2世紀の終わりなのか、はたまた3世紀の初め頃なのか、奈良の三輪山の麓に纏向遺跡が突然誕生します。
最大をとれば東西2キロ、南北2キロと後の時代の藤原宮や平城京と遜色ない規模です。
他地域からの搬入土器の出土比率が15%前後あり、その範囲は九州から関東まで広範囲にわたります。
農耕具がほとんど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多いなど、他の遺跡とは様子が異なっており、政治・宗教に特化された列島最初の「都市」を作ったのが纏向遺跡だと言われています。
纏向遺跡のもっとも重要な要素は、前方後円墳が全国に先駆けて造られたことでしょう。
各地の墓制を取り入れ発展させたのが前方後円墳だとされ「ヤマト王権」のシンボルとなっています。
一番古い、いわゆる纏向型前方後円墳でさえ北部九州から東京湾岸まで伝わっていると言われます。
纏向のものがもっとも巨大であり、他地域のものはその2分の1や3分の1のサイズとなっており「ヤマト」という「中央」とそれ以外の「地方」という関係性ができていると考えられます。
纏向遺跡の大型建物跡の土坑から出土した桃の種を放射性炭素年代測定したところ、135年から230年という結果が出ており、纏向遺跡は邪馬台国・卑弥呼の時代から存在した可能性が高くなりました。
しかし放射性炭素年代測定を疑問視する向きもあり、4世紀中ごろの遺跡とみる意見もあります。
纏向遺跡が卑弥呼の時代に存在していたからといって、それがイコール纏向遺跡が邪馬台国だとはなりません。
邪馬台国が国内で一番の国だったとは限らないのです。
纏向=「ヤマト」の誕生に北部九州が参画していたか否かは重要な問題です。
ほとんどの人は不彌国までは北部九州に比定していますから、その北部九州が纏向に参画していたか否かは邪馬台国問題を左右します。
しかし「関わっていた」「関わっていなかった」いずれの意見もあります。
搬入土器から関係性を見ると
纏向に北部九州の影響は「ほとんどない」
古墳に鏡・玉類・武器がセットとして副葬され、水銀朱を棺に大量に布く方法が採用されていることから関係性を見ると
纏向に北九州の影響は「色濃くある」
さて私はどちらの意見をとればいいのでしょう?
前原市の御道山古墳は箸墓より古いらしいですし、ホケノ山などの人によっては古墳と認めない初期古墳からすでに鏡などが副葬されており、北部九州も纏向に加わっていたと考えるほうが無理がないような。
でも博多の那珂八幡古墳は以前は纏向型だと思われていたのに「北部九州独自」の形状って言われているし、どうなんでしょう。
古墳に北部九州の影響があるのに、纏向遺跡には参画していないなんてあります?
「鏡等の副葬って格好いいな」と勝手に真似したことになるのでしょうか。