は円覚寺坐禅会の参加とさせていただきました。

 

先月の無字の坐禅が「止」ならば,今月の仏心の坐禅は「観」と申しましょうか,呼吸の体感から入り,最後は大海をイメージしていくという坐禅指導でした。

5分毎くらいに,短いインストレクションを横田老師がつぶやかれ,それに導かれながら,何やら深く深く海の底に潜っていくような,静謐で安寧な坐禅だったように思います。

 

「仏心」は円覚寺の先々代の管長であられた朝比奈宗源老師がよく使われた言葉です。 朝比奈老師が31歳の浄智寺の住職になられた際に,ある法話のあとに高齢の参加者から「あなたは修行されて道を究められ立派だと思うが,私のようなものにはその気力も体力もない」と呟くように言われたそうです。

 

その一言に朝比奈老師は「確かに私は禅の修行をして救われたが,大勢の人たちはどうすればいいのか?」という思いに居たり,仏教の他宗派の僧侶を尋ね,いろいろな勉強をされ村田和上の「浄土真宗の信心の世界」に目が開かれたそうです。

 

自分が悟ろうが悟らまいがわれわれはお釈迦さまがお悟りになったのとまったく同じ「仏心」の真ただ中にいるのだ。

すべての人は、この尊い「仏心」の中に生まれ、「仏心」の中に生き、「仏心」の中で息をひきとる。

生まれる前も「仏心」、生きている間も「仏心」、死んでからも「仏心」、仏心とは一秒時も離れてはいない。

 

と説かれるようになっていかれ,それまで禅寺では余りされてこなかった一般大衆への説教会も積極的に開かれるようになりました。

 

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「仏心」朝比奈宗源著 春秋社 まえがきより引用

<前略>
私のように禅をおさめたものから見ますと,浄土系の教えは,阿弥陀如来誓願によって仏心すなわち悟りを象徴して,その人心の説き方はまるで枇杷の実の皮をむき,核をとって肉ばかりにして,口に押し込んでやるようなやり方で,相手がこれをぐっと飲み込みさえすればよい。

これ以上たくみな親切な教えはなく,しかも真実なのでありますが,現代人のようにすべて仮説をきらい,真実をつきつめなくては承知できない人々には,西方浄土があるというような説き方では,ついていきにくいのではないかと思います。


またそれでは,すべての人が坐禅して悟りを得るまでいけるかというと,これも実際としてはまっさきにいいましたように,専門家ですら容易でないのですから,一般信者に困難なことは明らかです。

それで現代では,それらの理由からくる教化力の不足でせっかくの立派な大乗仏教も社会大衆とは縁のない浮き上がったものとなり,大衆はいかがわしい新興宗教に引きづりまわされているのであります。

そこで行き過ぎた信と行の分離をもとに戻し,一如したものとして「仏心」と言う言葉を用いて終戦後より円覚寺の日曜説教会として布教され,それまで禅寺には足を向けなかった大衆がたくさん興味を持ってくれるようになったそうです。

 

「仏心」のバトンは足立大進老師,横田南嶺老師へと繋がれ,日曜説教も脈々と継続されてのみなず,オンライン配信で世界に向けてますます多くの方々に「仏教」や「禅」が伝えられる契機となったと思います。

 

横田老師は今日の坐禅会の最後に

「立派になろうとか,うまく瞑想しようと坐禅するより,ゆったりと仏心の中で一呼吸しているんだと思いながら坐禅をする方がよいと思います。」

と締めくくられておりました。

 

1年半前の映像ですが「朝比奈老師」「仏心」について語られた日曜説教がありますのでご興味のある方はご覧ください。

www.engakuji.or.jp