「中村さんて、どこに行ったの」

 ストレッチャーに仰向けで横たわり、髪を洗ってもらいながら寺尾ミサ子が清水に訊いた。動く方の手タオルを持って自分で体を洗っている。

「さあねぇ。私が休みんときいなくなっちゃたから、分かんないわ」

 清水がシャワーを使いながらそっけなく答える。

 

「どうかしました?」

 カーテンで仕切った脱衣所で鳩谷トキの着替えを手伝っていた佐奈子が顔を出した。絶えず流れるお湯やモーターの音など、浴室は雑音にあふれているので、人の声は聞こえても内容まで聞こえないことが多い。

 

「あんたじゃ分かんないからいいわよ」

 寺尾が無下に突き返す。憮然としながら戻ると、鳩谷が「中村さんのことが気になっているのよ」と、教えてくれた。「お姉ちゃんは何か知っているの?」。

 ああ、と内心呟きながら「いいえ、何も」と佐奈子もしらばっくれ会話は途切れる。

 

 

「中村勘九郎に原節子か。名前まで派手なものに変えてたんだね

全員の入浴が終わり、浴槽を洗いながら清水が言った。「さすが、東大教授夫人だ」。

やっぱり、東大教授夫人もでまかせなんでしょうか

 洗い終えた入浴用のストレッチャーをシャワーで流しながら佐奈子が訊く。

入浴介助が終わり、2人は浴室の掃除をしている。

 

「佐奈子は信じてたの?」

 清水が水の噴き出しているシャワーを持ったまま驚いて佐奈子を見た。

やれやれ、本当にこの子は変わってる、という顔で浴槽の泡をシャワーで流す。「そっちの方が信じられないわ」。

 

信じているというか…… 本人が真面目にそう言ってましたし……。でも、何で偽名なんか使ったんでしょう

「さあね。あの年であれだけ抜け目なくやれるんだから、何やってても不思議じゃないね」

「窃盗とかですか? でも、家賃も引き落としだったそうですし、新聞もとってるようですから、普通の年金生活なんじゃないですか」

「年金ねぇ。一体いくら貰ってるんだか。ま、本当の盗癖だったら、お金を持っているとかは関係ないけどね

 清水はいくつもの桶を手早く洗っては水で流している。

「子供がいない分、かなり貯めてるのかもしれませんね

 佐奈子は、喋りながら、さっき洗った入浴用のストレッチャーの洗い残しを思い出し、再び洗剤で洗い始めた。清水は黙ってそれを眺め、余った洗剤液を床にまく。

 

……あの人、子供がいないことになってるけど、お腹に切った痕があったね」

 床をデッキブラシで擦りながら、思い出したように清水が言った。

お腹の傷は佐奈子も入浴介助をした時、見たことがあった。

「私、訊きましたけど、盲腸って言ってましたよ」

 

「あれは盲腸じゃないよ。ナースも違うって言ってた。多分、帝王切開だね。骨盤も張ってたし、育ったかどうかは別にして、子供を産んでると思うよ」

 清水が洗い終えた床をシャワーで水を流しながら、こともなく言った。

 

「ええ、そうなんですか!」

 今頃になって初めて聞く思いがけない話に、佐奈子は驚きのあまり棒立ちになってしまった。皆は知っていたのだろうか……。清水が手を止めるなと睨み、慌てて作業に戻る。

 

ストレッチャーの背もたれの裏側を洗い終わり、接続部の細かい部分をスポンジで擦り始める。以前、パートの重田に洗い残していると指摘されて怒られた箇所だ。

そんなとこまで洗うのかと清水がそれをじろりと見やる。清水と組む職員の多くは速さを合わせて作業を端折るし、重田も相手が佐奈子だから大げさに指摘しただけで、普段は自分でもそこまで洗っていない。

 

「でも、役所でもいないことになってましたよね。死産だったんでしょうか?」

 作業と会話で手一杯の佐奈子は清水が本当にイラついていることまで気付かない。

「分かんないよ。見ただけの感想だから。実際、いなかったのかもしれないし」

何でも素直に信じ込む佐奈子は始末に悪い。話に夢中になると手が止まるうえ、時間が無いのに律儀な洗い方を崩さない。いくら清水でもこれ以上は注意し辛かった。

 

「じゃあね、先に行っているから」

 佐奈子の作業分を残してさっさと清水は通常の制服に着替えると、佐奈子を残して昼食の配膳に行ってしまった。昼食の時間は決まっている。いつまでも待っていられないのだ。佐奈子は慌てて残りの作業を片付ける。

 

 ゴミと利用者の洗濯物をまとめていると、ふと、シゲの靴から出てきた古い雑誌ページが思い出された雑誌が出たころ流行した健康食品の広告記事で、佐奈子もよく知っている物だった。商品の大きな写真があったので、その写真のためかと、その時は特に気にせず戻したが、改めて思うと、あれだけ記憶力がしっかりしているシゲが、有名で手に入りやすい商品のページをわざわざ靴底に隠していることは変だ。

 

ページの裏面は、その手の商品の関連広告でよく見かける、全国の愛用者が笑顔で商品を賛辞するものだったが、その誌面を思い出した時、シゲの目的はそっちだったのだと気付いた。

 

各自、顔写真の下にフルネームと県名が書かれていたが、大勢いるその中に、シゲの目的の人がいたのだ。シゲはその人を探していたのだ。

そのページだけを頼りに人、自宅から遠く離れたこの県を何度も訪れては、隅々まで歩いて探していたに違いない。

 

絶対失くしてはいけないそのページを靴の中に大事に保管し、ページを切り取った雑誌も捨てられずに持ち歩いていたのだ

佐奈子はそう確信すると、清水の後を追って昼食の配膳へと急いだ。

 

 シゲが持っていた佐藤良三のお札は佐奈子が次の夜勤の時、財布に戻していた。翌日もいつもと変わらず、自分で身支度を整え、いつものように車イスを押して苑内を歩いていた。

シゲに関する新たな情報が現場に来ることはなかった。毎日の業務に押し流されるように彼女の存在感は薄れていき、1カ月もすると話題にも上らなくなった。シゲの靴底に関する噂も佐藤良のお金に関する情報も佐奈子の耳に入って来なかった

 

 

それからほどなくして、唐突に新しいセンサーマットが2つ購入され、職員の間で大ニュースとなった。さらに、2階のベランダと非常階段の壁に、乗り越えられないよう大きな看板の設置工事が始まり、野畑さんのミッションインポッシブル看板として現場職員の間で大きく沸くこととなった。

 

 苑の中では、大小の事件が起きながらも、怒涛の如く、スケジュールに従って毎日の生活が送られている。佐奈子は相変わらずあたふたと業務に追われ、佐藤良三の生活記録には、その日の遅番によって、普段と変わらない日々の様子が版で押したように毎日書き込まれている

<了>

 

 


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