この限りない むなしさの、、、

2024-04-22 13:48:10 | 日記
 4月22日です。話題も見当たりませんので、日々雑感でございます。
 20日(土曜日)町内会総会(190世帯)での司会進行役を終えて、4年間の町内会副会長を退かせてもらいました。民生委員児童委員は、来年11月末まで任期です。

           葉桜やグータラ犬と昼寝かな    ほそはぎ


 右ひざ下骨挫傷は、歩くには痛みはありませんが走ると着地時にズキッとします。今週は、再度、MRIの予定です。
 マイコースは、すっかり葉桜トンネルです。お散歩です。


 ぶらりと入った本屋で目に留まった一冊の本。著者名に惹かれて買い、通読しました。


 きたやまおさむ(北山修)
 爺さんら団塊の世代には懐かしい名前です。氏は、1946年生まれ、京都府立医大卒、精神分析学を専攻し、九州大学教授などを歴任。だが、フォーク・クルセダーズとして、1960年代後半に一世を風靡した名前です。爺さんは、氏の書いた文章を読むのは初めてです。

 「本書は、蔓延していると感じる「むなしさ」につき、自己分析を踏まえ、日本語・日本文化や現代社会を見据えながら書いた。」(あとがき)

          白い雲は 流れ流れて
          今日も夢はもつれ わびしくゆれる
          悲しくて悲しくて
          とてもやりきれない
          この限りない むなしさ
          救いはないだろうか

 彼らが歌った「悲しくてやりきれない」(サトウハチロー詩、加藤和彦作曲)の二番です。その感傷を誘う甘美なメロディーに惹かれたものでした。

 1960年代後半は、のちに爺さんらの一回り若い社会学者小熊英二『1968ー若者たちの反乱とその背景』(上)『1968ー叛乱の終焉とその遺産』(下)2009新曜社、にて描き出したその時代の若者にとっては騒然とした激動の時代でありました。「東大全共闘」をピークとし、「連合赤軍」を幕引きとしたのでありました。
 その激動の余波を片田舎で被って悶々としていた貧乏学生にとって、その震源地は東京であり、京都であったと思うのです。 

 その京都で、”学校は、紛争で授業もない。ヒマで面白くないので歌でもやろうか。”と結成したのが、フォーク・クルセダーズだったらしいのは、当時の新聞記事の記憶です。そのころはグループサウンズ最盛期だったはずですし、小熊英二の指摘するように”叛乱”の渦を少しでも体験した者は同世代のせいぜい2割程度で、その考えも時代錯誤と言えば言えるのですが、、、。

 がしかし。きたやま氏がその当時、感じていたという「むなしさ」は、じいさんにとってはやはり無縁であったなぁ、という読後感です。医学部に進学できるほどの頭脳と、家庭の財力と、人に聞かせる歌唱力と、、、違う世界に住んでる人だなぁという感じが、やはりそうだったのかぁ、と。
 爺さんは、『はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る』(啄木)ままの一家でしたし、『吾がもてる貧しきものの卑しさを是の友に見て堪えがたかりき』(土屋文明)の心情は幼いころから自覚していたように思います。
 とにかく、ここから、這い上がりたいと気持ちには、きたやま氏の「むなしさ」は持ち得る余裕は無かった、、、あるいはそれそのものが「むなしさ」かも知れません。

 父は、自身が戦争を生き残ったことに罪悪感を覚え、身を削るように医者の仕事に専念しました。」「学生のころ、私が音楽を始めたとき、よく父親(戦争を戦争を経験した世代)から『女の腐ったような奴』と言われました。」  よくわかる気がします。爺さんの父も「帰ってきた酔っぱら」を聞いては苦笑いをしていました。(この歌は、京都ならでは生まれたと感心しています。京都の文化の蓄積と深さに。)

 爺さんも後期高齢者となり、もうほとんどこの世での役割もほとんど尽きたと思うこの頃、「>自分ではどうしようもない諦め」に必死に抗って生きてきた人生が、いったいどんな価値があったのだろう、とまさに「むなしさ」にうちのめされるのかもしれません。

 62歳で、もう嫌だ、と働くのをやめてから、1~2年は、外出もせずに一日中、本を読んで過ごしました。ふとしたことで始めたランニング、だんだん距離が伸びて萩往還マラニック140km、みちのく津軽200kmと、雨に打たれながら、あるいは星空を仰ぎながら徹夜で走るときには、嫌でも自分自身の歴史と己は何なのだろうと考えざるを得ません。どんなに速い、若いランナーもこのことは同じことでしょう。このような時間を共に過ごすからこそ、またあの人たちと一緒に走りたいなぁ、と思うのでしょう。
 もし、爺さんが、ランニングの世界に出会わずにいたら、必ず老人性うつ病か、アルコール依存症になっていたことでしょう。

 いよいよ身体が衰えて走れなくなったとき、押し寄せるはずの「むなしさ」にどう向き合って行けばいいのでしょう。
 人生は、いつまで経っても、いばらの道です。美しい花は、自分で探さないと、、、。


 岩波新書920円  一読をお勧めします。

大村湾半周、、、そして。

2024-04-10 12:40:08 | 日記
 4月10日です。久しぶりの晴天です。

 7日(日曜日)朝jogtrip「大村湾一周」のゴール彼杵へ一番乗りで帰ってまいりました。

ながさき~はきょうもあめぇだった~、と受付に現れ、ながさき~はきょうもあめぇだった~、と歌って帰る。』  お馴染みゴールでのヒーローインタビューであります。
 そうです。二日間とも雨に降られたのです。jogtripの前身「駄マラニック」の時代には、青い空青い海緑の山々、、なんとステキなランイベントなんだろうと思ってましたが、某主催者が変な修行を重ねるにつけ、不思議と雨、雪、強風と、ランナーに試練を課すようになりました。ああ。

 7日朝、長崎本線道ノ尾駅にたどり着いた爺さんは、am06;47 佐世保行きシーサイドライナーに乗車します。うとうととしていると大草駅inanekoさんが乗ってきました。聞くと、彼杵からJR、西肥バスと乗り継いでゴローさんオアシスへ、それからコーセー先生の和三郎公園で桜を愛でて大草までラン。また西諌早で降りて、キタさんの待つ三浦かんさく市へ走ると言う。昨年は前半部分を走ったと。なるほど~こういう楽しみ方もあったのか、と感心。 

 彼杵へは、8時半ころ着。防波堤でチヌ釣りを見物しながらゴールへ歩く。ゴールするとアメリンが待ち受け準備中。ほどなくしてたこさんゴール。

 アメリンが、おどけてたこさんをナンパしているようだ。んなわけないか。たこさんに「ナンバ歩き」を講釈して実演を見せているのです。


 帰ります。早岐から再び特急みどりに。最前列が空いていましたのでパノラマビューを楽しんで帰りました。ひょっとするとこの高床はパノラマビューを見せるためなのか。



 9日(火曜日) 打撲した背筋あたりはまだ痛みます。ラン中、右ひざに今までと違った痛みを感じたので、タケダスポーツ&ビューティクリニックを受診しました。
 武田先生にはもう10年以上お世話になっていますが、もとJ1チームドクターで、九州各地から中高大学生ほかアスリートが受診しています。治療方針は「できる限り早く競技に復帰させる」で「もう年齢だからほどほどに」とは絶対に言いません。

 右ひざ下の骨挫傷で全治3ヶ月、左の画像が今回の、右は5年前。半月板の下の三角の白くなっているところが患部。『大学生(のような若い人)でも2か月かかった例もある。ウルトラ禁止ウオークのみ。筋力を落とさないためにリハビリジムに来ること。』

 よって、「橘湾岸スーパーマラニック」は欠場です。2013年以来、ゴールデンウイークにはどこかに走りに行っていましたから、10年ぶりに孫の相手でもしますかね。
わたしゃ、いったいどうなるのだろう、、、。

 

大村湾は、半周、、、、。

2024-04-08 19:15:16 | 日記
4月8日(月曜日)です。

 6日(土曜日)~7日(日曜日)は、「jogtrip大村湾一周」でした。6日午前中、町内会役員会を済ませてそそくさと長崎県東彼杵へと向かいます。
 佐世保行き「特急みどり」に乗車、駅弁で昼ご飯。早岐で大村線に乗り換え。

 ここで大事故。早岐で下車しようと座席を立った瞬間、まさかの大転倒。横に一回転、左側背筋と、右ひざ、右くるぶしを痛打。向かいの座席床にぶちつけられました。
原因は、これ。座席のある床面と、中央通路の床面に段差のあるのを気付かずに、踏み出してしまったのです。

(帰りの電車で撮影)

 乗るときは無意識に乗ったのですが、降りるとき棚からバッグを降ろして胸の前で抱えたまま、踏み出したのでした。背骨とかあばら骨を打たなかったのが幸いでした。
しばらく動けませんでしたが、乗っていた車両B室には誰も乗客はおらず、とにかく発車まぎはに降りました。「みどり号」と「ハウステンボス号」の切り離し時間があったので助かりました。
 
 この段差は、「みどり号」の運転席のある先頭車両前部だけで、おそらく床下の機器の収納のためではないかと気がつきました(帰りの列車で観察した。)A室はこの通り床はフラットです。(帰りのみどり号で撮影)。


 とにかく大村線に乗り換えて、彼杵へ向かいます。車中、鹿児島から遠来のAMNさんに出会います。ほんとに久しぶりです。

 彼杵駅で、右くるぶし周りの傷をリバテープで応急処置。他は打った痛みはあるものの傷は無し。

 15分ほど歩いてスタート会場へ。『ながさきは~きょおうもあめぇだった~♬』(爺さん)『おお、今日は(音程が)あっとる』(アメリン)『、、、、
 ほどなく、橘湾岸オジサマ族のアイドル宮崎のちかさんが到着。ペアルックでツーッショト!

撮ってくれたのは熊本テレットの隈元氏。

 定刻30分ほど前にアーリースタート。がしかし、間もなく定刻スタート組に追いつかれます。ちかさんが撮ってくれて送ってくれました。爺さん、ニヤついてますねぇ~。


 どんどん追い越されて、ハウステンボス。


 これから先は真っ暗闇で写真無し。
 右ひざに体のあちこちが痛み出して、27kmエイドでロキソニン投入。(しかし、最後までまったく効きません。錠剤が古るかったのかなぁ)

 走っても走っても38kmにあるはずのゴローさんオアシスがありません。あやうくガス欠になるとこ。コースマップのQRコード読み取りでグーグルマップで位置確認を2度。(これは良いアイデアだ。誉めて遣わす)
39,8kmにありました。コース図では、38kmのまま、昨年から変わったとのこと。(ゴール後、アメリンをメッと𠮟っておきました。)

 おにぎりに、たけのこの味噌汁、ぜんざいと、今年もあたたかいおもてなしです。
が、爺さんは、なんとか走れたのもここまで。右ひざ他、痛みがズキズキ、以後、一歩も走れず歩きとおしになりました。この時間帯、まったく交通機関は無し。
  
 長崎本線道ノ尾駅まで歩きます。晴れておれば大村湾の素晴らしい日の出があるはずなのですが、日付が変わっても時おり小雨です。なんちゅうこった。
 道ノ尾駅で、とりあえず缶ビール、美味しいですねぇ。

 
69,19km 13時間40分、長時間、身体を動かすトレーニングをしたにすぎませんでした。

 

 続く。

 PS/ 前回記事、長崎市桜町1丁目の焼肉レストランは「グリーンペッパー」さんでした。また行こう!



 

 

願はくは花のもとにて

2024-04-01 17:40:06 | 日記
 4月1日です。今日から新年度です。現役の皆さん、学生の方々、頑張ってください。

 24日の「さが櫻マラソン」は雨予報に怖気づいてDNS。先週、3月27日遠藤周作の101回目の誕生日(長崎市遠藤周作文学館では、9月まで「100歳の遠藤周作に出会う」企画展が行われています)。

 
 そして、3月25日は、旧暦2月16日西行法師の忌日「西行忌」でした。

       願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月の頃    西行

 この歌は、西行法師の辞世の歌とされていますが、史実では、少なくとも73歳で没するまえ58歳以前の作のようです。西行の伝記が作られる鎌倉時代の頃から現存する江戸時代の「西行物語」で、亡くなる間際の詠歌(辞世の歌)とされたようです。老齢の西行は死期の近づいたのを悟り、自ら断食し釈迦入滅の日に1日遅れで餓死したとのこと(仏教学者山折哲雄などの説)。文治6年2月16日(1190年)没

 今の世では、自分がどこで死ぬか、自決するほかは自分では選ぶことはまず出来ないでしょう。自殺でも追い込まれてのはてでしょうから、どこでなんて選ぶことはないのでしょう。裸一貫国を出て~♬ 汗水流して、子どもたちに自分のようなみじめな目には合わせたくないと、堪え難きを絶え忍び難きをしのんで鬱屈は酒に流して、手に入れた我が家。この家で俺は死にたいと思っても、何故だ! 施設か病院かベッドの上で最期を迎えるのが大方でしょう。

 ありゃ、話が暗くなりましたね。31日は、爺さんの満75歳の誕生日でした。最期の時と所は選べないにしても、誕生日くらいは自分で選べます。

 爺さんは、長崎市野母崎の先っちょ権現山で誕生日の朝を迎えることにしました。来る5月に出走予定の「橘湾岸スーパーマラニック」のコース上です。
 30日pm18;15 長崎駅西口をスタートします。まづは稲佐山へ。
 暮れ残る登山道の桜は3分咲きか。

 山頂からの長崎市街、クルーズ船が停泊しています。


 以後、暗闇につき写真無し。腰に着けたライトと小型の懐中電灯で足元を照らしながらゆっくりと走ります。なにしろ路面が良くなくこけちゃいましたとなりそうで。そうなると夜間走なんてダメ、、、。

 女神大橋のエイド箇所 45km 31日am01;55着 所要7時間40分 レース時には6時間40分ですから夜の単独走にしては十分です。ただし、なんとか走る気分だったのもここまで、後は、もう嫌だ、の歩きばっかり。我ながら情けないことでした。

 60km地点、野母崎以下宿(いかやど)am06;04 日の出の時間です。皮算用では、この時刻に権現山頂のはずでした。


 野母崎半島では、山桜が満開でした。西行の「花」も山桜ですね。

野母漁港対岸


 権現山山頂 70km地点、am08;15着 14時間。レース時より1時間20分遅れ、トホホ。
 爺さんは、ここで鐘をつきました。広島市平和公園と姉妹鐘で平和を希求する名がついていますが、爺さんの場ワイは、75年の悪事の懺悔と贖罪の鐘というべきかも。(鐘をつくくらいでお前の悪事が流れるものか、という声有り、、、)。
 動画を取り込めませんでしたので、見たい方はFBへどうぞ。


 ひたすら歩きますが、もはや樺島灯台へ向かう気力、脚力無し。ここから、市内へ向かうバスは今日を限りに減便、一部路線廃止とか、記念に乗って帰ろうかと思いましたが、本番に向けて気持ちの上での負け戦になる。せめて川原までは歩こう。樺島へ右折せず、川原方向へ直進します。
 
 展望の開けない急坂、道端の草草を愛でながら進みます。
 山桜です。


 アケビの花


 ウベ(ムベ)の花


 茂木ビワは、花も大きくて綺麗です。

 ウソです。実にかけた袋でした。実はこんなです(野生化したビワの木)


 川原でバス便がないので、為石、栄上三叉路まで歩きます。もう、時刻の記録もありません、どうでもよくなりました。バス待ちに缶ビール、美味しゅうございました。
 栄上三叉路で、corosuによれば、 87.35km 18;56;09 平均ペース13;00/㎞  これじゃァ本番ではまったくダメです。トホホ。


 ホテルで風呂に入って、どうしても焼肉が食べたいと、スマホで検索して桜町の「グリーンキッチン」(? うろ覚え)へ、うまかったなぁ! 安かったし、満足。
 では。



 


長崎県外海(そとめ)へ。

2024-03-23 15:52:09 | 日記
 3月23日土曜日、午後16時です。

 去る18日は、波佐見温泉から、外海(そとめ)へ脚を伸ばしました。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」指定地です。

 佐世保まわりで新西海橋を渡り、西彼杵半島を横断し、大瀬戸へ出ます。山中は、みかん山が広がっているのかな、と予想していましたが、恐ろしいほどの一面の藪でした。暮らすには厳しいところだったのでしょうか。海岸線は「長崎サンセットロード」と呼ばれていて、炭鉱の島、池島を遠望しながら南下します。

 外海の大野集落へ。集落は、角力灘への急傾斜地で、石積みの段々になっています。駐車場から徒歩でめぐります。
 明治26年に建てられたという大野教会堂。とその石積み。



 さらに南下して、出津(しつ)集落へ。
 外目歴史民俗資料館を見学して、散策見学です。明治時代にフランス人ド・ロ神父が住民のためにいろんな事業を起こした遺跡が残っています。
出津教会堂


 そして、こんかい、来たかった「遠藤周作文学館」へ。
 爺さんが、遠藤周作の作品を本当に読みだしたのは、30歳代の終わり。昭和58年にが78歳で逝去してからでした。母は、尋常小学校を出てから、紡績会社の女工とか、農業とか、その年代の漁村の貧しい庶民の当たり前の生活を送ったのですが、父が亡くなってからの晩年10年は、我が家で孫娘たちの面倒を見てくれました。その母が、病のため入退院を繰り返す中で、熱心に新聞の切り抜きを作っていました。朝日新聞に連載されていた『女の一生』でした。母は、むろんキリスト教徒であったわけではありませんが、主人公のキクの人生と、自分の一生を重ねていたこともあったのでしょう。

 文学館からの山桜と角力灘。


 道の駅夕陽ヶ丘そとめでお昼を食べて、式見かまぼこを買って帰りました。


 明日24日は、さが桜マラソンですが、爺さんは、すかっり戦意を無くしております。警報級の大雨の心配は消えたようですが、やはり走っているうちは雨ですね。6時間も雨に打たれていると、爺さんは風邪をひくのがオチですから気が乗りません。さて、どうしますかね。
では。