劇作家・文筆家│佐野語郎(さのごろう)

演劇・オペラ・文学活動に取り組む佐野語郎(さのごろう)の活動紹介

「痛み」のことばが「歌」を生む⑴

2024年04月07日 | 創作活動
 私たちは、当たり障りのない言葉によって生きている。世間において、自分を護るために相手と摩擦を起こさないためにその場を保つために、表面的なコミュニケーションに必要な言葉を選んで暮らしている。本心から出た言葉は重かったり棘(とげ)があったりさえするので、日常生活を営む上で忌避されるのかもしれない。だが、無難で表面的な言葉は軽いために相手の心に届くことはない。相手との距離は縮まらないから自ずと人間関係は希薄なものとなる。
今は廃刊となった隔月刊誌に「痛み」のことばについて書いたことがある。

 …沖縄に「チムチャイサン」「チムグリサン」という方言があるが、「肝痛い」「肝苦しい」に由来し、ともに「かわいそうだ」を表す言葉だそうだ。筆者は、数十年前テレビドラマで耳にした「チムグリ…」が忘れられない。自分の内臓が痛む感覚、相手の辛い状態と一体になった人物の心の痛みまで伝わってきたものである。もしこれが共通語の「かわいそうね…」というセリフだったら、上っ面の同情表現で終わってしまう。
生徒たちに、相手のことを我がことのように思える他者への共感や人物の置かれた状況を多角的・多元的にとらえる複眼的思考を育むことができたら、文学の読解能力は飛躍的に伸びることだろう…「特集 文学を教えるということ(『文学』2014 9,10月号 149ページ/岩波書店)」

 お互いの気持ちを通わせ共感し合える言葉があってこそ人間は繋がり、社会に優しさと潤いが生まれるはずだ。わが国の現状はこれと真逆である。希薄な人間関係が広がりお互いの内面には無関心に―いやむしろそれを望んでいるかのようだ。しかしながら、人間は社会的動物、一人では生きていけない。もし自分だけが孤立していると感じたら、「だれかと繋がりたい」という衝動が突き上げてくる。それが果たせなくて<八方塞がり>の状況に陥ると、「事件」を起こす。自分という存在に気付いてもらいたくて<無差別殺人>などを犯してしまう。そこに「他者という存在への想像力」は微塵もない。

 「相手のことを我がことのように思える他者への共感」を私たちが失って久しい。少なくとも戦後から1970年代までそれは確かにあった。筆者の大学進学も身内ではない方の援助によるものだったし、小説家山本周五郎のペンネームの由来、映画監督山田洋次の『男はつらいよ』マドンナのモデル、そこには恩人がいたのだ。※幸せのBASE「心技体」~心③(終)2023/03/01 06:24:10カテゴリー:随想
 小説も映画も創作者の「核」から生み出される「ことば」である。苦境における心の痛みとそれをエネルギーにかえさせてくれた他者の存在に向けての「歌」でもある。昭和が終わり、平成・令和と時代が下るにつれ、その「歌」が徐々に薄れ消えていった。それに伴い、文字通りの《歌》、世間に流れている歌も、作詞・作曲・歌唱の全てにおいて変容していった。その実態と社会的背景について、また、今後の課題についても考えていきたい。
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人生の基盤構築~私の場合(後)

2024年03月07日 | 随想
 高校卒業後、少しでも収入が良く自分の可能性を拓くような職場を求めて二度転職した結果、当時は贅沢だった大学進学に舵を切ることになった。入学費用はこの苦学生に差し伸べられた手にすがり、学費は日本育英会の奨学金で、(食・住以外の)毎月の生活費は種々のアルバイトで賄った。
 1960年代後半、世界は冷戦下における戦争と社会変革の嵐が吹き荒れていた。日本国内では<ベトナムに平和を、市民連合!>のデモが知識人を中心に繰り広げられていたし、大学構内では「学費学館闘争」を旗印に大学当局への異議申し立てが叫ばれ、立看板とバリケードが林立していた。
 「この時代をどう生きるか、自分はどうあるべきか」―この時代思潮は当然のごとく芸術にも変化をもたらし、文学・美術・音楽は既成の表現とは全く別の手法が追求された。演劇においても古典劇・近代劇の構造を破壊し、戯曲形式も演技表現もこれまでに無かったものが生み出されていった。創造側に立つ舞台人も客席に座る観客も双方が求めていたからである。時代思潮のうねりは政治意識を高揚させ芸術文化を鋭く刺激した反面、その陰りと衰退がやがて「時代の傷」をもたらすことになる。
 入学した時点で21歳だった私に比べて同期生の多くは18歳であった。3年間の社会経験の有無は若者にとって大きい。私には彼らが“こども”に見えたし、彼らには私は“オジサン”に映ったようだ。文学部キャンパス181教室で行われた1年生自主公演『黄金の椅子』と文学部最後の4年生実習公演『芍薬の系譜』(大隈講堂)の両方で私はまとめ役や舞台監督を任されることになった。
 社会人となるまでの4年間が青春を謳歌する時期だった同期生と、3年の間世の中をさまよった私とでは大学生活は異なっていた。受験勉強とは縁のない商業高校時代、クラブ活動などを通じて一生付き合える友人がすでにいた私は、まさに大学における学問修得と「自分の道」に欠かせない新たな出会いを求めていた。教室で受けた授業では「哲学」「歴史学」「生物学」などの一般教育科目が心に残った。また、交流の深かった先生は「比較演劇論」の河竹登志夫(俊雄)先生と「演出研究」の安堂信也(安藤信敏)先生、当時助手を務められていた大島勉氏「『実験演劇論(グロトフスキ著)』などの翻訳」、そして演劇博物館学芸員の平正夫氏で、卒業後も長くお付き合いを頂いた。また、女優山本安英と劇作家木下順二が主宰する「ことばの勉強会」(本郷YWCA会議室)にも毎回通ってゲストとの対談に耳を傾けた。この4年間、大学構内で過ごした時間はごく一部で、あらゆるジャンルの芝居を観て回った。最先端の小劇場・テント小屋などのアンダーグラウンド演劇や野外演劇、3大劇団をはじめとする新劇、ミュージカルやオペラ、能狂言や歌舞伎の伝統演劇、映画、寄席にかかる話芸…。
 同時に、東京から離れた横須賀では自立劇団を率いて公演の準備と上演に明け暮れ、早朝の牛乳配達を終えて、鎌倉の住まいから早稲田の授業へ駆けつける日々だった。横須賀文化会館での第一回公演には真船豊の戯曲『寒鴨』を取り上げた。続く二回目に新作の必要性を感じ、大江健三郎の『ヒロシマノート』にあったエピソードを脚本化・上演してみたが、創作力不足は否めなかった。そこで、プロの指導を仰ぐべく池袋の戯曲教室(演劇教育の冨田博之氏・主宰)に通った。講師は大橋喜一・宮本研という売り出し中の劇作家だった。大橋さんは劇団民藝に所属し代表作『ゼロの記録』を発表していたし、研さんは『ザ・パイロット』や『美しきものの伝説』を俳優座・変身・文学座に提供していた。授業外でもお二人にお世話になった。大橋さんは民藝の稽古場に連れて行ってくださったし、研さんは下落合の自宅で私の脚本のダメ出しをしてくださったのである。
 大学卒業後、横須賀自立劇団の合同公演『わが町』(T.ワイルダー作)の演出を引き受けた。就職を一年延ばし牛乳配達をしながらの活動となったが、それまでの自分の総決算のつもりで取り組んだ。

横須賀での演劇上演の実践活動を軸に、東京での大学における学び、劇場通いによる毎月の観劇体験、演劇人・学者・先輩との交流、これら全てが私の「人生の基盤構築」の要素になったことは疑いない。一般社会から離れた大学生としての4年間がいかに貴重なものだったか。それを支え実現させた母や恩人について、また昭和という時代についてはいずれ書くことにしたい。
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人生の基盤構築~私の場合(前)

2024年02月05日 | 随想
 「人生の出発点」(11月記事)は羽田空港での貨物倉庫勤務だったが、「配置転換」という希望があった―いずれ空港ビル内の旅客カウンターの部署に転出できる可能性。現業者用の灰色の労働服から紺のダブル・サイドベンツの上着へ。その憧れがあった。しかし、一年ほど経ったある日、ロンドン本社からの“notice”が掲示される。「今後、欠員が生じても補充の募集はしない」という通告。夢ははかなく潰え去り、「今後とも肉体労働者のままで」という現実が突き付けられた。いくら高卒者としては高給取りでも、夢もなければ発展の道も閉ざされるのであれば、「ここを去る」しかないと思った。
 「自分の道」の模索が始まる。「道」といっても、取り立てて特技や資格があるわけではない。ただ、肉体労働の現場からは離れたかった。英字新聞の“help wanted”(求職欄)にあった「若い事務員・若干英語ができる者」を見つけ応募する。羽田勤務より給料はやや下がったが、青山・神宮前の衣料品輸入会社が採用してくれる。アメリカ人のボスと数人の日本人スタッフ。英文タイプが打てたのが役に立ち書類を作成しては東京駅前の中央郵便局に投函したり、また銀座4丁目のメンズ洋品店に商品を納めに行ったりしていた。
 ここで学んだのは、日本とアメリカとの職場に対する考えの違いだった。今日まで勤めていた秘書がサンダル片手に『Mr.Sano、バイバーイ』と笑顔で振り返って辞めていったのが印象に残っている。日本社会のように飲み会やら送別会やらは全く無くさばさばした関係だった。経営者もビジネスライクで、勤めて数か月後、ボスから『会社をたたむことになった』と告げられ、<(他の職場への)推薦状>を手渡された。
 就職活動が振出しに戻り、再び英字新聞で貿易会社事務員の口を見つけた。銀座八丁目のペンシルビル7階のワンフロア、今度は日本人が経営する会社だった。初めは貿易課に配属され東南アジアからのバイヤーの対応で壁紙を扱う会社に案内したりしていたが、後に商業高校出身ということで経理課に回されることになった。周囲はほとんど大学卒の社員。たまに専務のゴルフバッグを運ぶこともあった。ブルーカラーからホワイトカラーへ、肉体労働から事務労働に変わったものの、やはり夢も発展の道も無かった。
 1964(昭和39)年早春、世の中は東京オリンピックを控えて沸き立っていたが、20歳になりながら私は<先の見えない闇の中>で「どう生きたらよいのか」もがいていた。街には、第一回レコード大賞『黒い花びら』が流れていた。高校時代、歌が好きな同級生たちと仲間になったこともあって、歌謡曲は身近にあった。ある日、藁をもつかむ気持ちだったのか、作詞家・永六輔氏の自宅に電話をした。奥様が出られた。将来に悩む見ず知らずの青年の声を聴いたあと、やさしい声で応えて下さった。『永は、いま梅田のコマへ出かけていて留守です。スケジュールはビデオプロモーションの高階さんがご存知です』…教えて頂いた番号にかけると、すぐに「資生堂パーラー(銀座通りを挟んで私の会社の目の前にあった)2Fのティールームで」の約束となった。
『会社にいても先が見えなくて…芸能界のことはまったく分からないし…』追い詰められた表情をしていたのだろう。高階さんはじっとこちらを見つめておっしゃった。『芸能界のことをうんぬんする前に、君、大学へ行ったら』…若者にとって大人のこうした言葉は強く響く。母には事情を話し、一度だけ大学受験をさせてほしいと頼んだ。『…お前がそれほど言うなら』―母子が暮らしていた洋装店社長宅の奥まった六畳一間での会話だった。決算期に区切りがついた日、私は会社を辞めサラリーマン生活にピリオドを打った。
 私は「大卒(当時は学歴は価値があった)」の肩書きが欲しくて、進学しようとしたのではなかった。考える時間が欲しかったのだ。四大悲劇の主人公の一人、リア王は自問自答する。…`Who am I? ’社会における自分の存在価値は? “Identity”自分の存在理由は?自分を生き生きと生きるにはどうしたらいいのか。社会の激流に押し流されそうになった自分を留める「一本の杭」それが4年間という時間であり大学という別世界であった。この決断が、今振り返ると「人生の基盤構築」の第一歩となっている。
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ひとり旅~生活圏外で出会う古人の足跡と伝説

2024年01月09日 | 随想
 ふだんの暮らしから離れて、様々な地を訪れる…私の旅は一般と何ら変わらない。やや変わっているとすれば、観光が目的ではなく非日常的な時間を過ごすことで作品構想のキッカケを得る点かもしれない。また、その土地の温泉に浸り伝えられる歴史の一端に触れることも楽しみとなっている。

 昨秋は、岐阜県養老温泉に宿を取り土色がかった湯を堪能した。翌朝タクシーを利用し、異郷の雰囲気を味わいながら「養老の滝」を訪れる。この名勝の由来は歴史をさかのぼること千三百年余の717年、第44代元正(げんしょう)天皇が行幸されたことにある。緑の山間にしぶきをあげながら流れ落ちる滝を目の当たりにして、『もって老を養うべし』と述べられ改元「養老」の詔を発布されたという。元正天皇は生涯独身を通した女帝で『続日本紀』には母親(元明天皇)譲りの美しさと慈悲深さが記載されており、奈良時代を代表する聖武天皇の補佐役も務めている。古人が足を運ばれた同じ道に佇み、名瀑養老の滝を前にひと時を過ごした。

 養老駅でタクシーを下車、地元ローカル私鉄「養老鉄道」に乗り25分で東海道本線「大垣」駅に着く。旅の目的は(前回の記事の通り)大垣藩の歴史と関連する史実の調査であったが、予定外の遺跡にも巡り合った。八幡神社境内の「さざれ石」―国歌となっている詞「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巖となりて 苔のむすまで」にある“さざれ石”である。
 平安時代、古今集に収められた一首で、古歌をもとに天皇の御代を末永く寿ぎ詠まれた歌だが、“さざれ石”がこの地・揖斐郡春日村の産の石灰石であることは初めて知った。粘着力が強い石灰質のため長い年月の雨水により溶解し大小の石が凝結して自然に大きな巖となったと記念碑にある。
 この“さざれ石”に心が動いたのは、遺跡の由縁に感銘を受けたからだけではない。筆者の戸籍上の名が「巖」であったからだ。
 小学校一年生の教室での出来事を思い出す。校長が机間巡視の際、「巖」を見て『君の名前は難しいね』と言った。「画数23画」の一文字を小さく書けず氏名欄からはみ出していたのだ。周囲は親しみを込めて「ガンちゃん」「いわおさん」と呼んだが、本人はこの人名漢字に馴染めなかった。
 しかし、八幡神社境内の「さざれ石」の前に立った時、「長い年月が掛かって大小の石が集まり大きな巖となった」ことに自分の半生を見る思いになった。国歌「君が代」の趣旨からは離れるが、これまで生きてきたあれやこれやの集結が今の自分ではあるまいか…。

 ひとり旅は、自分一人だけの時間であり、考える余裕も生まれる。旅の目的には無かった「予定外の心の糧」にも出会える。
 たとえ短期間であっても生活圏外での「ひと時」をこれからも持っていきたいと思う。
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創作の支柱~書籍・史料・取材/大垣篇

2023年12月01日 | 創作活動
 詩人や小説家や劇作家は、なぜ原稿用紙に向かうのか。
 自らの内的情念や美意識から創作への衝動に突き動かされることもあるだろう。また、ある事件にまつわる発見や別の視点によって<これだけは伝えておきたい>という思いからペンを執ることもある。さらに、神話や古典作品を現代に置き換えて新たな世界を描き出す場合もあるし、商業出版の業界では編集者から与られたテーマで書く小説や注文されたエンターテインメント作品を生み出すケースもある。衝動や発見は「創作の源泉」に違いないし、別世界を描き出す情熱と才能は「創作の基盤」と言えるだろう。
 ところで、「創作の源泉および基盤」だけでは“原稿用紙に向かえない”場合がある。歴史的事件や史実に関わる物語においては、そのモチーフやテーマ、エピソードが「創作ノート」に書き込まれていても筆を落とせない。その背景となる「史実」を度外視しては“絵に描いた餅”のように現実からは浮いたものとなり作品としてのリアリティを失うからだ。
 筆者の場合、スタートが文学ではなく演劇だったので、既成の作品=戯曲を上演する以外に、舞台に載せたい世界を自ら執筆=脚本化する必要から書き始めたが、歴史的事件や史実を舞台化する際には、関係書籍を集めたり、国会図書館で史料を複写したりして、脚本の土台作りをしてきた。また、学生時代、滋賀県甲賀・野洲へ天保の一揆に関する取材の旅に出たこともある。つまり、これらの「書籍・史料・取材」は、「創作の支柱」として必要不可欠な要素となっていた。
 今回、長年構想を温めてきた歴史小説を執筆するに当たって、数十年ぶりに現地取材に赴いた。岐阜県大垣市である。書斎に積まれた書籍・史料に目を通す以外に、その土地の空気に触れ、
そこを歩いてみなければ分からないことがあると思えたからだ。新幹線の名古屋駅で東海道本線に乗り換え30分ほどで大垣駅に着く。駅構内に観光案内所があり、大判カラー両面刷りの「城下町大垣観光マップ」で市内の名所旧跡や公共施設巡りの概要を説明してくれる。
 関ヶ原の合戦で石田三成率いる西軍の本拠となった「大垣城」は、後に譜代大名戸田氏が十一代にわたって大垣藩城主となった。また、大垣宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路にあって陸運・川運において交通の要衝であるが、松尾芭蕉の「奥の細道むすびの地」となったのは地理的条件以上に門人も多く文化的土壌が豊かだったからである。
 大垣市は郷土の歴史を大切にしており、単なる観光地ではなくその歴史の調査・蓄積・保存にも力を入れている。大垣市図書館には郷土資料室(3階)・歴史研究室(4階)があり、創設された大垣市郷土館では歴代大垣藩主戸田公の資料展示および市・文化財保護協会刊行の出版物の販売を扱っている。2日かけてこれらの施設をすべて訪れ、調べたい事がらを率直に伝えると、責任者や担当職員の方々はこちらが求めていること以上の対応をして下さった。小説の点景として登場させたい神社やお寺も現存しているので、カメラに収めたりお話を聴いたりすることもできた。
 現地に来なければ得られない収穫は確かにあったし、「創作の支柱」の一本である「現地取材」の重要さを再認識したのである。
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