喜んでもらえるように

基本、未納の人を訪問するので、

最初から、上手くいくわけが

ないと思えばいいのに、なんだか

変な自信があって、会って、相談

してもらうれば、喜んでもらえる

と思っていた。

 

それにしても、留守が多い。

40件行っても、半分も会えない。

 

とりあえず、制度説明の用紙と

訪問用紙に、また○日に伺います。

と、書いてポストに入れた。

 

はじめの頃は、そんな話はない、

わざわざ、家庭に来て説明して

くれて、手続きした用紙を持って

帰って、出してくれるなど詐欺だ!

と、思われたみたいだ。

 

そのうち、連絡してくれるように

なって、○日の何時に来てください

とか、本当に貰えるのなら払う。

とか、問い合わせがあり、私も

上司に、本当に年金は出るよね?

と、問いただした。

 

出ないのなら、集金などできない。

上司の、国がなくならない限り、

出るよ。

の言葉を聞いて、伝えた。

 

ほとんどの方には、喜んでもらえ

たのに、なぜか、からんでこられる

方がおられた。

 

話を聞くと、収入はあるらしく、

税金にたいして、文句があった

らしい。

納付したら、税金が安くなる事を

説明し、現在の状況を説明したら

以前、厚生年金のある会社で働いて

いたことがわかり、払う気になった

人もいました。

 

そのうち、学生特例もできたので、

学生の手続きが、受けやすくなり

もっと、仕事が楽しくなってきた。

 

そんなとき、他の推進員の人に、

みんなが、同じように動けるとは

限らないと、言われた。

 

どうしたらいいのかと、思って

いたら、職員の人に、

「あなたにくる電話が、一番多い。

 みんな、喜んでるし、気にして

 もらえるように、なったことは

 良いことだから、がんばって!」

と、言ってもらえた。

 

数日して、分かったことだが、

他の地区の学生の人に、推進員の

の人が来て、手続きをしてくれた。

と、言ってたけど、ここの地区は

してくれないのか?

と、言われたらしい。

 

たしかに、やり方は人それぞれ

だけど、それが他の人に関わる

ことも、あるんだとは思った。

 

 

 

 

 

国民年金推進員

市の広報に、国民年金推進員の募集

記事が載った。

 

今まで、年金のことをそれほど気に

したことはなかったが、推進員って

なんだ、と思って市役所に電話した。

 

偉そうな人が、電話に出てきた。

「車や単車に乗って、年金未納の

 人をまわる仕事です。」

と、説明された。

 

電話を切ろうとしたとき、他の

声が聞こえた。

 

「未納の人を回って、制度を説明し

 その人にあった指導をして

 年金を貰えない人を、無くする

 手伝いをする仕事です。」

「払えない人は、どうすれば

 良いのですか?」

「納付が困難な人には、年金を

 払わなくても良くする制度が

 あります。」

 

私は、この仕事をしてみようと

思った。

試験会場に行ったら、部屋が

一杯になるぐらいの人がいた。

 

面接にのときに、偉そうな人が

「狭いところにも、行くことになる

 のですが、単車にはのれますか?」

と、言って来た。

「はい、乗れます。」(転けだけど!)

「子供さんは、大丈夫ですか?」

など、幾つか質問された。

 

無理なのかなと、思って部屋を

出ていこうとしていた私に、

ずっと、ニコニコしていた男性に、

「頑張ってね。」と、言われた。

 

数日後、合格通知が届いた。

市役所に行くと、数人の女性が

来られていて、男性はいなかった。

女性ばかりが選ばれたようだ。

課長の挨拶のとき、笑顔だった

男性が出てこられた。

 

六人そろったところで、小部屋に

移動して、年金制度の説明が

始まった。

 

手続きの仕方、領収書の書き方の

説明を受けて、数日後には、

実際に個別訪問の仕方を体験した。

 

資料を渡され、書類の見方や

パンフレットの用意など、

訪問の準備をしていると、

 

「直近の情報をみていかないと、

 支払い済みの場合もあるよ。」

と、教えられた。

 

週30時間勤務で、訪問後は

集金した年金を銀行に納めて、

勤務表を提出して、今度訪問する

直近の情報を確認する。

 

ただ、未納を集金するだけなら

しなかっただろう。

 

支払えないときは、免除手続きが

通れば、月数には入るし、障害に

対応してもらえる可能性もある。

 

払った場合のメリットや、今の

納付状況を説明して、どうするのが

一番、自分のためになるのかの

説明もできる。

 

1日40件くらいの、訪問予定をたて

単車に乗って出掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

信じること。

働こうと思えば、なんとか

なることはわかった。

 

今はまだ、必要なものはなく、

生活が成り立たないことも

なかったので、家庭に戻ったが、

 

思ってもなかったことを知り、

どう、動くべきかを考えた。

娘が、トラブルを抱えていた。

 

最初は他愛もないことだった

のだろうが、それは、大人の考え

なのだろう。

 

「○○ちゃん家って、家が二軒も

 あるんでしょ、それって狡いよ。」

「あれは、お祖母ちゃん家だよ。」

官舎に住んでいる同級生に言われ、

軽い気持ちで答えた言葉が、

「じゃあ、引っ越ししたら

 今の家を、ちょうだい。」

「お母さんに聞かないと、

 わからない。」

 

そこから、いつ引っ越すのか?

そのうち、嘘つきと言われる

ようになったらしい。

 

たしかに家をたてた頃、いつ頃

引っ越すのかと、聞かれたことが

あったが、まだ引っ越さないと、

伝えていたと思う。

 

4年生になり、同じクラスになった。

彼女は、頭がよく先生受けも良く、

友達も多かったからか、発言力が

あることを、さほど気にせずに、

軽い気持ちで行った言葉

 

「○○ちゃんは嘘つき。」

が、回りに広がりいじめに発展

することになったようだ。

 

娘は目立つ存在ではなく、大人しい

性格だったが、幼稚園のときには

仲が良かった子に、酷いことを

言われたことがショックだった

のだろう。

 

私が、信じられなかったのは、

そんな子供達が、平気で家に遊びに

来ていたことだった。

 

懇談のときに、先生に相談した。

その時の担任が、しっかりした先生で

彼女を頼りにしていたことを反省され

早急に、対処すると言われた。

 

数ヵ月後、彼女の家族は官舎を出て

転校していった。

他の子供たちも、以前ほどかまわなく

なったらしい。

 

娘の人を見る目は、変わった。

人がいろんな面を持っていることは、

知っておいたほうが良いと思う。

 

人を信じるのも、信じた人に裏切ら

れるのも、自分の責任だから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私、働けるのかな?

職業安定所に相談をに行くと、

短期なら半年で、局の仕事がある。

書類整理と雑用や電話番など。

 

面接に行くと、翌日から出社する

ことになった。

課の人は、すぐに出掛けたので、

書類の整理をしていたら、食堂の

人から依頼が来た。

50人位の食事を作るため、2人だと

間に合わない時もある、手が空いて

いるときだけでも、手伝ってほしい。

と、言うことだった。

 

私が、家政科卒業だと知っている

みたいなので、上司が良いのなら

と伝えると、とたんに待遇が、

良くなった気がする。

 

原動機付自転車で、通勤して

いたので、1月の凍結した橋の上を

通っていたときに、滑って転けた。

怪我はなかったので、気を付けてね

で、終わった。

就業期間が過ぎて、無事終了した。

 

家のことは、大丈夫そうだし

なんとか働けるとは思ったが、

長女が納得するまでは、家にいる

ことにした。

 

 

 

 

 

 

これから、どうする?

何らかの行動を起こすときや

何かを決定するときには、

自分で決めてきたが、そのとき

関わる人がいたり、情報が入って

くることが多い。

 

高校三年生のとき、校舎の

二階から声がした。

見上げると、 生徒指導室の窓から

先生が首を出し、手招きをしている

 

何かしたかな?

と、思いながら部屋をノックすると

中から開けてくれた。

食物類型の、厳しいと評判の先生だ。

 

「コーヒー飲む。」

席につくなり、尋ねられた。

砂糖とフレッシュクリームをつけた

コーヒーセットが置かれた。

 

苦いのが苦手な野出、助かった。

そして、本当に美味しかった。

「まだあるから、持って帰りなさい。」

 

就職先が、まだ決まっていないのなら、

と、就職案内の用紙を見せられた。

有名な会社の、第三セクター的な

就職先だった。

 

募集は二名、面接のみ。

サービス業で、五月開園。

「面接受けます。」

「倍率高いよ。」

私は、フレッシュクリームを

受け取って、帰った。

 

行くべき所には、行くように

なってるんだと思う。

 

それ以降も、何かを決めるときや

時期は、スムーズに行くときと、

予想外の用事が入って、動けなく

なることがあった。

 

これからは、行動をするとき

なのかもしれない。

とりあえず、六ヶ月間だけ

短期で仕事をして、子供の様子を

みようと思った。

 

 

 

 

 

時の流れるままに

田舎の朝は、早い。

朝食を作り、洗濯を干すと、

みんなが出掛けて、息子と二人だけ、

 

家が日本家屋のせいか、部屋数が多い

もちろん、使ってない部屋もあるが、

片付けを済ませて、乳母車に子供を

乗せて、日光浴を兼ねた散歩をする。

 

近所に住む、同じ年の子を持つ

奥さんと、言葉を交わす。

田舎の情報網は、早い。

仕事から帰ってきた、お母さんに

「今日、近所の人と話してた?

 あまり、長話しないほうがいいよ。

 誰が見てるか、わからんから。」

えっ、それは良くないことなの?

 

お母さんは続けて、話した。

「何処の、お嫁さんが早く洗濯物を

 干すかとか、何をしてたとか、

 よく見とる人が、おるから」

 

あっ、それで、早く起きたほうが

良いって言ってたのか。

私たちは、嫁同士勝手に、競争

させられていたみたいだ。

さすが、地元の情報には詳しい。

長く住んでるだけあるわ。

 

二年の時が過ぎて、長女が生まれた。

もう、田んぼも手伝っていた。

小さいときから、してるので

大体の、手順はわかる。

 

六年後、少し離れた所に、家を

新築した。

夫は、今の家に当分住むことを

提案した。

お母さんは反対したが、お父さんは

納得してくれた。

 

妹は少し前に、嫁いでいた。

地鎮祭や餅なげは、みんなでしたが、

二人だけの引っ越しになる。

私たちの部屋もあるので、かなり

広い家になった。

 

その年に、妹が出産したあと、

実家に里帰りしてきた。

次の年、私は仕事を始めた。

 

 

 

 

 

家事はたいへん!

一ヶ月後、私は長男を抱いて、

夫の実家に帰った。

これから、みんなで家庭を守ろう。

 

以前は、祖母が家事をしていたらしい。

18歳から働きに出た、母の代わりに

孫を育て、家事をこなし畑までして

しっかりもので、優しくて、夫の

母親代わりだった祖母が、亡くなった

ときに、夫はどんなに悲しかっただろう。

 

ちなみに、祖母の命日は、私の祖父の

命日の一日前でした。

 

葬式後、偶然出会い、付き合いだした。

夫は、初めて会ったときに、この人と

結婚するだろうな、と思ったそうだ。

 

そこから、7年後に結婚した。

家に帰った日から、夜泣きが始まった。

 

母乳を、3時間ごとにあげた後、

残りを絞り、寝ても1時間かかる。

2時間後には、授乳の時間になる。

 

7時前に起きて、台所に行くと、

母が起きて朝御飯を作っていた。

「おはようございます。

 すいません、遅くなりました。」

「5時ぐらいに、起きれたら良いね。」

私は、眠れなかったので、と言う

言葉を飲み込んだ。

 

母は、8時には仕事に出掛けた。

「大丈夫?」と聞く夫の言葉に、

女性が三人もいるから、大丈夫でしょ

と、答えたが、そう甘くはなかった。

 

「私は、もう家事をしなくても

 良いよね。」

と、言って、妹は学校に行った。

 

その日から、昼食を食べに帰ってくる

父と夫のために食事を作り、5時に

帰ってくる家族に夕食を作りながら

家事をこなし、育児をする。

 

8時過ぎに帰ってくる、夫の夕食を

用意してから、子供を寝かす。

後片付けをした後、お風呂に入り

洗濯と風呂掃除をしたら、授乳を

して、就寝になる。

 

まっ、こんなもんか、とは思ったが、

子供が泣いても、用事をしてると、

かまってあげられないのは、

辛かった。

 

夫は、仕事が忙しいときは、

10時を過ぎることも、ざらにあった。

 

「お母さんは、婿とりだから嫁の

 苦労はしてないから、大変かも

 しれない、」と言って、心配していた

母の言葉を思い出したのは、

 

お母さんの、この言葉を聞いた

ときだった。

「お母さんに、「あなたが、嫁だったら

 私は、どんなに楽ができるかなぁ。」

と、よく、言われた。」

「お母さんは、畑や田んぼにも出て

たんよ、家に、いたら良いなんて、

楽でええなぁ。」

お母さんに、悪気はないと信じよう。

 

私が、仕事に行っても良かったけど

お母さんは、子供が苦手らしい。

お母さんは、私にどうして

ほしいのかな?

 

これも、試練か!

そうなら、未来の自分のために

頑張ろう。