私たちは、当たり障りのない言葉によって生きている。世間において、自分を護るために相手と摩擦を起こさないためにその場を保つために、表面的なコミュニケーションに必要な言葉を選んで暮らしている。本心から出た言葉は重かったり棘(とげ)があったりさえするので、日常生活を営む上で忌避されるのかもしれない。だが、無難で表面的な言葉は軽いために相手の心に届くことはない。相手との距離は縮まらないから自ずと人間関係は希薄なものとなる。
今は廃刊となった隔月刊誌に「痛み」のことばについて書いたことがある。
…沖縄に「チムチャイサン」「チムグリサン」という方言があるが、「肝痛い」「肝苦しい」に由来し、ともに「かわいそうだ」を表す言葉だそうだ。筆者は、数十年前テレビドラマで耳にした「チムグリ…」が忘れられない。自分の内臓が痛む感覚、相手の辛い状態と一体になった人物の心の痛みまで伝わってきたものである。もしこれが共通語の「かわいそうね…」というセリフだったら、上っ面の同情表現で終わってしまう。
生徒たちに、相手のことを我がことのように思える他者への共感や人物の置かれた状況を多角的・多元的にとらえる複眼的思考を育むことができたら、文学の読解能力は飛躍的に伸びることだろう…「特集 文学を教えるということ(『文学』2014 9,10月号 149ページ/岩波書店)」
お互いの気持ちを通わせ共感し合える言葉があってこそ人間は繋がり、社会に優しさと潤いが生まれるはずだ。わが国の現状はこれと真逆である。希薄な人間関係が広がりお互いの内面には無関心に―いやむしろそれを望んでいるかのようだ。しかしながら、人間は社会的動物、一人では生きていけない。もし自分だけが孤立していると感じたら、「だれかと繋がりたい」という衝動が突き上げてくる。それが果たせなくて<八方塞がり>の状況に陥ると、「事件」を起こす。自分という存在に気付いてもらいたくて<無差別殺人>などを犯してしまう。そこに「他者という存在への想像力」は微塵もない。
「相手のことを我がことのように思える他者への共感」を私たちが失って久しい。少なくとも戦後から1970年代までそれは確かにあった。筆者の大学進学も身内ではない方の援助によるものだったし、小説家山本周五郎のペンネームの由来、映画監督山田洋次の『男はつらいよ』マドンナのモデル、そこには恩人がいたのだ。※幸せのBASE「心技体」~心③(終)2023/03/01 06:24:10カテゴリー:随想
小説も映画も創作者の「核」から生み出される「ことば」である。苦境における心の痛みとそれをエネルギーにかえさせてくれた他者の存在に向けての「歌」でもある。昭和が終わり、平成・令和と時代が下るにつれ、その「歌」が徐々に薄れ消えていった。それに伴い、文字通りの《歌》、世間に流れている歌も、作詞・作曲・歌唱の全てにおいて変容していった。その実態と社会的背景について、また、今後の課題についても考えていきたい。